百物語(青行燈遅刻中)

ふたつかみふみ

001 狼

 失踪した弟の話。

 弟は山の散策が好きだった。散策と言っても色々あるが、弟はその中でも獣道を利用した山の散策が好きだった。草や木をかき分けて山を進む。前に道はないが、歩いた後に道ができるという感覚が、山を支配しているという感覚が好きだったらしい。たしかそう言っていた。何度かやめるように言ったのだが一向にやめなかったので、もうあきらめて勝手にさせていた。

 そうした折、山の中で立札を見つけたのだという。背の高い草や木に囲まれて埋もれていた木製の立札であり、ところどころ朽ちていて、何か書いていたのだろうがもう読めなくなってしまっていたものだったらしい。何度かその山に来ていた彼だったが、この立札を見るのは初めてだったという。

 しかし草や木に埋もれた立札というのもおかしな話である。山の中の立札とは、道案内など何かしら人間が行程や高度、距離などを山の中で把握するための目印として存在するものであり、弟としても、道だった形跡すらない場所に立札があるのは何とも言えないおかしさを感じるものだったらしく、その違和感に惹かれるようにそこに通っていた。私はその立札の写真をもらい、研究者の友人に渡して何の立札が調べてもらうことにした。

 そこで引き留めていればよかったのだろうと悔やむ。そうした日が続いて、弟が失踪した。警察に捜索願を出し、スマホの位置情報を頼りに探すも、スマホを含む彼の荷物と衣服は立札の近くに捨てられていた。つまり、彼は何も持たず、何も身に着けずにどこかに行ったということだった。何者かに連れ去られたという可能性も含めて、彼の捜索が始まった。我々家族も個人的に捜索していた。

 そう忙しくしている間に、調査を依頼していた友人から連絡が来た。彼女がつてを使って立札について調査した結果、かつて日本において狼狩りが行われていた時に建てられたものであり、狼を慰めるためのものらしいということが分かった。写真を見るだけでもぼろぼろで、草木に埋もれていたそれは全く管理されておらず忘れられていたことは明白なので、狼たちはきっと怒ってるだろうね、とも彼女は言っていた。

 こうして一週間、一か月とたち、もう野垂れ死んでいるのではないかとすら思ってしまっていた。そんななか、妙なうわさ話を耳にすることになった。聞けば、鹿の死体、一部を食い荒らされた死体が見つかっているという。それも一つではなく、既に八体あるという。山の奥まで行けばもしかしたらツキノワグマくらいはいるのかもしれないが、これは熊による食害ではないともいう。どうやら歯形が熊の食害では考えられないものだからだそうだ。熊でもなく、狼でもなく、歯型としては人間のそれに近いというのだ。

 突拍子もないことなのだが、もしかすると弟は狼として生きているのかもしれない。

 

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