愛の記憶

深海 悠

愛の記憶 #1

「いらっしゃいませ」

 店内に懐かしい女性の声が響く。

 閉店間際の店内には店員である彼女以外、誰もいなかった。

 買おうと決めていた薔薇を手に取り、カウンターにそっと置いた。

「ご自宅用ですか?プレゼント用ですか?」

「プレゼント用でお願いします」

「承知いたしました。少々お待ちください」

 慣れた手つきで茎の切り口にアルミホイルを巻いていく様を見ながら、あれからもう十五年が経ったのだなと一人感慨に耽っている間に花束が完成していた。

「お客様?」

「すみません。ぼうっとしていました」

 慌てて財布からお金を取り出し、トレイに置いた。

 彼女がお釣りを置いた直後に「そういえば」と切り出した。

「名字、変わったんですね」

 トレイから小銭を取ろうとした彼女の指が、空中でピタリと止まる。

 我ながら軽率な発言だったと後悔したが、この機会を逃せば、もう一生話せないと思った。

「前は、確か立花たちばなさんでしたよね」

 内海と書かれた名札をエプロンに付けた彼女は、僕の顔をじっと見て、「ええ」と言った。

「信じてもらえないと思いますが、十五年前、僕はスターチスという花だったんです」

「え?」

 彼女が戸惑う様を見て、前世の自分を哀れに思った。だが、無理もない。学生服を着た男が、十五年前は花だったんですと言って、一体誰が信じるだろう。頭がおかしいんじゃないかと思われて通報されないだけでも救いかもしれない。

「あなたは売れ残った僕を家に持ち帰って、丁寧に育ててくれました。今日はあの時のお礼を言いに来たんです。一生分、愛してくれてありがとう、と」

 トレイに置かれたお釣りを財布に入れながら、僕は独り言のように呟いた。

 こんなことを言っても彼女を困らせるだけだと分かっていたはずなのに、店のガラス越しに彼女の姿を見つけた瞬間、あの日のお礼を言わなければと思った。

 たとえ忘れられていたとしても、伝えたいことはすべて伝えたのだから、それでいいじゃないか。そう自分に言い聞かせても、少しでも気を抜いてしまえば、彼女の前で泣いてしまいそうだった。

「変なこと言ってすみません。さようなら」

 そう言って、店を出ようとしたその時だった。

「お客様!」

 彼女の声に驚きつつ振り返ると、薔薇の花束が目の前にあった。

「商品をお忘れですよ」

 僕は彼女から花束を受け取った後、もう一度彼女に花束を渡した。

「この薔薇は、あなたへのお礼です。受け取ってください」

「え、でも・・・・・・」

「お願いします」

 彼女は僕と薔薇を交互に見た後、ふふっと笑った。

「ありがとうございます。一生、大事にしますね」

 彼女の笑顔を見た瞬間、僕は自分の生まれた意味を知った。

 僕は、彼女にもう一度会うために生まれ変わったのだと。

「また、いつでも遊びにいらしてください。お待ちしています」

 僕は彼女に一礼し、店を出た。

 見慣れたはずの夕焼けの空は、涙が出るほど美しかった。


◆◇◆◇◆◇◆


 家に帰ると、リビングから息子がひょこっと顔を出した。

「おかえり。今日は珍しくご機嫌だね」

「今日ね、不思議な人がお店に来たの」

「え、その人、大丈夫な人?警察には言った?」

「もう、変な人って意味じゃないわよ」

「それならいいけど。それで、どんな人だったの?」

『あなたと同い年ぐらいの男の子で、前世はスターチスだったんだって』

 そう言ったら、きっと息子は笑うだろう。

「秘密。それより、今日の晩御飯は何?」

「ドリア」

「やった。私、ドリア大好き」

 手を洗った後、部屋着に着替えようと寝室の扉を開けた。

 不思議な男の子からもらった薔薇をガラス瓶に入れ、クローゼットの扉に吊り下げたスターチスのドライフラワーを軽くつついた。

「一生分、愛してくれてありがとう、か」

 今日もらった薔薇も、いつかは人になって私の元へ来るのだろうか。そんなことを考えながら、息子の待つリビングへと向かった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る