箏音の響きは水紋のように

椹木 游

散りてなお 行きつ戻りつ 花筏

 一  箏の音や 夕暮れの 水紋かな



 新春、桜の舞散る高校の入学式。彩り豊かな高校生活が待っている。

 その大事な高校生活を一層彩るのは‘部活動’。早々に‘部活動選択期間’が始まったのだった。

 いろいろな部活動がパンフレットやポスターを出し、入部希望者を募る中、私もしっかりと選定したいと思い校舎を巡っていた放課後。

 そんな私は、思いとは裏腹に迷子になっていた。渡り廊下を行ってから見知らぬ教室がならんでおり、暗くなっていく辺りも相まって焦燥を感じていた。

 午後四時過ぎの四階建ての校舎の窓から差し込む光が影を伸ばす頃。

 ふと水の滴る音がした気がする。いや、よくよく聞けば楽器の音だということがわかる。

 ともあれ、楽器を演奏しているにしろなんにしろ人が居るかもしれないと思い、私はその音の導かれるままに歩みを進めた。

 やがて一つの扉の前にたどり着いた。筝曲部と書かれている。

 

 ――ツィン

 

 単音が響く。

 それはさながら鍾乳石から垂れ落ちた水滴が湖に落ち、洞の中に響くような深すぎる音色。

 この音が箏によるものであることに驚きが無かったと言えば噓になるだろう。


「……佐伯さん? 随分早かったわね」


 中からそういう声が聞こえてくる。恐る恐る扉を開けるとそこには一人の女子生徒がいた。

 先輩であろうその人は、凛とした正座をし、箏に斜めに据え、艶やかな黒髪から白い肌を覗かせ、目を閉じていた。しかしこちらの‘方’をじっと見つめていたのだった。

 返事につまり、一先ず思い違えている旨を伝える。


「わわ、ごめんなさい……どうりで足音が違ったわけですね。もしかして入部希望の方でいらっしゃいますか?」


 丁寧な言葉をすらすらと並べる姿は、きっと育ちがいいのだろうと伺わせるに十分だった。

 私は恥ずかしながらも迷子であることも彼女に伝えた。


「そうですか……私、目がよくなくってほとんど見えていませんの。いつもなら副部長の佐伯さんがいて対応をしてくれるのだけれど、今日は遅れてくるようなので、それまで不束者ですがよろしくお願いしますわ。近くに椅子があると思いますから、そこに座ってくださいませ。私は部長の七瀬 林ななせ りんです」


 目が見えない七瀬という少女は、こちらの方を向き話す。私は近くに置かれていたパイプ椅子に座った。七瀬 林は再び口を開いた。


「私はこの通り、案内においては使い物になりませんので、副部長の佐伯さんが来るまで、ゆっくりと疲れた足をお休めになってください。初めてだとこの学校は広すぎますから、無理ありません」


 ふと気になったことを聞いてみたくなった。彼女は一体どうやってこの部室に来たり、教室へ行ったり、あるいは移動教室などで別棟にいくのだろうと。


「いつもは友人でもある佐伯さんの送迎、あるいはまた別の、といった風に基本的に友人の方々に力添えをいただいています。一階だけなら壁と音の反射具合……といってもなんとなくの感覚に近いものを頼りにゆっくり行けばある程度自由に動けます。先生が許してはくれませんが」


 先手を打たれる。感覚が研ぎ澄まされているのか、はたまた私がそういう疑問を抱いていることが露呈していたのか。

 微笑みながら、しかしふざけているわけではないその表情からは、感謝の意が見て取れた。

 きっと友人が多いのだろうと、そう思った。


「……そうですわ! どうせでしたら一曲演奏しましょうか? ただ待っているのも暇でしょうし、私にはこれくらいしかできないものですから」


 思わぬ申し出に戸惑う。先ほどの音の正体が見れるのであればそれはそれで興味があるが、ただ単純に箏という楽器の日本的楽曲に疎い私は、聴いても感動できないかもしれないという恐怖に似た謙遜を抱いており、一体どうしたものかと迷ったが、好意を無碍にするわけにもいかず、『是非』と言わざるを得なかった。

 彼女はというと、再び箏に向き直り四角い爪の付いた右手三本の指を弦に添えた。

 一瞬の静止。環境音は一切止まり、鼻呼吸の音さえ大きく聞こえるほどの静か。


 ——ツィン ツァン


 指にはめた四角い爪と張りつめた弦の擦れる音と、爆ぜるような振動音。

 時折二本で、所謂和音を弾いたり、左手で弦を操作して震わせたりと様々な技法を用いて演奏された情熱的な音楽を目の当たりにする。


 ——バンッ


 どういう演奏すればそういう音が出るのか、非常に大きい、それこそ爆ぜるような音がする。

 徐々に早くなるそれは、気が付けば心臓がつられているようだった。

 終わった時が付いたときには夢のように、まるで演奏がなかったかのような静寂であったが、はやる心臓や浮き立つ鳥肌がその事象をとらえ残していた。


「ありがとうございました。その……、いかがでしたか?」


 往々にして目を見張る素晴らしいものを見た時にはそこまで深い感想を言えないものだ。

 私などはただ、‘凄かった’と伝えるしかできなかった。しかし私なりにその言葉には精一杯の‘重り’を付け、発したつもりだった。


「それはよかった。少しでも興味を持っていただけたら嬉しく思います。今のは“六段の調べ”と言って、箏を知る上では欠かすことのできない古典の曲です」


 白い頬がほんのり赤く、まるで桜のようにピンクにしながら淡々と話していく七瀬 林。

 恥じらう乙女は清楚ながら、若さの淫靡いんびだった。


「私は幼少期よりこのような目と付き合って参りました。箏と出会ってからそれ一筋で、今日に至ります。人付き合いもあまり得意ではなく、ほとんどの事を副部長に任せっきりでいます。私にはお箏しかありません。だからせめて心に少しでも響けばいいなと想いながら弾いています」


 語るや否や、手で口を覆ってしまう。本人的に突然語り始めたことに違和感を抱いたのだろうか、私としてはむしろそういう話を聞きたいほどに興味をもってしまっていたのだが。


「……そ、その、こちらにいらしてお箏に触れてみませんか? せっかくの機会ですから、あ、いえ、よろしければ、ですからね!」


 話を変えようと尽力している。そのお箏とやらに触れてみたい。どちらかと言えば、それを後ろ盾に彼女に近づきたいと思っていたのかもしれない。


「ええっと、確かこの辺に箱が……あ、ありがとうございます。この箱にお箏を弾くための爪が入っているのです。今から選定するので、少し右手の指を拝借しますね」


 華奢な手が私の手をやさしく包む。顔も距離も近く、見れば見るほど白雪のような純白を携え、どことなく‘いい匂い’を漂わせていた。

 ふにふにと指先が私の指をなぞり押す。華奢ながらその指先は異様に硬かった。


「すみません、お箏は爪とは別に指で弾くこともありますので、必然と指先が順応して硬くなるのです。痛かったらごめんなさい」


 雰囲気を悟ったのか、彼女なりに気にしているのかまた先手を打たれる。

 むしろ下心的感情を抱いていることがばれていないかの方が心配ではあった。


「ふむふむ……このサイズならこれは如何でしょう。指に嵌めてみてくださいませ。それで手首を揺らしたり振ったりした時にずれなければ、おおよそ合っているでしょう」


 そんな思いをよそに話は進んでいく。

 言われた通りの番号の箱に入った彼女のしているような四角い爪を親指、人差し指、中指と三つ分嵌めてみる。

 少々きつい気もするが、せっかく選んでくれたのだ。嵌めないわけにはいかなかった。

 しかしいざ嵌めてみると、きついが、取れることはなさそうだ。あながち間違ってはいないのかもしれないと思う。


「そうして指に嵌めたらば、お箏を正面にして右に四十五度くらいに傾け正座をしてください。私は慣れていますが、昨今は立奏と言って椅子に座っての演奏方法もあります。佐伯さんが居ればその準備も可能なのですが、今は……ごめんなさい」


 彼女は申し訳なさそうに眉をひそめた。

 これまでも何かするたびの第一声は『すみません』や『ごめんなさい』だ。謝り慣れているというよりそれが半ば癖になってしまっているようだ。日常的にいろいろあるのだろう。

 そんな考察をしている間に、気が付けば彼女は真後ろにおり、二人羽織の要領で教えてくる。

 耳元で囁きながら彼女に両手を持たれて人形のように動かす。いや、それでなくては、とても動けるような状態ではない。刺激が強すぎる。


「こうして右手をこの辺りに添えて、親指を七の弦に置きます。え? 距離が近い……? ごめんなさい! つい癖で、気持ち悪いですよね。ごめんなさい。一度、私が手本となりますのでその通りに弾いてみてくださいませ」


 癖というには積極的で、心臓が高鳴ってしまう。耳元で透き通った声が脳をすり抜けていく。

 催促される前に私は言われた通りに弾いてみる。


 —ツン


「ふふっ、どうです? 意外と大きな音が出るでしょう? 張りつめた糸から成される芯のある音。といっても不慣れは音に如実に出るもの。もし入部することがあれば少しずつ慣れて、芯のある音になっていくでしょう」


 聴くのとやるのは違うものだとは思っていたものの、その違いが本当に『如実』であったために驚いた。とはいえこんなにも違うものかと。響きはもちろん、音量から幅、そして決定的に、それでいて勘に近い感覚だったが、私の音はからだったのだ。


「少しいいですか? 右手は音を出す手、左手は音を変化させる手。押し手を使えば音を上ずらせたり、揺らしたりすることができるんです」


 再び近くなってしまう。本当に癖なのだろう。今度は左側の手を教えてくれる。

 引っ張ったり、押したり、いろいろと試してくれる。私がどの弦に爪を添えようとも、確実にどうやってか読み取って操作してくれるのだ。

 どこまでの実力かは見当もつかなかったものの、きっとこの七瀬 林という少女は相当弾き慣れており、プロレベル、あるいはいずれなるくらいの実力は持っているのだろうと、それが随所で垣間見えたのだった。


「どうです? 水滴の落ちる水紋のようにも、木々を通り抜ける風紋のようにも聴こえてきませんか? 一言で落ち着くなら、風情ふぜいを具現化したとでもいいましょうか……っと、少々話過ぎましたね。私はここにいるのでしばらく弾いてみてください。適当に滑らせるだけでも十分に美しいですから」


 そう言われ、とにかくいろいろと試して、そのたびにコツを形を言葉や、それでも伝わらない場合はまた至近距離で教えてくれた。

 彼女の技術には遠く及ばないながら、言っているような『木々を通り抜ける風紋』という形容に妙な納得を覚えていくのであった。


「この足音は……佐伯さんが来たようです。事情を説明してきますね」


 一体そんな音がしていただろうかというほど小さな音を聞き取り(そもそも私が箏を稚拙無暗にかき鳴らしていたのにもかかわらず)席を立った。

 扉の奥には確かに女子生徒が立っていた。お互いが話し合う様子を見て、気心が知れたなかなのだろうということは想像に難くなかった。

 やがて佐伯副部長に連れられ、その場を後にしたのだった。

 その晩も、翌日も、彼女の音色が脳内でかき消されることはなかった。いや、その音色を弾く彼女のふつくしい姿か……私にはどちらが脳的に優先だったかわからなかった。



 二  花の根に 潜み隠れる 虫の群れ



「すみません、すみません……」


 その聞き覚えのある声は外のベンチから聞こえてきた。

 初春の空は雲一つない晴天だった。日差しがある分、外の方がポカポカとしており快適だ。

 声の聞こえる方を見るとやはり七瀬 林だった。

 なにやら他の生徒がベンチを使いたかったようだ。

 しかしすでに並べられた水筒だのパンの包装などをみると彼女が先にいたのにもかかわらず、別の場所へ追いやられているように見えた。


「お昼時は外の方で食べるのが良いのだけれど、やはりこの辺りは人気なのでしょうか……」


 小さくそう呟きながら、荷物を一緒くたに抱えてなるべく壁沿いを歩いていった。

 ぶつぶつと独り言をつぶやきながらまた別の場所へと向かっていた。


「屋上……に行くには一苦労、であるならあそこなら、きっと」


 また別のところへゆっくり歩いていく。私は悪いと思いながらもその動向を追ってしまう。

 追いつくと、また謝っていた。今度は空いている席があるにも関わらず、あえてその場所を取ろうとしているように見える。集団の揶揄からかいというのは見ていて不愉快である。


「ごめんなさい、そうとは知らず……すぐに別のところへ行きますから!」


 ほぼ同時、あるいは先に場所をとっていたとしても、押しの弱さか譲ってしまうようだった。もう時間は二十分を軽く過ぎており、いたたまれなくなった私は声をかけることにした。


「パンを食べたいだけですのに……どこもかしこも一杯。部室に行くしかないのかしら、でも一人で行くには……あら、あなたは昨日の! え? 一緒に部室へ行っていただけるのですか? ちょうど困っていましたの! 自力では部室に行けなくって……ありがとうございます」


 そういいながらあの華奢な手を差し出した。繋げということだろうか。

 私は突然にドキドキしてしまいためらってしまった。


「『手』ですか? あ、ごめんなさい。つい癖で、いつも佐伯さんが手を握ってくれるものだから日課的に差し伸べてしまったわ。口頭で言っていただければついていきます。 え、いいのですか? でも人の目が……『気にしないし、昼の時間があと三十分しかないから早く行ける方でいく』と……、お優しい方なのですね」


 なるべくゆっくりと歩きながら、強く握れば潰れてしまいそうな和菓子のような手を包んだ。

 周囲の目は確かにいつもより強く感じた。


「ふふ、もう着いてしまいました。頼もしい限りです。少し気になっていたのですが、あなたの手はお箏に向いた手をしていらっしゃいますね。指先が少し硬くて、柔軟性に長けた手。なによりあたたかい。入部してくださったら、私がみっちりとお稽古をつけて差し上げますのに……なあんて、さあ、ご飯を食べましょう!」


 慣れた空間にきた彼女は手探りで周囲の情報を把握し、抱えていた荷物のいくつかを降ろす。

 先ほど食べようとしていた開きかけのパンの包装を破り、そして不意に話しかけてくる。


「お昼はパンですの。袋に入っていて食べやすい上に、種類も豊富で、いわゆる“コスパが良い”ということでお気に入りですの。それに、いつも開けるまで何を食べるかわからない楽しみもあるのですよ」


 喜々として語る彼女はきっと、私に気を使って話かけてくれているのだろう。

 かといってここを離れても彼女一人で帰れるとは思えなかったため、なにか話題を見つけて振ってみることにした。


「……部員ですか? 確かに、あなたが見たのは私と副部長くらいですものね。しかしながら、実は部員は二名だけなのです。このままでは廃部待ったなし。ですが、恥ずかしながら無理を言って存続させていただいているのです。ちなみに副部長にはポスターなどの広報や、部費の管理、顧問との連携を任せています。というより、私が副部長からの推薦で部長になっただけで、成るつもりはさらさらなかったのですけれど、曰く『適材適所! その方が動きやすくて楽だからお願いっ!』とのことでしたので」


「私ですか? 私はもっぱら箏の指導ですわ。耳の良さには自信があるので、その点でも彼女曰く『重宝している』と……」


 頬を赤らめながら語る彼女は、謝るばかりの先ほどとは打って変わって元気そうだった。

 そのはずみで、手を叩きながらさらに話かけてくる。


「ところで、もうすぐ開催される部活動紹介をご存じですか? それに筝曲部も出し物をしようと考えていますの。放課後に各々設けられた時間内に行う自由なものらしく、私たちは最後なのです。時間もほどほどに遅いので無理にとは言いませんが、演奏を披露いたしますので、よろしければ聴きにいらしてはいただけないでしょうか?」


 部活動一覧の紙には様々な部が書かれてはいたものの、確かに時間内に終わり切るには多すぎると感じていたが、各々自由だという。

 どこに入りたいという希望も強いてなかったため私はひとまず全て見ようと思っていたところだった私は快く了承した。


「本当ですか! では楽しみにしておきますわね!」


 鼻歌を歌う勢いで弾む彼女の言った『楽しみにする』とはこちらの台詞なのではないだろうかと思い反射的に聞いてしまった。


「え? なぜ奏者側が楽しみにするのか、と。なるほど、確かにその感性もわからなくはありません。しかし、私は演奏を聴いてどのような表情をするのか気になってしまうのです。つまらなくて寝てしまうのもまた私の技量が足りなかっただけのこと。他人の心を起こしうる風や波紋で揺さぶってこそ箏の本懐、いえ筝曲家の本懐であるのです……」


 箏曲家として、と語る彼女の家はそういう‘お家’なのだろうか。育ちの良さからしてもなんら不思議ではないが、突然敷居が高く感じてしまう。


「と、また語りすぎてしまいましたわ。あなたといると、どうしても話しやすくて自分語りをしてしまいます。自重しなければなりませんわね……それよりも、あなたのお話を聞かせてくださいませんか? 私ばかりでは、つり合いが取れませんから」


 再び笑顔に戻る彼女に、何処か心地よさを覚える。やはり年相応ではあるのだろう。

 差し出がましいと思いつつ、他愛もない話をしながらゆるりとそんな時間は過ぎて行った。


「ふう、ごちそうさまでした。あなたの話、大変興味深くて、もっとお聞きしたく思いました! またよろしければこうして一緒に食事をしてくださいませんか? ふふ……私、人付き合いが苦手なのだけれどあなたとなら……いいえ、なんでもありません」


 思わせぶりな仕草をしてくる。

 『何でもない』といった彼女はまた手を差し伸べて待機する。また顔を真っ赤にしていた。

 そんな彼女を私は、教室まで送り届けるのだった。


「今日は、何から何までありがとうございました。厚かましいながらに、また筝曲部にいらしてくだされば微力ながらその魅力をお教えいたしますよ、といっても今のところお世話されてばかりですが……ふふ、ではまた」


 はにかんだ彼女は、壁を伝って自分の席に戻る。その道中で何回か他の生徒にぶつかるたびに肩身を狭そうにして謝るのであった。


「ああ、ごめんなさい、お怪我は……そうですか、ごめんなさい、ごめんなさい」



 三  爪走り 覗きて見える 髪暖簾



 あれから数日後、特に会うこともなく迎えた部活動紹介。お昼と放課後を使って体育館で行われるそれには数多あまたの部活動が思い思いの紹介をする。


 途中で体育館裏手にあるお手洗いの帰りに、和装の美しい女性を見つける。

 大人の女性のように見える彼女は七瀬 林だった。

 百八十はある大きな箏を二面(お箏の単位)持って待機しているのを見かけたのでつい声をかけてしまった。


「あら、あなたは! 有限実行の程、ありがとうございます。私の服……ですか? 今日は佐伯さんに着付けていただきました。実は外部講師の先生の知り合いに着付け師の方がいらっしゃいまして、簡単な着付け法を教わったようで、隙あらばこうしてくれるのです。当の本人は『人形のようでかわいい』と言って苦ではないと言ってくれているのですけれど、本当にありがたい」


「今は二つ先に控える出番のために待機中です。箏の調弦……音の高さの調整は私が終わらせておきました。お箏は立てても張られた弦が箏柱と言われる調整の柱を抑えてくれるので、一度調弦をしてしまえばそうそうの事では動きません……と、そんなことより、せっかく来ていただいたのですから、是非近くへ座ってくださいね!」


 嬉しそうな彼女は緊張のそぶりが一切なかった。内部でマイクを持って待機している副部長の佐伯という女生徒はここからでも緊張の色が伺えるほどだった。


「緊張ですか? していませんよ? だって今日は演奏を聴いてくれる方がいらっしゃるのですから、楽しみの方が勝っていますもの。確かに練習をしていないのであれば失敗を恐れ、緊張するでしょう。しかしちゃんと経験を積み、練習を重ねれば失敗に‘対応’できるようになりますから大丈夫なのです」


「と言っても、そう言えるのは演奏することしか能がない私だから言えること。部活のほぼすべてを背負っている佐伯さんの緊張は様々なものを含んでいるでしょう。私が自由にできるのは佐伯さんがいてこそ。友人に恵まれたと言ってはかえって失礼なほどに、彼女には助けられています。こんな時に、目を見て感情を分かち合える仲間がいれば……と思います」


 二人の間には太く強い糸がつながっているのだろう。しかし、自分をそこまで卑下することもきっとないのだろうとも思う。言葉の要らない二人だからこそ、起こることなのかもしれない。

 辛気臭くなってきたため、別の話題を、パンフレットに載っていた曲目について聞いてみる。


「‘花筏はないかだ’——これから演奏する曲目ですわね。現代筝曲の二重奏で、花筏というのは桜の花びらが川へと落ちた時、浮かびますでしょう? それが重なり連なった時、川に絨毯が敷かれたように美しい薄桃色が広がると思うのですが、それの事ですの。私はどれもこれも見たことがありませんが、見えなくても、その美しさが伺える形容だと思っています。ちなみに和歌の世界では花と言えば桜を指し示していたようですわね」


 目が見えない分、異常にわかりやすい情景を紡ぐ彼女に促され想像する。

 きっと美しいは、ちゃんと美しいのだと伝えた。見せられるなら見せたいがそれもできないとなると歯がゆさを感じる。

 そんな思いでいると彼女は、もじもじし始めていた。


「また、その……、厚かましいのですが、私の代わりにその景色を想い浮かべてはいただけないでしょうか。って、なんだかまたいつぞやのように、距離が近すぎるような気がしますわね。今のは忘れてくださいまし。ではもうすぐ本番ですので行って参りますわ」


 気が付けば、もう出番のようだ。

 蜘蛛の子を散らすように観覧する生徒はほとんどいなくなってしまう。

 多くの去っていく靴音が聞こえてももろともせず、少し微笑みながら壇上へゆっくりと上がっていく七瀬 林と、少し寂しいような表情を浮かべてから決意を固める佐伯副部長の二人に演奏の瞬間はやってくる。


 ――ツン      ――ツァンツァン

   ——ツァララララン


 息の合った二重奏は人の減った体育館に反響する。大げさかもしれないが散る桜の花びらがひらひらと、水に浮かぶような情景が見えた気がした。

 比較するものではないのだが、七瀬 林の演奏は佐伯の演奏と何かが違った。

 緊張や慣れ、練習量とは違う微妙な差。私には‘それ’が何かわからなかった。


 ——テンテンテンテン……


 規則正しく微妙に違いを付けながら、着実に進んでいく。

 うつむきながら演奏する彼女の桜のように垂れ、揺れる髪から覗く、少し紅潮した白い肌が桃色に輝き、彼女自身の儚さを醸し出していたように見えた。

 今回はしっかりと聴くことができた。そんな手ごたえをどこかで感じたのだった。

 生徒会役員の手引きにより体育館の施錠につき、最後まで残っていた僅かな生徒も帰宅を促されることに。二人に会うため迷惑を承知で裏手に向かう。


「おや! ふふ、いかがでしたか? 『私の起こした水紋で川が揺れて花が踊っていた』と……ふふ、ごめんなさい、はははっ。いいえ、失礼いたしました。そんな感想が飛んでくるとは思いもよりませんでしたのでつい。随分、感性が豊かでいらっしゃるようで、私も聴かせ甲斐があるというものです。ああ、ごめんなさい、今、佐伯さんの声が。呼んでいるようですので、行ってきます……その、厚かましいついでに、もう少し感想を伺いたいのですが……本当ですの? ではまた後で」


 春先の夕方は少し早く、辺りは暗くなってきていた。

 荷物をまとめた私は筝曲部部室へと赴いた。

 中からは二人の声が聞こえる。つい先ほど顧問らしき先生が出て行ったのを見たが、きっともうすぐ終わるのだろう。


「ええ、今日の演奏は素晴らしいものであったと思いますわ。冒頭の流し爪との掛け合いも流れを崩さずに行けましたし、三番、四番からの速度感も遅くならずに行けました。六番からの掛け合いと終盤にかけての速度上昇もついていけていましたので、ここからも日々の上達が伺えるかと思います。あとは……あ、ご、ごめんなさい。私また上から……いえ、そんな……そう言っていただけるとありがたいのですが、そうですか? うう、褒められるのはあまり慣れては……。え?『恋人が待ってるんじゃないの?』って、べ、別にあの方とはそういう間柄では……いえ、ですが、意地悪ですよ佐伯さん! もう……そうですね、時間も遅いですしこれくらいに……ですから別にそういうわけでは……わかりましたから背中を押さないでください!」


 半ば締め出される勢いで扉の外へ出た彼女と対面する。服はすでに制服へと変わっていた。


「ああ、ええっと、ごめんなさい! ミーティングとお着替えに時間がかかってしまいましたの。お待たせしてしまい申し訳ありません。お時間の方は大丈夫なのでしょうか? そうですか……ではお外に行くまでの間、お付き合いくださいませ」


 そうして彼女といつもよりゆっくり歩きながら会話をする。

 風の音と二人の息遣いが人のいない校舎に木霊する。もう辺りは暗くなり始めていた。


「本題といたしまして、早速伺ってもよろしいですか? 今日の感想を! ええ……ええ……ふふっ。本当に面白いお方ですね。ふむふむ、なるほど、……私も初心に帰って、こう言う意見を貴重にしたいものですわ。他にもあるのですか? 『お箏を弾く姿が綺麗だった』って、え、そんな、からかうのはやめてください! 『特に垂れる髪の間から見えるまぶたが』って、追い打ちをかけないでくださいまし!」


 笑い合いながらもやがて校門前についてしまう。


「今日は遅くまでありがとうございました。迎えが来ているはずですのでここまでで大丈夫です。と言っても迎えは……」


 遠くから犬の鳴き声とかけてくる音がする。ゴールデンレトリバーがタックルするかのような勢いで七瀬にすり寄った。


「ふふ、こらこら……、この子は盲導犬役のお竜おりゅうです。こうしてこの時間になったらこの家に向かうよう送り迎えをしつけられているのです。リードもいつも持ってきているのですよ? ほら。これでよし、と。ですからあなたはご自身を案じてくださいませ。今日はありがとうございました。部活動の選定期間も数日。悔いのないよう、お決めください」


 そういえば彼女は育ちがいいのだ。たまに見せる女子高生特有の愛らしさと、垣間見える育ちの良さが私の頭を乱すのだった。

 ともかく、私は彼女が見えなくなるまでは残った。それに彼女は感謝の意を伝えて犬と共に帰路についた。


「ではごきげんよう」


 少し遠くでそういう彼女に精いっぱいのさよならを言う私であった。なんとなく寂しそうな背中に向かって‘また明日’とも伝えるのだった。



 四  箏の戸を 開く新たな 柏手と



 私は今日も今日とて彼女の、七瀬 林の手を引き筝曲部まで送っている最中だった。


「今日の今日まで、部室まで連れて行ってくださりありがとうございます。ただ、最近なにやら視線が気になるのですけれど……いえ、なんとなくなのですが。一応お伺いしますが、‘噂’になっていたりするのでしょうか? やはり手を繋いでというのは……『そんなことない』ですか? そうですか……しかし慣れたものですね。私のペースに合わせてくださり、毎度痛み入ります」


 あれから一週間ほど経ったが、その間、私は筝曲部に入り浸った。そのたびに彼女を部室まで送迎した。そのたびに浮かべる彼女の笑顔を見るためでもあった。

 今思えば一目惚れに近かったのかもしれない。本音を言えば箏に深い関心があったかと言われれば今はわからない。それが今後わかっていくのかもわからない。下心だけなのかもしれない。

 しかし、彼女の微笑がそういう疑念の雲を晴らしてくれるのだった。


「そういえば、例によって佐伯さんは多忙により遅れますわ。年度始まりは忙しいそうなのであまり練習には参加できないと言っていました。今後は彼女の手伝いをお願いすることがあるかもしれませんが、その時は、どうかよろしくお願いいたします」


 佐伯副部長とはすっかり打ち解け……というより有無を言わさぬ活発な物言いで打ち解かせられたといった方が正しい。そんな具合で今に至るため心配は無用だった。


「そうですね、三人になればだいぶ融通が利くようになりますし、幅も広がります。三重奏が可能になり、主旋律、副旋律を厚くしたり、さらには一七弦じゅうしちげんと呼ばれる低音を補うお箏を追加するのも……あなたの手には様々な可能性が詰まっているのです。芽吹くときがくるのを楽しみにしておきますね……と、もう着く頃でしょうか?」


 そうして言う通りぴったりと扉の前まで来ることができた。

 扉を開けすっかり見慣れた部室に入る。

 

 ――今日から正式に入部するのだ。


「改めまして、ようこそいらっしゃいました。この度、新入部員として正式に受理されました。今日からよろしくお願いいたしますね! というより寧ろ少し後ろめたく思っておりまして、なんせこのところずっと私と居たうえ、押しつけがましいと言いますか、この目の事もありますし、暗黙にそういう風にし向けたといっても言い逃れはできません……本当によかったのでしょうか? 『あなたのお箏に対する向き合い方に感化されただけ』……そ、その、実直で素直な意見をよくもまあ、こちらが単純に恥ずかしくなってしまいますわ」


 いつものように手探りで箏の準備を始める彼女は、いつにもまして嬉しそうだった。

 解放された窓からどこからともなく数枚の花弁が入り、床に模様を付けた。

 吹き込む風は黒髪をなびかせながら、彼女はいつものように微笑みながらこちらに向かう。


「今しばらくは改めて基礎についてのお話をすることにしましょう。ここからはみっちりと、お稽古を付けさせていただきます。お覚悟を」

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箏音の響きは水紋のように 椹木 游 @sawaragi_yu

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