手に入れた途端にも色褪せてしまうことがないもの



 その日もルカは人を殺していた。殺して殺して殺して殺して。殺し尽くすと、空腹を抱え座り込むでもなく空を見上げた。

 厚く雲の垂れ込めた空。今にも雨が降り出しそうな、曇天を。


「もうすぐ雨が降るよ、イザナミ」


 イザナミとは、ルカが死神の大鎌につけた名前だった。けれど本当はうっかり忘れてしまっていた自分の本名で、そもそもはルカが生まれ育った国の昔話に出てくる殺戮の女神の名前だった。

 自分の親が何を思って娘にそんな名前をつけたのか、ルカにはさっぱり分からない。けれどともすると、両親のうちどちらか――あるいは、その両方――がとても慧眼だったのかもしれないと、そんな風に考えてもいた。何故ならルカは――イザナミという名をすっかり忘れていたとはいえ――世界を呪った女神のよう、殺戮の限りを尽くすことを日常として生きているのだから。

 全くの偶然にしても不気味だと、ルカは思った。けれど後悔はしていない。死神に殺されてしまうはずだった自分が今も五体満足に生きられているのだから、何一つ、選び取った生き方に悔いるべきことなどありはしなかった。

 それに、ルカはいつまで経っても自分のことを「小さいの」と呼ぶサボりの死神のことが好きだった。心の底から気に入っている。

 それはたとえばゼスが望めば形振り構わずしがみついてきた命――生きるということ――を手放したとしても惜しくはないと思える程の感情で――愛とはきっとこういうものなのだろうと、ルカはとうに確信さえしていた。

 まだイザナミだった頃のルカと名無しの死神だったゼスが出会ってから、既に五年の月日が流れている。死なない死神にとってはあっという間のことかもしれないが、どんなに頑張ってもあと五十年は生きられないだろうルカからしてみれば、それは誰かを愛してしまうのに充分すぎる年月だ。


 ぽつぽつと降り出した雨に濡れながら、ルカはゼスやエスターとはまた別の死神に聞いた話を思い出していた。

 エスターよりも若輩で、けれどゼスよりは長く死神として人を殺してきたのだという死神が言うには、つい一年ほど前から死神たちの間で――ルカとゼスが行なっているような――「死神代行」の「契約」が流行しているのだという。雑に言えば「死にたくなければ代わりに殺せ」という取り引きだ。その結果は死神たちの予想に反して散々で、どの「死神代行」もすぐに心を病んで使い物にならなくなるか、自ら「殺してくれ」と死神へ懇願し始めるようになってしまう。ただの一人もルカのように黙々と人を殺し続けられる者がいないどころか、死神の大鎌を満足に扱える者さえ未だ現れていないような有様で――どうすればルカのよう仕事熱心な「死神代行」を得られるのか、その死神はゼスへと問うた。

 問われたゼスは困惑しきりだったが、そもそもそんな「契約」が上手くいくはずないのだと、ルカは知っていた。まず、前提条件からして間違いきっているのだから。

 もしも人と死神が取り引きするとして、第一にそれは「人」から言い出したものでなければならない。ルカがそうであったよう、自らの手で掴み取った奇跡でなければしがみつき続けていくのは困難だ。ルカでさえ、たとえばそれをゼスから提案されていたとして、その時は藁にもすがる思いで飛びつけたとしても、結末は違っていたように思う。それほどに、人の命というのは重いのだ。そんなことは、もう数えることも馬鹿馬鹿しいほどに殺し続けてきたルカでさえも知っている。

 そしてルカを今この瞬間まで戦場に立たせているのは、他でもない「ゼス」の存在だった。愛しい死神。「生きるため」と同等――あるいは、それ以上――に、今のルカは「ゼスのため」に人を殺している。死神である以上、殺さなければならない――けれど、殺すことに飽きた――ゼスのため。ゼスが笑いかけてくれるから、ルカは誰を殺しても生きていたいと思えるし、イザナミと名付けた大鎌のことさえ大切に、片時も離さず傍に置いておけるのだ。

 死神たちがゼスにとってのルカのような「死神代行」を得たいなら、死に逝く人に恋をさせればいい――半ば本気で、ルカはそんな風に考えていた。けれど誰にも教えてやったことはない。たとえどこかの「死神代行」が自分の死神を愛したとして、ルカのように大鎌を振るえるかといえばそれはやっぱり「否」だから。

 きっと誰も自分のように殺せはしないと、ルカは驕っていた。そしてその驕りに相応しいだけの実績を――死神たちが「ルカのような死神代行」を欲するほどに――確と有してもいる。誰も――どんな死神でさえも――ルカが優秀な「死神代行」であることを否定できはしなかった。殺しすぎる少女は――今やその体は、「少女」と呼ぶには些か育ちすぎてしまっているけれど――いつの間にか、世界から戦争を失くすほどに殺し尽くしていたのだから。


 あらゆる戦場へ――死に誘われたかのよう――現れる死神を恐れ、武力による衝突が忌諱されるようになった世界。きっとこの世で最後の戦場に立ち――降りしきる雨に濡れ――ながら、ルカは今にも手が届いてしまいそうなほど間近まで落ちてきている空へと両手を伸ばした。


「かみさま――」


 希うかのよう――それでいて酷く愛おしそうに――どんな死神よりも死神らしいルカは囁いて笑う。

 「神」はいる。世界がそうだと、ルカはとうに知っていた。ゼスのような生まれながらの死神は、世界の意思によって生み出されるのだ。増えすぎてしまった人を減らすため、抗い難い殺人衝動だけを与えられ、満足な感情さえ持つことなく解き放たれる。

 そんなゼスにまるでエスターたち「人上がり」の死神じみて豊かな感情を、他の誰でもなく自分が与えたのだという自負が、ルカにはあった。

 だから、伸ばす腕に躊躇いはない。そうすることのできる権利をこの世でたった一人有する己をルカは確信し、そんな自分を誇らしく思ってさえいた。


「私は沢山殺したでしょう? 沢山沢山、自分でもうんざりするほど沢山の人を、死神たちが呆れるほどに沢山の人を、世界が平和になるほど沢山の人を、死神の鎌が疼かなくなるほど沢山の人を――」


 増えすぎた人を――世界が不要と判じた数だけ――ルカは殺し尽くした。死神の大鎌を与えられたばかりの頃、泣き叫んで助けを乞いたくなるほどに強烈だった殺人衝動はついぞ、それがどれほどのものだったか思い出せなくなってしまうほど遠ざかってしまって久しい。

 世界に望まれた死神は、世界が望んだ数だけ――殺したいだけ――殺していればそれでいい。殺したくなければ殺さなくていいのだと、ルカはとうに知っている。そしてこれからも、その衝動に抗おうとは思わなかった。これまでだって、抗おうとしたことなど――ただの一度として――ない。


「あなたが満足するほどに、沢山の人を。私は殺した」


 だから――ルカは笑って、当然の対価を要求するよう「神」へと告げた。

 生き長らえるための対価はゼスへと払った。今もなお払い続けている。そしてこれからも払い続けていく。

 ゼスは世界から人を減らすために生まれた死神だった。けれどゼスの代わりに鎌を振るい続けてきたルカは違う。ルカはただの人だった。とうに死んでしまっているはずの、けれど「神」の意思に従って人を減らし、世界へ平和をもたらしさえしたただの人。

 そんな私にご褒美くらいくれてもいいでしょう――ルカはそう、降りしきる雨と垂れ込める雲に懇願した。


「あの人を私にちょうだいよ」


 それさえくれたら、他にもう何も望みはしないから――と。

 ゼスの「母」とも呼びうる世界へ切なる希望を訴えた。





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