自由
ききききき
自由
まだ太陽が姿を見せない頃に起きて、顔を洗おうと水道のレバーを捻った瞬間に排水栓から蝶々が飛び出してきた。数え切れないほどの蝶々はあっという間に室内を埋め尽くした。一匹の黄色の蝶々は鏡に入り込んで次第に鏡の奥へと姿を消した。二匹の青色の蝶々は空中で衝突したかと思うと、次の瞬間には消えていた。三匹の赤色の蝶々は流れ出る水に打たれ、三匹揃って灰になった。このようにして、数百匹を超えるであろう蝶々は各々の方法で消えていった。私はそれを呆然と眺めていた。
蝶々が消え失せた後には、水の流れるザーという音がしつこく室内に響いた。私はその音を不快に感じて水を止めた。静寂の中でつい先ほどの出来事を思い出してみる。肘を曲げて手のひらを脇腹に押しつけ、稼働し切っていない頭を回し、目線を少し上にやって考えるうちに、ああ、これは夢なんだなと納得した。そして顔を洗った。
空を飛んでみようと思った。しかし、そう願っても羽は生えなかったし、念じることで体が浮くなんてこともなかった。二階から飛び降りて飛翔能力を得ているか確かめる勇気はなかった。
変に期待していた分、飛べなかったという失意は大きく、何もしたくなくなった。ただ、お腹が減っていたから何か食べようと思った。冷蔵庫に入っていたサンドイッチと二リットルペットボトルの炭酸水を取り出して、テーブルについた。サンドイッチを買った記憶はなかったが、気にしないことにした。食べ終えた後は歯磨きをせずに布団にもぐった。そうして布団の中でだらだらしているうちに日が昇り、午前が終わった。
二冊目の小説を読み終え、その余韻に浸っていた時、ふと仕事のことが気になった。今日は平日でこの時間は本来職場にいるはずだった。
まあいいか、と思った。これは夢なんだから気にする必要はない。
それより仕事のことを考えてしまったせいで憂鬱な気分になった。正しくは同僚のあいつのことを考えて、最悪な気分になった。今日は平日だからこの時間は本来あいつと隣り合って書類に追われているはずだった。
ああそうだ、と思った。これは夢なんだからあいつのことを殺してしまおう。そうして鬱憤を晴らそう。思い立ったが吉日、私はすぐに彼に連絡をした。
町外れの建物の屋上は真っ暗だった。明かりと呼べるものは月明かりだけでそれも頼りなかった。大して高い建物ではないのに、人々の話し声や建物から漏れる明かりなどの地上の気配が感じられない。そもそもここはどこだったかな、と思ったが、深く考える前にどうでも良くなった。夢だから思考回路が麻痺しているのかもしれない。
私はボロボロのフェンスにもたれてあいつを待った。十五分たたないうちにあいつが現れた。あいつは」薄闇の中に私の姿を認めるとズカズカと歩み寄ってきた。なにか話しているようだった。私には聞こえなかった。あいつとの距離はまだ十メートルはある。フェンスから体を離し、足元の包丁を拾った。二万円近くしたなかなかの高級品だ。重量感あふれる柄を利き手でしっかりと握る。あいつは私が包丁を持っていることに気づいていない。
あいつとの距離が五メートルくらいになったところで勢いよく突っ込んだ。あいつがぎょっとして硬直しているうちに包丁を横一文字に振りぬく。せっかくの高級品を正しい用法で使えないのが後ろめたくて少しだけためらった。しかし、狙い通りあいつの喉仏を掻っ切ることに成功した。ぺちゃぺちゃと下品な音をたてて、コンクリートの地面に血が飛び散った。私の顔や服にも血がついてとても不快だった。
あいつは傷口を両手で押さえて膝をついた。私に構っている余裕はないみたいだ。
人間って意外と丈夫なんだな。そう思いながらあいつの頭をがっちりホールドし、顔面に膝を叩き込んだ。私は小柄で非力だと自負しているけど、まあ痛いだろう。ジーンズがあいつの血やら涎やら涙やらの液体で濡れて、最悪な気分になった。それに膝蹴りをしたせいで靴の上に首から出た血が降りかかってしまった。それが嫌で飛び下がると、あいつがどちゃっと顔面から倒れ込んだ。月明かりに照らされた赤黒い血が歪な円形に広がった。私はその様子をぼんやりと見下ろした。この時期にしては冷たい風が吹き、血に濡れた箇所が冷えた。そして、数分の後に首に包丁を突き立てた。
死体と包丁を放置して、家に帰った。運良くというべきか当然というべきか、家にたどり着くまでに誰とも会わなかった。帰宅するなり、血の染み込んだ衣類を抱えて浴室に入り、まず肌についた血を洗い流した。温水を浴び、血のついた部分を優しく擦る。紅色の血が薄く伸びながら流れていった。シャワーを浴びているうちに血のついた衣類を洗う気がなくなっていた。仕方ないから隅に寄せて置いていた衣類を浴室の外へ放り投げた。
シャワーを浴びて着替えた後は湿った衣類をビニール袋に入れて廃棄し、寝ることにした。嫌いなあいつを殺した以外に何かした記憶はないが、疲労感は大きかった。布団に潜り込んで目を閉じる。
ああ、いい夢だったな。
自由 ききききき @kikikikiki_256
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