神様の気紛れ



 とくとくとくとく――透明なグラスへ注がれた赤い液体を見て、エスターが顔を顰める。


「未成年だろ」


 それはあくまで今いる極東においては、の話であり、滞在する国によって飲酒のできる年齢であったりそうでなかったりするルカは――けれど、そんな屁理屈は捏ねずに――にこりと笑った。


「残念でした」


 ついさっきから合法よ――そう言って、驚くエスターへ見せつけるようルカが飲み干す葡萄酒は、どこかの死神が差し入れにと持ってきた物だった。


「誕生日なのか? 今日が?」

「そうよ。知らなかった?」

「知るわけないだろ、聞いてないんだから」


 憮然とするエスターにくすくす声を立てて笑いながら、ルカは頷く。そうね。


「確かに、あなたは私に誕生日なんて聞いたことないわ」


 くるくるとグラスの中で回される二杯目の葡萄酒が――ルカがそれを手にしているというだけで――「本当は血液なのではないか」と愚かな妄想を抱いてしまったエスターは、さり気なくルカの手元から視線を外した。そんな恐ろしいことを――ルカならやりかねないと、分かっていたから。

 たとえ手にしたグラスの中身が鮮血だろうと、飲み干すことを躊躇いはしない――ルカはその上に、そんなものを他人から貢がれたとしておかしくはないほど殺しすぎてもいた。


「どうせ忘れていると思っていたんでしょう。私が私の名前を忘れていたように。だけどお生憎様、私は私の誕生日をちゃんと憶えていたの」


 そしてそれは、今日よ。


「今日という日に、私は生まれた」


 死に瀕したルカが生きるためどのような選択肢をし、それがどのような結果を世界へともたらすか――あらかじめ知ることができれば誰も望みはしなかっただろう己の誕生を、ルカはただ自分自身のために祝った。今ここに生きているという事実――愛しい死神に出会うことができた現実――に心の底から歓喜して――葡萄酒の入ったグラスを掲げる。

 透かし見た命の色は、どこまでも澄み切っていた。


「おめでとう、私」


 そして口をつけた葡萄酒の味をルカは気に入って、またいつか同じものが飲めるようにと、ボトルのラベルを写真に撮ってとっておいた。


 それからしばらく経って唐突に「あの時の葡萄酒が飲みたい」と思い立ってしまったルカは、確かに撮っておいたはずの写真が見つけられずに首を傾げる。

 携帯で撮った写真はパソコンへバックアップされるよう――ゼスが勝手に――設定していたからきっと、どこかに保存されてはいるはずなのに見つからない――普段からそういうことをゼスへ任せっきりにしているルカは、パソコンの前へ座ってから五分と粘れずマウスを手放した。


「ねぇ、大きいの――?」


 こういうことはゼスに直接聞いた方が早い――初めからこうしていればよかった――と、ルカはゼスのことを呼びつけながら息を吐く。けれどいつまで経ってもゼスがやってくるどころか、返事さえ返してこないことに気が付くと――ゼスは確かに、この「家」の中にいるはずなのに――どうしようもなくじっとしていられなくなって席を離れた。もうほとんど「ゼス専用」となりつつあるパソコンに背を向け――部屋を飛び出し――目についた扉を端から一つ一つ開いて中を確かめて回る。


「ゼス…?」


 最後に辿り着いた扉はどういうわけか、ルカ自身の部屋のものだった。ついっさきまですぐ隣の部屋にいたのに――どうして全ての扉を開けながら移動した自分が最後にこの部屋へ「辿り着いた」のだろうと、ルカは不思議に思うよりも不安になって、たまらず取っ手へ飛びついた。


「ゼス、いるの――?」


 果たしてそこに、ゼスはいた。この「家」ではルカにしか必要でないベッドへ身を横たえて。


 その姿を目にしてようやく、ルカは自分が死んでいるのだという事実を思い出した。他でもないルカがルカを殺した。最期の最後まで、ゼスを愛していたかったから。

 ならばここは、死後の世界というやつなのだろうかと、ルカは考える。夢にしては残酷だった。夢を見ている時くらい、ルカはゼスと話をしていたかった。二人の関係が永遠に取り返しのつかない終わり方をしてしまったことさえ忘れ――夢の中にいる時くらい、ルカはただゼスの傍で笑っていられるルカでいたかった。

 なのに自分は、ゼスの姿を目にした瞬間から涙を流してしまっている――だからここは死後の世界で、この状況は自分に対する罰の続きでしかないのだろうと、ルカは考えた。そうでなければやりきれなかった。

 ただ、「それでもいい」と思う自分がいることも確かな真実だった。

 笑いかけても、話しかけても、目を合わせてさえもくれなかろうと、もうゼスがいてくれるならそれでいい――その想いは、ルカが死の直前に抱いていたものでもあった。だからルカは、既に最低だった状況がそれ以上に悪化することを恐れて自ら死を選んだのだ。

 けれどもう、ルカは一度死んでしまっている。手元には大鎌どころかゼスに魔法をかけられた黒衣さえなく、わざわざ台所へ包丁を取りに行ってまでまた死のうとは思えなかった。

 どうしようもない程にもう死んでしまっているのなら、ルカはもう、許される限りゼスの傍にいることしか望みはしない。世界の意思によって無理矢理に引き離されてしまうまでは、ゼスに寄り添いながら満ち足りていた日々の思い出に浸っていたかった。


「すきよ、ゼス」


 死の間際にそうだったよう、跪きゼスの胸へと頬を寄せたルカはやはり泣いていた。どれほど流せば涙は涸れるのだろうと考えながら――力ないゼスの手と指を絡ませ――許しを乞うよう愛を囁いた。


 時は遡ること二年と少し。ルカに「さよなら」と告げられ、一人ぼっちで「家」に残されたゼスは、ルカを追いかけることもできずしばし呆然と立ち尽くしていた。

 何故ならゼスは、もう「さよなら」の意味を知っていたから。それが別れを意味する言葉だと知るゼスはけれど、そんな言葉をルカの口から聞かされることになるとは夢にも思っていなかった。ルカに「おつかれさま」と告げたゼスはそれでも、ルカが死んでしまうまでは一緒にいられると信じて疑いもしていなかったから。「さよなら」なんて言葉がルカから告げられるとは、ついぞ考えてもみない。どうしてそんなことになってしまったのかさえ、楽しいことばかりを考え続けてきた死神には分からなかった。

 ルカがいなくなった後、ゼスに残されたのは空っぽの「家」と、痛む心と、息が詰まるような苦しさ。

 どうしてルカは自分を置いて出て行ってしまったのか――考えているうちに、ルカが出て行ってしまったことこそがそもそも何かの間違いだったのではないかとさえ思えてきたゼスは、ふらふらルカの部屋へと歩いていき、当たり前に誰もいない部屋を――取り違えようもなく、ルカが自分を置いて出て行ってしまったのだという事実を――その目で確かめると、ついぞ立ち続けることさえままならなくなってベッドに倒れ込んだ。

 自分はルカに捨てられてしまったのだと気付いて――その時ようやく――ゼスは「絶望」という概念を実感として理解した。胸は軋む心そのままに痛み、体は末端の方から徐々に冷たくなりながら痺れていき、頭では何もまともには考えられなくなってしまう――これが「絶望」なのだとゼスは理解して、そしてそのまま意識を閉ざした。


 次にゼスが目を覚ましたのは、ルカに呼ばれたような気がしたからだった。「大きいの」と、ルカはもう、自分のことなど捨てて出て行ってしまったはずなのに。


「すきよ、ゼス」


 そしてゼスは、泣き濡れたルカの告白を聞いた。だからこそ、不思議に思ってルカへ尋ねた。


「じゃあどうして、君は僕にさよならなんて言うの?」


 ルカが戻ってきたことに対する喜びよりも、その時ゼスの中では疑問の方が遥かに勝っていた。「好き」が好意を示す言葉であることさえもとうに知っていたから。ルカが自分を「好き」ならどうして「さよなら」なんて言うのだろうと――捨てられたのだと気付いた時に覚えた感情を思い出して――ゼスはまた苦しくなった。


「僕も君が好きだよ、小さいの。だからさよならなんて言わないで、一緒にいてよ」


 そう言って泣いているルカを抱きしめたゼスは、ルカがもう死んでしまっていることなど知らない。

 同じように、ルカもまた目の前の「ゼス」が本当のゼスであることを知らなかった。


 だから笑って――心の底から泣きながら――ゼスにもう一度だけキスをした。


「あなたが私のことをちゃんと名前で呼んでくれるなら、ずーっと一緒にいてあげる」


 ルカの名前はそもそもゼスが付けたものだった。だから他の誰がルカのことを何と呼ぼうとゼスだけはルカを「ルカ」と呼ばなければならないと、ルカはその時何故かそう強く感じていた。それまで一度だって――ゼスが呼ぶならなんでもいいと――そんなことを気にしたことはなかったのに。


「ルカ」


 けれどゼスに呼ばれてようやく、ルカは自分が「ルカ」と呼ばれたかった意味を悟る。

 ルカは、殺戮の女神としてではなくゼスのルカ――ただのルカ――として、死にたかったのだ。


「そうよ、私はルカ。忘れないでね、ゼス」

「うん」


 遠ざかっていく意識にルカは、今度こそ終わるのだろうと思った。そしてやはりこれは夢だったのだろうとも。

 最後にルカのことを哀れんだか、情けをかけるかした世界が見せてくれた泡沫の夢。これならルカは、世界を恨むことも憎むこともなく――深い哀しみさえなかったことにして――ただ心安らかに逝けた。


「あなたのルカは、おばかな死神のことを世界で一番に愛しているんだから」


 そうして今度こそ、ルカは穏やかに目を閉じ意識を手放す。

 瞼の裏には、いかにも「幸せそう」に笑うゼスの姿がいつまでも張り付いていた。





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