過去の記憶

懐かしい児童養護施設の廊下。僕はその廊下を歩いていた。


ある日、突然母さんが突然いなくなってしまったから、僕は急にここに預けられることになった。その後に母さんは死んだと、ここの施設長のスプリングにその事実を教えられた。


母さんの死に際も知らないし、その亡骸だって見ていない。


ましてや、どうして母さんが死んだのかすら知らなかった。


だからはじめは、母さんはどこかで生きていると信じて疑わなかった。


ここへは一時的に預けられただけで、母さんがいつか僕を再び迎えに来てくれると思っていた。でもその思いは裏切られ続けた。


大きくなってから書類上で、失踪ではなく間違いなく死んでいることを知った。

でも、その理由はどこにも書いてなかった。


今もその理由は知らない。


僕がここに来たのは五歳の時。


それから僕は五年の月日をここで過ごしていた。


五年の月日は長い。今までの人生の半分はここに居ることになる。


記憶が残っていることで考えたら、ほとんどはここでの暮らしのことだ。


その記憶の中で、数えきれないほど入室した部屋の前へと立ち止まる。


僕は深呼吸してから、飾り気のない木製の簡素な扉を二度ノックした。


ここまで緊張してこの部屋に来るのはいつ以来だろうか。


記憶を探ってみる。多分、初めてこの部屋に入れてもらった以来じゃないだろうか。


それも仕方ないことだ。


今日、僕はこの中にいる相手にお別れを言わなくちゃいけないのだから……


部屋の中からクレアラの「入って良いわよ」と声が聞こえる。


僕は扉のノブを掴み、ゆっくりと扉を開ける。


部屋の中には、机の前の椅子に腰かけながら、こっちを向くクレアラがいた。


肩に届くくらいの長さで切りそろえられた銀髪。長い髪はシャンプーとリンスが勿体ないからと。僕が止めなければ、僕と同じくらいに、もしくはもっと短い髪にしてたであろう、その髪がふわりと揺れる。


彼女は紫色の瞳で優しく僕を見つめている。


これから伝えようとする言葉に気まずくなり、僕は思わず視線を逸らす。


彼女がいつも使う机が目に入った。


机の上は綺麗に片づけられていて、何もなくなっている。既に身支度を済ませたようだ。


彼女の座る机の横には大きなカバンが一つ置かれている。


大きいけど、それでも一つで収まってしまう量の荷物しかなかったのだろう。


その月日は僕の倍に近い。十年にも及ぶ月日のはずなのに……


誰よりも一番ここの養護施設にいたのに、誰よりも持っている物が少なった証拠だ。

 自分が物をもらうより、誰かが物をもらうことで喜んでいる……いつもその姿しか見てない。


 だからこんなカバン一つで収まってしまうのだ。


 僕にとっては思い出がたくさんの、出会って五年という歳月すらその中に収まってしまうことに、もの悲しさを感じる。


「今日でさようならだね……」


僕は寂しさに押しつぶされてしまいそうになりながら、彼女にその言葉を掛ける。


「そうね、寂しくなるわ……アイル。でも、貰われる子は私で良かったのかしら? 私より小さくて可愛い子達はたくさんいるのにね」


「そうやってクレアラは自分の事を後回しにし過ぎ。おかげで何年ここにいたんだよ」


「みんなを置いていって良いのかって罪悪感がでるのよね、どうしても」


「みんなはクレアラが居なくても上手くやっていけるよ」


「それは……それで寂しいな。私がいなくても変わらないって思うと」


僕は彼女の前におずおずと近づく。


僕なりに気の利いた言葉を何か言おうと色々考えていたけど、全部頭の中から飛んでしまった。だから心にあった本音をそのまま言うしかなくなった。


「本当は寂しいんだ。いなくなって欲しくない」


少し困ったような表情を見せたが。すぐにいつも浮かべている笑顔に戻る。


彼女が立ち上がり僕に近づくと、両手で優しく抱きしめてくれる。


「ありがとう、アイル。私を必要としてくれて」


「必要だ……僕にはクレアラが必要だ」


 この五年、本当に彼女の存在に助けられた。母さんを亡くして、ここに預けられて、一番初めに心の拠り所になったのは彼女だった。そして最後の最後まで……


片手で抱きしめながら、もう一方の手で僕の頭を優しく撫で始める。


「大丈夫よ。それでもいつかは私の記憶も薄れて忘れてしまうから……」


 その言葉に寂しさを覚える。その思いは自分だけが抱えていて、彼女には違ったのかもしれないから。


「僕達のことを、僕のことをそう思ってるの?いつかは忘れて消えていくって」


「かもしれない。でも、そうじゃないのかもしれない。分からない、今は。いつか時間が経って、それでもいつまでも、いつまでも心に残っていて。その時になって初めて実感するのかもしれない。でも今の気持ちは感謝しかないわよ。本当にありがとう。私と一緒にいてくれて」


「それは僕のほうの言葉だ。クレアラがいたから、ここまでやってこれた……」


「嬉しいな、そんなに必要とされていたんだもの。ここにきて良かったって今更ながらに思うわ」


「僕もだよ、クレアラに会えて良かった」


 施設の外から車がやって来た音が聞こえた。


そっと僕から体を離し、彼女が窓の外を眺める。憂い気な表情へと変化していた。


「お迎えね……悲しまないでアイル。またいつか会えるわ」


「連絡くらいはしてくれるよね。元気でやってるって分かれば安心できるから……」


「えぇ、分かったわ。約束する」


クレアラが僕に近づき、小指をそっと差し出す。僕もクレアラの小指にそっと小指を回すと、どうしようもない形ばかりの約束を交わした。

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