第5話ー⑤ 母
どうしよう。なんでこんなタイミングに――
突然の母との再会に心の準備ができていなかったももは、硬直してぼうっとその場に佇んだままだった。
「もう着いてたんだ。ごめんね、ちょっと買い物に行っていただけなのよ。こんなに早く来るなんて思わなかったから」
「う、ううん。私も、連絡いれなくてごめんね」
何とか声を絞り出し、ももは答える。
そんなももの言葉を聞いた途端、母の表情が唐突に暗くなった。ももは冷たい手で心臓を撫でられたような感覚がする。
私、何か気に障ることを言ったのかな――
「娘が親にそんな気を遣わなくていいのに。ほら、お家に入ろう」
昔のような優しく温かい笑顔を母から向けられ、ももは目を丸くした。
「う、うん」
もっと警戒されると思っていたのに――ももは玄関に鍵を差し込む母の後ろ姿を黙って見つめながらそう思う。
母は玄関の扉を開けると、
「おかえりなさい、もも」
ももに振り返り、笑顔でそう言った。
昔のような温かさがそこにはあった。自分が小学生に戻ったような、そんな気さえする。
ねえ、ママ。私はママにどう返していたんだっけ――?
「た、ただいま……ママ」
少しぎこちない言い方だっただろうか、とももは内心気にしながら、家の中に入っていった。
リビングに通されたももは、部屋の中央にあるソファに座った。
「なんだか落ち着かないな」
そう呟きながら、ももはきょろきょろと部屋を見渡す。
その時、ももは少しの違和感を覚えた。
大型の液晶テレビ。棚の上にある可愛らしいインテリア雑貨と、幼い自分が映る写真――
ほとんどの物が以前と変わっていない。けれど、この部屋の何かが微かに変わっているような気がしてならなかったのだ。
「ももはココアでよかったわよね」
母の声にハッとしたももは、母の方に顔を向ける。
「あ、うん」
ももが気の抜けた声で返事をすると、母は嬉しそうにキッチンの方へ消えていった。
「ママが、笑顔に……」
こんなにあっけなくていいの? 私が望んでいたものって、こんなに簡単に戻ってくるようなものだったの――?
キッチンの方を見つめながら、ももは困惑する。
それからキッチンから出てきた母は、机の上にピンク色と赤色の二つのマグカップを置き、ももの隣に座った。
ももは置かれたピンク色のマグカップに目を向ける。
チョコレートを溶かしたような茶色。甘い香りが幼い頃の懐かしい思いを蘇らせてくれるようだった。
ももはマグカップをそっと手に取り、ココアを口に運ぶ。
そういえば。ママのココアは、いつも優しい笑顔のような味がしていたな――
カップから口を離したももは、そんなことを思った。
本当にもうママは大丈夫なのかもしれない。こんなココアを作れるのだから。こんなに笑顔でいてくれるのだから。
ももは隣にいる母に視線だけ向け、小さく笑う。
「ももが元気そうで本当によかったわ」
母はマグカップをなでながら、笑顔でそう言った。
「ママも。昔のママに戻ったみたいだね」
「何言ってるの? 昔も今もママはもものママじゃない」
「そうだよね! でも――元気になってくれてよかったよ。本当に」
それからももは母と当たり障りない会話を続けた。最近できた喫茶店の感想や隣の家の家庭事情――それは普通の母と子が話すような、普通の会話。
しかし、あくまで母は自分の身近であったことを延々とももに語り続けているだけで、自らからももの近況や学校でのことを尋ねることはしなかった。
私から話すのをママは待っているのかもしれない。そう思ったももは、「そういえばね」と母の会話を遮って言った。
「今年、私も卒業でね。進路のことを迷っているんだけど――まだ能力者ってこともあるから、なかなか決まらなくって」
ももの言葉に母は手をピタリと止める。それから母が言葉を発することはなかったが、ももは気にせずに話を続けた。
ママは私の不安をいつもの優しい笑顔で聞いてくれる、励ましてくれるはずだと信じて。
「やっぱりまだ風当たりが強いのかなあ。ほら、私って『うさぎ』になっちゃうし、もしかしたら人を襲うかもとか思われているかもしれな――」
ガシャンと食器が割れる音が聞こえると、ももはハッとして隣に座る母の方を見遣る。
すると、母は身体を小刻みに揺らし、頭を抱えて小さくなっていた。
「ママ!?」
「ももは、ももはもう化け物なんかじゃない。私が生んだのは、あんな化け物じゃ――」
「え?」
「ももはココアが好きで、ちょっと頭が悪くて、可愛いものが大好きな普通の子。あんな、あんなのじゃ」
「どうしたの、ママ! ねえ!!」
「違う。ももはあんなのじゃ――」
母はももの声が聞こえていないのか、ずっと一人で呟き続けていた。
「なんで。どうしてこうなっちゃうの……」
やっぱり私がここに来ることが間違いだったのかもしれない――
ちゃんと受け入れてもらえている、と思いたかった。けれど、そうじゃなかったんだなとももは察する。
「ああ、やっぱり馬鹿だな私は」
空しい気持ちになったももは、ソファに身体を預けた。そして呟き続ける母の方をちらりと見て、眉間に皺を寄せる。
「ごめんね、ママ。私のせいで……」
数時間ほどして、父が帰宅した。真っ暗なリビングを見て、父は驚きながら電気をつけて入ってくる。
「た、ただいま……どうした」
頭を抱えて小さくなったままの母と、俯いて座るももを交互に見ながら父は尋ねた。
「ごめんね。私のせいで、ママがまたおかしくなっちゃったの……」
「え?」
そして父は母の傍に寄り、「帰ったよ」と伝えると、泣きじゃくりながら母は父の胸の顔を埋めた。
「ちょっと部屋で休もうか」
父はそう言って母の肩を抱き、リビングを出て行く。ももは扉が閉まる瞬間までじっと二人の様子を見つめていた。
扉が完全に閉まりきると、リビングでは物音ひとつ聞こえないほどの静寂が訪れる。
するとしんっとしたそのリビングに、孤独が顔を出した。
この世界には自分以外いないと思わされるくらいの圧倒的なその孤独は、悠然とリビングを彷徨い歩く。
普段はその孤独に怯えることの方が多い。しかしももは今、その孤独に安堵の気持ちを抱いていた。
ああ、やっとママから解放されたんだ――と。
それから急に重い何かが肩にのしかかるような感覚がして、自然と視線は下の方へ向く。
「そうじゃないでしょ。背中を押してもらったのに、励ましてもらったのに」
送り出してくれた彼の顔を思い浮かべ、ももは申し訳ない気持ちで頭を抱えた。
ごめんね裕行君……私、失敗しちゃった――
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