睡眠代行者

廉価

睡眠代行者

 私のものだと感じられる素足が、階段の青いタイルを踏みしめながら、一段一段、下っていく。どこへ向かって?無限遠に霞む光源を分光して黄色だけを透過する灰色の気体に覆われた石造りの街。そこへ、緑色の段々畑の斜面に敷設された階段を通って。つまり近いものほど青く、遠景はその補色、色相のグラデーションを成している。

 私は夢の中にいて、なおかつ自分が夢を見ていることに気づいていた。ただ、これが自分の夢かどうかはわからなかった。私が今見ているのは、私の夢なのだろうか?

 もし自分に所有権がない夢である場合、目覚めたときにその内容の一切を忘れているだろう。だから私に出来ることは、レム睡眠が終わるまでの時間、この世界での生を謳歌することしかなかった。

 裸足の足裏から伝わる冷たい感触から、滑らかなラピスラズリのタイルだと思っていたものは実は流線形の魚の群れで、踏み出す足を予測してその背と浮力を、私の体重を支えるために供与しているのだった。周囲にも空と同じ色をした戯画化された魚たちがゆっくりと泳いでいて、彼らの棲家に訪問者を誘うように先行する。モザイクの街並みは乱雑な虹色のパッチワークではなく、使わない色にどこかストイックさがある。骨格を晒した建造途中の聖堂のような建物が中心部にあるが、実際に建築中という設定なのか、この夢自体が完成していないせいなのかは判別できない。

 こんな緻密な造形を持った夢は、私の無意識をどう捻っても出てこないだろう。私は今、デザイナーの商品を盗み見しているに違いない。今回の睡眠代行の依頼者は、たしか明晰夢デザイナーだった。これは彼女が制作中の音楽用夢内PVか何か、その作業記憶領域の断片。その洞察は、光景を楽しむという余裕を、憧憬混じりの喪失感に変えた。残念だ、この記憶を手放さなくてはいけないなんて。これが私の見ている夢ではないなんて。

 一抹の泡が私の眼の前を昇っていった。それは私の口から漏れた予兆だった。悪夢へのありきたりな転調の。ここは水の中で、息を止めないといけない。抑えた両掌の隙間からなぜか空気は漏れ続けて、足場だったはずの魚達はてんで無秩序に熱運動し始めた。

 私は目的地の町の手前で足を踏み外し、地形terrainオブジェクトの裏側の虚空に落下していった。落下する夢、それは不安の現れです。追尾する魚が私の耳元で囀った。いまさら月並みな夢分析を聞かされるとは思っていなかった。

 魚たちは弾丸のような速さで結集して私の下にエアバッグを形成した。魚たちは言った。

「抗不安ブラッドウェア:〈セロトフォージ〉は、あなたを抑鬱の崖から救出します。不安の海からサルベージします。非生化学薬剤である当アプリは、脳血液関門を抜けて浸透した血中算素によって、あなたの神経電位を非侵襲的に改竄し、不安物質の氾濫を堰き止めます。副作用ゼロ。サブスクライブは網膜字幕のリンクから」

 つまりこれは夢内広告なのだ。それも巧妙なターゲッティング広告。作品ですらない。興が冷めるように、夢が醒める。



     *


 曇ガラスについた雨滴、観葉植物、熱帯魚の水槽の音。この部屋に来るのは二回目。この部屋で目覚めるのは一回目。

 私は半ば倒したリクライニングチェアに横たえられている。足が不安定なオットマンを踏みつけていて、これが夢に影響したのかもしれなかった。依頼主はこちらに背を向けて黒いメッシュの椅子で作業している。机の上の、スカルプチャータブレット上の空中に両手を掲げて、blenderか何かの3Dソフトで作業をしている。

 つまるところあれは私の夢だった。だから覚えていて、過去形で語ることができる。私にあの前半部分を考えつくことができるとは驚きだ。広告が割り込むまでの部分については。

 夢を見ている途中に唐突に挿まれる夢内広告は、あるときは自然で本当に有用な情報をもたらすこともあるが、大半は猥雑なほど露骨で、場違いだ。昔の知り合いと夢の中で再会できたと思ったら、彼らがさりげなくセキュリティソフトや金融商品の名前を口にし始めたときは辟易した。彼らは私の記憶から抽出されて広告テンプレートに代入された変項だったのだ。思い出を汚されたと感じ、目覚めてからしばらく泣いてしまった。でもそれは自己責任とされる。人類は夢を取引する自由と引き換えに、それが加工される責任も引き受けたのだから。


「終わりました」私は言った。

「おつかれさま」依頼者はそう言ってから椅子ごと振り向いた。学生くらいの年齢に見える女性だった。

 依頼者である絨馬樹 ジュマギアマレは所謂〝夢師〟と呼ばれるクリエイターで、いくつもの媒体に自作の明晰夢を提供している。その世界観デザインは一枚絵として完成されているので、SNS上で画像を目にするだけでも広告効果が高い。

 私はその彼女の睡眠を代行している。つまり、彼女がしなければいけない睡眠を肩代わりして、私が余分に眠り、彼女が余分に起きていられるようにしている。

 彼女は覚醒時間を買って、その時間でより多くの作品を生産している。覚醒時間は高価だが、彼女の仕事の報酬はそれを取り戻す見込みがあるし、たとえそうでなくとも練習時間が有用な投資になるのだろう。

 彼女のような人々は、覚醒階級と呼ばれる。

 対する私は当然ながら睡眠階級ということになる。

 私は睡眠代行サービスに登録して、睡眠代行者と呼ばれる仕事をしている。睡眠代行という業種にはこの形態だけではなく、家にいながらにして出来る分散睡眠採掘という稼ぎ方もある。だが個人契約のほうが短時間で多くの収入が見込める。

 DozeProxyのロゴが入ったデリバリーバッグを背負って自転車で依頼者の家に向かう。このように多少は運動したほうが寝つきがいいというのも、こちらの形態を選んだ理由のひとつだ。長期間、睡眠採掘をしていたら床ずれを起こしてしまう。


 絨馬樹アマレはコーヒーを淹れてくれた。

 その間に、私の腕に貼られたパッチに接続されたプリンターのような機械は作業を終え、一錠のカプセルを吐き出した。アマレはそれを手に取った。

「眠いからもう飲んでいい?」

「どうぞ」

 絨馬樹アマレはカプセルを口に放り込んだかと思うと、あろうことかそれを噛み砕いた。私は目を疑ったが、飲み下すのと効果の差がないことに気づいた。ブラッドウェアの媒体となる算素というフェムトマシンは各種の消化液の影響を受けず、どの粘膜からでも問題なく血管中に入り込むのだから。アマレは目を細めて吐息を漏らした。

「やっぱり、とても濃密な睡眠」

 自分の眠りを食べられてその味を褒められるのは、獏に求愛行動をされるより喜ばしいものではない。

 あるいは彼女は本当の夢魔なのかもしれない。私が夢を盗まれてもいいと思えるほどの。


 実際のところ、睡眠代行の原理はおとぎ話の獏の力を借りたものではないし、単に目が覚めた気がする違法薬物でもない。それは私達の血管を流れる血中酸素に擬態したフェムトマシン群〈ブラッドウェア〉を用いた、脳に対する神経生理学的操作だ。依頼者の脳の状態情報を受けとり、ある一度の睡眠がその依頼者の脳に行うはずだった必須の生化学的プロセスを代行者の脳が代行し、考えうる限りもっとも圧縮されたプロセスとして返却する。圧縮済みの睡眠は依頼者の意識活動を中断させることなく、無意識化で迅速に進行する。睡眠は脳のデフラグであり、取らなければ記憶障害など重大な問題を惹き起こすと言われていたが、代行済みのプロセスはそのデフラグを結果として提出し、依頼者の脳は最も抵抗の少ない形でその結果の状態に移行できる。無数の計算の途中解を出力して描写として解釈する手間を省いて、ひとつの長い計算として扱うように。


羊歯噛 シダバミヨウカさん」依頼者は私の名前を呼んだ。「あなたはとても優秀な睡眠代行者みたいだけど、なぜフリーランスでやっているの?」

「優秀では全然ないです」私は答えた。「アプリで満足度を見てもらうとわかります。この仕事をしている理由もその下に書いてあります。代行専門でやると勉強の時間が取れないからやってないだけです」

 アマレはスマホを見ずに続けた。あくまでも私の口から聞きたいようだ。

「何の勉強?」

「本業の人の前で言うのはちょっと」

「じゃあ、夢師になりたいの?」

 隠しているわけではないが、年下に見えるアマレに将来の夢を語るのは気おくれする。とはいえ、覚醒時間が長い彼女は主観的には私より長く生きているかもしれない。

 アマレは無邪気なアイデアを口にした。

「私と個人契約するのはどう?時間が節約できるし、覚醒時間で練習できる」

 それは合理的だが、少し残酷だと思った。私をかわいそうだとは思わないのだろうか?若い才能が、睡眠階級としてしか生きられない人間の時間を食べながらさらに加速度的に伸びていく、その絶対に追いつけない後ろ姿を間近で見せられる、私のことを。

「考えさせてください。次までには」

 でも私はおそらく契約するだろう。これは自分が選択肢を持っているというポーズに過ぎない。答えはすでに決まっているが、迷うという儀式が必要なのだ。

 アマレは駄目押しというように言った。

「羊歯喰さんは、広告のない夢を見たいと思わない?猥雑で無価値な情報に邪魔されない、自分自身の夢を」

 上から目線な提案だと思ったが、アマレのその目は同じ怒りを共有しているように見えた。夢を搾取される人々と同じ怒りを。



     *


 翌日、絨馬樹アマレと私は、彼女の家の近くの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。いつもは業務中のこの時間、私はカフェインがないと起きていられない。アプリの画面はこの近辺にいくつかの睡眠代行依頼があることを表示していて、私はそれらを受諾できないことで時間を無駄にしていると感じていた。しかし、アマレと継続的に仕事をしたほうが収入は安定するだろう。


 広告なしで、自分の夢を見る。アマレが言った言葉の意味を考える。

 私達は、広告無しでは自分の夢を観ることも出来ない。それが睡眠資本主義。眠りさえすれば夢が無料で見れた時代のことを持ち出すのは、狩猟採集社会が農耕社会より豊かだったと言うようなもので、失笑の対象だ。もはや睡眠市場なしでは社会は成り立たないのだから。

 睡眠は資源で、覚醒時間は通貨で、夢は商品であると同時に主要な広告媒体。

 睡眠資本主義は、それが登場するまでは唯一、万人にとって平等に分配されていた〝時間〟という資源の格差を生み出した。格差は拡大し続け、いまや人口に占める割合が0.4%の覚醒階級が、全人類が体験できる時間の70%を所有してるらしい。貧しい国は国全体が眠っているようなもので、働けないからその状態を脱出できない。時間資産の貧富の差は資本主義時代以上に固定され、開く一方。

 アマレがパフェの細長いスプーンをつつきながら言った言葉は、私のそういった前提知識の一部を否定するものだった。

「覚醒階級は一日に24時間以上起きて居られると言ったら信じる?」

「何かの比喩ですか?」

「いいえ。この情報は隠匿されているのだけれど、覚醒階級が一日あたり利用できる時間は、すでに全人類が一日に利用できる物理的な限界時間の二倍に達している。七割というのは嘘。そして、外部からはわからないだけで、睡眠階級は余分に眠らされている。たとえば8時間眠ったつもりで、主観的には16時間経過している。その分の時間資源は、覚醒階級に搾取されている」

 富豪たちが余分な時間を受け取るのはカプセルを飲んだときだと言う。アマレはさらに睡眠経済の説明を続けた。

「時間は金本位制における金のような不変の通貨ではないの。睡眠資本主義は、ただの時間取引のネットワークじゃない。利子のように虚無から時間を生み出して、資本を増大させ続けるシステムなの」

 ヨウカはコーヒーの水面を見て思った。こんなに黒い液体が視点によっては窓と同じ色を反射するのは不思議だ。

「それはとても……啓蒙的なお話でした。でも、規模が大きすぎて私には関係ないように思います。私はその睡眠資本主義のルールの中で、私に見合った幸せが得られればいいんです」

 アマレは身を乗り出すように問い詰めた。

「ずっと微睡んで生きていくの?こんな仕事を続けても、あなたが自分の時間を取り戻せることはない。溜めた時間をいつか自分に投資して、夢を叶えられる見込みはない。なぜなら睡眠の要求量は増え続けて、覚醒者たちはどんどん先に行くから。時間の果てまで。彼らは永遠を手に入れようとしている。そしてあなたは一生、自分だけの夢を見ることは出来ない」

 私は目を伏せて言った。

「……そんな、断言しなくても」

 奇跡が起こって私のデザインした夢が鬼バズすることだってあるかもしれないのに。もちろん、その奇跡は覚醒階級に千倍訪れやすいとしても。なぜ奇跡を信じさせてはくれないのだろう?

 私は涙ぐんだ。年下の少女に余りにも冷酷な現実を指摘されたからではなく、単に大きなあくびをかみ殺したからだ。私にとって悲しみは凪いだ眠気に垂らされた一滴の雫に過ぎない。

 しかし、それを見たアマレは狼狽して言った。

「ごめんなさい。私、どうしてもあなたを救いたくて」落ち着かないようすでつけたした。「救うって態度自体、傲慢なのはわかってる。でも、あなたしかいなくて」

 私は言った。

「契約はします。覚醒時間が必要なので。でも、これからはこんな風に話す必要は無いと思います」



     *


 私は夢を見ていた。

 また階段の夢だった。しかし今度のそれは本物のラピスラズリで出来ていた。目的地は見えず、階段は前方に数十段下ったところで右に折れ曲がって視界の端に消えていた。行き先を辿って視線を移動させると、階段はもう一度曲がって自分がいる辺に連結しており、つまり階段は三角形として循環しているのだった。これは立体として矛盾している。下り続ける階段が上りを挿まずに螺旋を閉じられるはずがない。

 俯瞰視点から見ればエッシャーの騙し絵のように見えるのは想像がつくが、階段にいる視点から成立しているのは奇妙だった。構造物全体を視野に収められないことを悪用して、認識がごまかされている。この階段は下り続けながら一定の高さに閉じ込められている。夢の中ではこのように、因果関係や時空の構造が破綻していることがある。自分と喋っていた知人が気づいたときには別人になっていたり。場所が変わっていたり。それでも夢の主観者は、明晰夢状態ではない場合、疑問に思わないことさえある。

 これも何かの広告?無限に循環する物のメタファーとしての。例えば、持続可能性をアピールする企業の商品?より多くの汚染物質の排出権を買うための。それとも矛盾する時空構造さえデザインできるという、夢デザイナーの技術的ひけらかしのためのポートフォリオだろうか。


「ペンローズの三角形」背後からの声がそう言った。

 数段上に腰掛けたアマレがその悪戯な微笑みを頬杖で支えてこちらを見ていたのだった。

 私は言った。「あなたは私の想像の産物?――直前の記憶から私の無意識がお節介にも生成した。それとも無作法な対夢干渉?」

 DozeProxyのサービス上で、依頼者が代行者の夢に干渉するのは禁じられている。例えば、意図的に卑猥な夢を代行させるとか。そして代行者が被害を訴えたら、厚顔無恥にも「そのように解釈する方に問題がある」と逃げようとするとか。そのような事例は過去にあったが、DP社は代行者の権利を守った。もちろんあらゆる表象に解釈の多義性はあり、単体では決定困難なものが多いが、DP社の文脈分析AIは関連情報から解釈を確率的に評価する能力を持つので、加害行為の認定に役立つ。現在では、夢は事前に検閲されて被害は予防されている。

 しかしこれは個人契約の直接代行なのだった。夢への干渉自体は禁止されていない。アマレが私に悪夢を見せようとした場合にも、DP社は守ってくれない。それを覚悟した上での直接契約だ。

「仕方ないでしょう。どうしても謝りたかったから」

「怒ってはいません。あの時はただ、あまりにもスケールが違う話題に欠伸が出ただけです」

「実は、夢の中で話す必要があったの」

「内緒のお話ですか?DP社の監視はもう無いのだから、別にどこでも……」

「いいえ、この光景を体験してもらう必要があった。私の理論を理解してもらうには」

「理論?」

塵夢じんむ 理論」

 アマレがそう言うと、階段しかなかった寂寞とした世界の情報量が増大した。周囲に結晶で出来た巨大建築が林立し始め、都市の様相を成した。アマレは続けた。

「羊歯噛さん、なぜ現実世界が存在していられるのだと思う?夢はすぐに終わってしまうのに」

「何かの形而上学的ポエム?」私は冷ややかに言った。「それはあなたが顧客たちに売りつける都市の壁に思わせぶりな碑文として彫り込んでおくべきでしょう。考察勢に受けるかも」

 アマレは熱っぽく続けた。こんな風になった彼女はほとんど狂人のようだ。

「不正解。この宇宙が堅牢なのは、存在論的立体構造を取っているから。この宇宙は数学的世界と物理的世界、そして知覚生物による心的世界の三つからなっている。それらは相互に支えあっていて、どれが不足しても存在は成り立たない」

 心的世界というのが出てきて胡散臭いと思ったが、次のアマレの言葉がその印象を幾分打ち消した。

「この宇宙について説明するとき、もっとも強力なツールが数学であることには異論がないと思う。宇宙は物理法則のみによって束縛されており、その物理法則は一そろいの数学的言明そのものなのだから。数学的世界が物理的世界を生む。プラトン的イデア界が洞窟の影絵を生むように」

 私は少し反論したくなった。「数学や物理法則だけですべてが説明できるような言い方には抵抗があるかも」

「そんな文系のあなたに朗報。その数学的な真理は、なんとただの猿から進化した人間の脳によって発見されたということ。完全に合理的とは言い難い脳が、微細な感情と感覚という半導体で出来た曖昧な機械が、どうやら宇宙の根幹に埋もれた美しい数学的構造を部分的にせよ掘り当てている」

「はあ……」私は胡乱げに同意した。

「つまり、心的世界は数学的世界を生んだの。その心的世界を生んだのは、物理的世界。これで、三つの世界の相補的関係性が完成」

 心的世界が数学的世界を生み、数学的世界が物理的世界を生み、物理的世界が心的世界を生む。そのように三角形の図形に書き込まれた矢印は循環した。ペンローズの三角形のように。

 この三角関係がなんなのか、と合いの手を入れるべきなのだろうけれど。ヨウカはデリバリーバッグに機材を入れて帰ろうとして手を止めた。ここが夢の中であることを忘れていた。驚くべきことに、夢の中に現実の部屋と機材が再現されていた。とはいえここは依然として夢の中なので、どこにも帰ることはできない。

 私は降参というように言った。もはや仕事上の丁寧語口調は忘れていた。

「わかった。全人類の夢をつないで大きな計算機とし、そこを仮想現実として使おうみたいな話?ベッドの上のマトリックス?」

「いいえ。それとはちょっと違う。いや、全然違う。心的世界が作るのはあくまで数学。数学を作ってしまおうということ。数学の定義を夢と同じにしてしまおうということ。計算は物理世界がやってくれる。夢がやるのは定義だけ。物理世界はハードウェア。物理法則は設計図。人間の意識はそのデザイナー。デザイナーはハードウェアの中にいる。循環する入れ子構造。そのループは、夢によってルートを切り替えられる。物理世界にいるはずのデザイナーは、夢の中では物理法則や因果関係を切り離してしまう。完全には切り離せなくとも、寸断してシャッフルし、宇宙的アナグラムを作ってしまう。その設計図の作成は通常、完成する前に物理世界の要請によって中断させられてしまう。それが目覚め。もし全人類が、十分な時間眠って、夢による法則の作成が臨界点に達したとき、宇宙がもう一つ誕生する」

 アマレは興奮しながら言い終えた。瞳の中が同心円状の模様になっていて、見ているとめまいにあてられるようだ。彼女は知的興奮と性的興奮の区別がついていないようだった。

「みんなで夢を見ることでそこに移住する?じゃあ寝ている身体はどうなるの?食事も取れない、誰も面倒を見てくれない。朽ち果てるだけ?」私は訊いた。

「もうひとつの宇宙が誕生した時点で、元の宇宙はそれを支えるための要請を満たした状態で書き換えられ、固定される。みんなが睡眠している状態が保たれる。あらゆる因果関係に優先されて、永遠に」

「永遠にって、どのくらい?」

「比喩ではないわ。文字通り永遠に。太陽が燃え尽きて、宇宙が熱的死を迎えても。なぜなら、夢内宇宙にはエントロピーの増大則が組み込まれないことになっているから。無限乱数列のノイズから秩序を無限に生み出し続ける。エントロピーは、時間の矢は、因果律が生み出しているのだから」アマレはうっとりするようにつけたした。「私の売りつける永遠は、永遠の類似品じゃない。掛け値なしの永遠。対価はあなたの夢、それだけ。誠実で破格の取引でしょう」

 彼女は夢魔であることを隠すことすらしなくなったのだ。

 夢の中の夢、劇中劇。紋中紋、mise-en-abyme。千夜一夜物語のような、あるいは映画インセプションのような。そんな永遠に見えるが解像度という制約によって有限であることを運命づけられた入れ子構造を彼女はどこかで切断して、丸めて環っかにしてしまった。それは自己完結的なエンジンとなって、無限を手に入れた。

 私は最後の質問をした。

「どうやって、臨界点に達するまでの睡眠資源を得る――つまり、全人類をこの夢に巻き込むの?」

「私はとても大きな広告デザインを任された。ブラッドウェアの全世界的なアップデートの告知。私はその夢内広告に、塵夢理論からなる夢のコードを紛れこませておいた。それでも最初のインスタンスの起動には優秀な代行者が必要だから、あなたが観る夢で私の計画は完成する。あなたが同意を示す行動をすればいいだけ。たとえば、比喩的には、あなたがこの階段を上ってきて私のところまでくるとか。それがトリガーとなるでしょう」

 私はアマレの言う通りにするべきだろうか?不死の富豪たちと一緒に方舟に乗せてもらうべきだろうか?

 それとも階段を下って、睡眠資本主義の現実に戻るべきだろうか?

 いや、ただ単に本当のことを言うべきだ。

「私が欲しいのは広告なしの夢なんかじゃない。自分の夢なんて、大したものじゃない。私が欲しいのはあなたの夢、その全て。私はあなたの作品のファンで、最初からそれを目的にあなたの住所周辺だけを巡回して依頼が来るのを待っていたの」

「え……そんな厄介ファンだったの?」アマレはちょっと引いたようだ。

 私は階段を昇って、アマレに接近した。

「ただ伝えたかっただけ。あなたの作る世界がどんなに美しいか。それに比べたら、現実なんて欠陥品。だからそのせいで、あなたの世界は情報量が多すぎる。積荷が重くなりすぎる。でも、私の作った方舟なら、睡眠階級の人々も乗せることができる。それは単純な最小限の世界の記述で、夢が発動してから皆で作り上げるしかない。覚醒階級の優位性も失われる」

「それじゃあ、世界が失敗する可能性もある」アマレは最大の問題を指摘した。

「心配ないでしょう?だって、あなたの夢が一番美しい。きっと皆が受け入れる」私は断言した。

「当然」アマレは胸を張って肯定した。

 彼女は悪戯めいて舌を出した。そこにはカプセルが載っていた。私はそれを口に含んで、噛んだ。コードが口内に広がった。

 存在論的立体を構成する次元のうち、意識による解釈の次元が主導して数学次元と物理次元を書き換えた。睡眠資本主義を加速させて内破させるために。

 それはブラッドウェアに乗って、全世界の人々の血の中に浸透した。

 そうして宇宙は熱的死を免除された。

 そうして都市は自壊していった。

 そうして人類は永遠の眠りについた。

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