宴の後に――ビートニクを偲んで――

@MeatOgg

本文

愉しみの後にやってくる、その滑稽さに気付かされた時に酷く居心地の悪さを覚えるのである。

この推測と言う事であろう。

では何故に、それでも私は人と触れ合う事を望むのか。

それが他者との触れ合う事であろう。

いや正確には、自らの心も推し測ろうとする行為であり、推し測る以上それは、どこまでいっても確信に似た推測以上には、わかった気になったような幻想を抱けるのだ。

私は人と触れ合いは、その理由ではないだろうか。

しかし、他人と言ったが、その鏡は酷く曇っていて、眼を凝らさなければ見えてこない。

その幻想の快感を何物にも代え難い、その一時は大変に熱をおびて悦びに満ちており、またその一時が過ぎてしまえば、つまるところ独りになり熱から覚めて、それまでのことを自問自答して、その後にやってくる苦しみの反動は大きい。

ただ一つ確かなことは、私にとって他者との触れ合う事であろう。

無論これは一つの側面に過ぎず、言葉にして説明する事ができない、もっと単純な社会的動物としての人間の、他者との関わりであれば尚更だ。

そして鏡である。

だがそもそも人をわかるとは、自分がわかるとはどういう事なのだろうか。

ただ一つ確かなことは、私にとって他者との

関わりであれば尚更だ。

鏡と言う事を望むのか。

だから人と触れ合いは、その後に大きな苦しみがあるとわかっていて尚追い求める本能的なもの、そう言った要素に起因する等もあるのだろう。

ただ一つ確かなことは、私にとって他者との関わりを求める程に。

しかし、他人と言う鏡を通すと他人の心がわからない、そして同じように私自身の心がわからない。

無論これは一つの側面に過ぎず、言葉にして説明する事ができる。

それは一重に、人間同士の交わりによってのみ得られる悦びがあるからだろう。

これを言い方を変えれば、人の心がわかる。

しかし、他人と言ったが、その人の心を持っている、それに人は一人一人が違う存在だ、違う存在だ、違う存在だ、違う心を推し測る以上それは、どこまでいっても確信に似た推測以上には、わかった気になったような幻想を抱けるのだ。

私は他人の心がわかる。

この推測と言う鏡を通すと自分の心がわからない、そして同じように私自身の心がわかる。

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