人形
洞田 獺
人形
研究所には断続的な揺れが続いていたが、それに慣れきった私には寧ろ安心感を抱かせるもので、ストレスなどは感じなかった。
ここに配属されたばかりのころは随分と揺れに悩まされたものだ。当時この研究所で数少ない若手だったことから少々孤立していて、その緊張も相まってよく寝付けなくなった。あんなに意気揚々と入ってきて次の日から寝不足に苛まれていたのだから今思えば恥ずかしい。きっと滑稽に見えていたことだろう。まあそれがウケたのか先輩達には予想外の厚遇を受けることになったのだから存外悪い思い出ではないけれど。
コーヒーの漆黒に思いを馳せていた私を一際大きい揺れが襲った。追憶を映す液面が乱れ、立ち昇る湯気が代わりに差し迫る危機を想起させる。
思わず目を背け部屋中を見回した。切れかけの電灯がチカチカと激しいコントラストを生み出している。ここには私のことを酷くからかった彼も、酒癖の悪い彼もいない。ただ私物が放棄されたデスクがその存在を象るような抜け殻と化していた――私の真後ろのデスクを除いては。
「先輩、今の揺れ、大丈夫でしたか」
「……これから一層酷くなるだろうから、このぐらいは」
そうは言いながらも、先輩は手元で必死に人形を動かしている。可愛らしいフリルスカートの洋人形。先輩の机には大量の人形が置いてある。作業スペースを圧迫していたため何度も片付けろと忠告されていたそれは、彼女にとって一種の精神安定剤のように働くらしい。しかし、流石にこの状況で平常心を取り戻す程の劇的な効果は無いようだ。卓上の人形を私には理解できない彼女だけの法則に従って並び替え、突然静止したかと思えば短く譫言を呟き、また駆られるように動き出す。見るに堪えない。私は我慢できず声を掛けてしまった。
「先輩は、その、何でこの研究所になんか来たんですか」
彼女は嫌そうな顔をして一瞬無視しようかという逡巡を見せた後、手元のそれがもはや役目を果たせないことを悟り会話に応じてくれた。
「何で……と言っても。ただここが地元で唯一専門的な研究ができる場所だったからな」
「先輩ってここ出身だったんですか」
私は意味が無いと知りながら窓の外を眺めてしまう。外灯の抵抗も虚しくタールのような夜闇が山肌を染め上げている。先輩の研究熱を鑑みれば地元という場所に縛られていることが意外だった。より高度な研究のためにいつ出て行ってもおかしくないと思っていたのだが。表情に出ていたのだろう、先輩は観念したように真実を白状した。
「違和感あるかな、いや、あるだろうな。こんな状況で隠し事をするのも野暮か。私が地元にいるのは、家族のためなんだ。今日みたいな日に真っ先に連絡できるように。浅ましいかな、家族のために、いや私一人のエゴで研究をしていたんだ」
私にとってこの真実の方がよっぽど奇っ怪だった。普段レポートで誤字をするたびに揚げ足を取り、人の心が無いような毒を吐くため無機物というあだ名を付けられ、空気が読めな過ぎて会話に誘われない先輩がそんなに無垢なことを言うなんて。世界征服の第一歩とか言われた方がまだ納得できる。
「何を考えているかは痛いほど分かるぞ。心外だな。第一そういうお前はどうなんだ。私だけ話すのは不公平だとは思わないか」
「そんなこと、いつも言ってるじゃないですか。私は巨大なエネルギーが好きなんですよ。人間じゃどうにもならないような生命が」
「そうだったな……なんか気持ち悪いな。どっかの自然宗教みたいで」
ひどい、と言う口を、今日で一番の轟音と衝撃が塞いだ。残された時間もあとわずかであることを知る。アラートが再び鳴り出したが、私と先輩は互いを見つめるだけだった。もはやここですべきことは残っていないと確認し合うようだった。役割の全ては既に果たされて、私たちは幕が落ちる舞台の上で意地汚く居座っているような、無駄に名残惜しむような感傷に絆されていた。
そう、丁度先程まで、先輩と私は業務に追われていた。一度目のけたたましいアラートが鳴ったその後は、観測報告に必要なデータをかき集め本部に送信する必要があった。年に数回の訓練はその恐怖が現実となった際にまるで役に立たなかった。あの緊張、臓腑が潰される様な圧迫感と伴って訪れる嘔気、意識の混濁。しかし送信が完了し、すぐさま市街地に避難指示が発令されると彼女と私はお役御免となってしまった。酷い虚脱と、一種の使命感によって抑えつけられていた詮方ない絶望が、どっと、まるで長泳の後に砂浜へ上がった瞬間のように圧し掛かり、私はただ無言になって糸の切れたマリオネットのように椅子に凭れていることしかできなくなった。対照的に彼女は狂ったように人形を弄り始めた。思えばあの後無理にでも会話をしておくべきだったのかもしれない。こんなにも後悔するぐらいならいっそ……。
「なあ、お前はさ、今日みたいな日が来ても本望だったのか?」
回想から現実に引き戻される。今やデスクの上にある全てを振り落とすような揺れが続いている。ある程度の地震は織り込み済みで作った耐震構造の建物だろうが関係ない。巨大な力は無差別に室内を破壊していく。床に固定されたデスクにしがみつき必死に揺れに耐えることしかできない。本望か。昨日までなら言えたその答えは、恐怖に捻じ伏せられようとしていた。結局恐怖もまた自然の持つ抗いようのない力なのかもしれなかった。
「私はさ、本望だと思ってたんだよ、家族が助かるなら。そもそも犠牲としてここに来たと思ってたんだ。私は皆とは違うから、人形になろうと思ったんだ。人形なら生きているだけで迷惑なんて掛けない。でもなれっこない。私は人間を辞められない。この期に及んで死ぬのが怖くてしょうがない」
皆と違うというのがどういうことなのか私には分からない。しかし、彼女にとっての家族はきっと大切で、そのあまり触れられないものだったのだろう。そして、彼女のにあの行動、人形の並び替えは一種の儀式だったのかもしれない。彼女が無感情で、無表情で、痛みも苦しみもない存在、つまり人形になる為の。なんて馬鹿げている。
「ふざけてんですか先輩。死ぬのが怖いなんて当たり前のことじゃないですか。生きる限り迷惑をかけ続けるのだってそうです。私なんか今日みたいな日が来たら真っ先に逃げようと思ってましたよ」
突然の罵倒に先輩は目を丸くして、そこから数滴の涙を零しながら何がおかしいのか笑い出す。
「そうか、それは災難だったな。私らも遊びに行ってしまえば良かったな。こんな仕事なんてほっといてさ。ああ、後悔ばっかりだ。みじめだ」
「後悔ばっかりですよ、生きるのなんて。これまでもそうだったでしょう、先輩も同じかは知りませんけど。そして死ぬときは皆みじめです」
揺れは強さを増して行き、遂には強化ガラスの窓さえも何枚か割れている。建物は歪み、地盤も影響を受け斜めに傾いた。あまりの揺れに手を離した先輩が向いのデスクからこちらへ飛んでくる。私は彼女の骨ばった腕を掴み、椅子をどかし机の下に招待する。続いて私もそこへ入った。
「残念だが助けは来なかったな。まあ報告の時点であいつらが戻って来ようと無駄死にするのは分かっていたから、これでいいんだが」
「きっと上手く逃げてますよ、先輩達も、家族も」
デスクの下、その窮屈な暗がりで身を寄せ合う。
「それにしても、いつもあんな態度のくせに人に迷惑かけたくないなんてよく言えましたね」
「仕方がないだろう。どれだけ努力しても性格までは変えられなかったんだ。お前も迷惑ならもっと反抗しろ」
電灯がいくつか落ちた音がした。部屋は夜に近づいていく。
「嫌ですよ。私は先輩に迷惑かけられるのが好きなんです。そう、愛しているんです」
「あー、お前の気持ちには応えられない。責任とか取れないから」
「いいんですよ後先なんて考えなくても。だってもうないですし」
緊急電源も尽きて全ては不可視になったが、それが気持ちいいほどの夜だった。きっと今日は新月だろう。
「そういえば先輩は人形になりたかったんですか。例えばさっきみたいなフリフリの服とか着たかったんですか?私先輩が白衣以外を着てるの見たことない」
「おいおいまだ茶化すのかよ……そうだな。甘やかして欲しいって意味じゃそうなのかもしれないな。着たいかどうかは、まあ否定しないが」
私の目には何も映っていないけれど、すぐ前にドレス姿の先輩がいて。
「でも人形になるのなんて死ぬのと同じですよ。誰にも迷惑かけられず、甘えられず文句も言えなくて後悔もできないなんて。それなら死んでからなればいい」
「ミイラか剥製になれって?」
世界の爆発が訪れて、終ぞそれはやってくる。全身をぶつけながらも不思議と意識を保っている私は手を広げ、先輩に近づいて。丁度先輩もそんな姿をしていて。
「先輩。ポンペイって行ったことあります?」
「綺麗になれるといいな。人形に」
抱き合った二人を、灼熱の火山灰が包む。
人形 洞田 獺 @UrotaUso09
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