未亡人

あべせい

未亡人



「あなた、わたしの話を聞いている?」

「ないンだ!」

「なにがよ。ひとの話も聞かないで」

「あれがないと、たいへんなことになる」

「何がないのよ! わたしの話は聞かないで、自分の話は聞かせようとするくせに」

「決まっているだろッ。カギだ。家のカギだッ!」

「家のカギッ、って。あなた、昨日、会社から帰って家に入るときは、どうしたのよ……」

「昨日は?……」

「そうだわ。昨日はわたしが新聞をとりこもうと思ったとき、あなたが帰ってきたから、ドアはわたしが中から開けてあげたンだった」

「珍しくな」

「珍しくは、余計よ」

「おまえ、見なかったか」

「知らないわよ。よく探してみたの」

「探した。考えられるところは全部」

「あなた、カギはキーケースに付けているンでしょ」

「小銭入れの付いたキーケースだ」

「そのキーケースはいつもズボンのポケットに入れていると言っていたじゃない」

「それがないから、困っているンだ」

「あなたって、いつもそうなンだから。部屋のどっかに置き忘れているのよ」

 午後のひととき、結婚10数年の夫婦が、強い口調で言い合っている。

 どうやら、夫の冬季(ふゆき)が家のカギをなくしたらしい。

 妻の菜津(なつ)は、いつものことだと思い直し、急にバカらしくなったのか、

「そのうち出てくるわよ」

 と言い、相手になるのをやめた。

 冬季はつぶやく。

「あのカギがないと……」

 キーケースには、家のカギのほか、会社のロッカーのカギ、そして彼にとっては最も大切な抽斗のカギが取り付けてある。

 家のカギやロッカーのカギはスペアがあるからいい。しかし、抽斗のカギはなくしたもの以外に、スペアがない。スペアを作っておくべきだったと思ったのは、いまこのときだ。しかし、余計なスペアを作って、妻に使われることを恐れたのだ。

 事情を知らない人は、抽斗のカギなら抽斗を壊してカギを付け替えればいい、と思うだろうが、その抽斗は、冬季が独身時代、一目惚れして買った、重さ50キロ以上もある金属性の机だ。

 4段抽斗の、いちばん下の深い書類入れのカギ。妻に気付かれずに抽斗を壊すことは、至難のわざだ。となると、妻がいない時間にやらなければならない。

 両親と死別して実家のない妻がこの家からいなくなるのは、夫のいない昼間、買い物に行くときくらい。

 妻はひとりで旅行はしないから、何か口実をもうけて家から妻を連れだし、ひとりでホテルなどに外泊するよう仕向けなければならない。そんなことができるわけがない。

 それに、明日の夕暮れまでには、あの抽斗を開けて中のものを取り出したい。それでないと、抽斗にしまった意味がなくなる。

「菜津、ちょっと出かけて来る」

「どこに行くのよ。きょうは会社、お休みでしょ」

「コンビニだ」

「やって欲しいことがあるって、言ったでしょ」

「聞いてない」

「あなた、いつもひとの話を聞かないからよ。もォ!」

 冬季は、妻の不満を背中で聞き流して外に出た。

 と、数歩と行かないうちに、

「藤沢さん」

 振り返ると、隣家の大磯が、にこやかな笑みを浮かべて近寄って来る。

 冬季はいやァな気分になった。

 藤沢家と大磯家は、7年前、同じ区画に建つ建売住宅を前後して買って、越して来た。

 幅6メートルの私道を挟んで、向かい合わせに3棟づつ、冬季の家を含め計6棟が建つ。

 藤沢家は公道から見て、左の3棟の真ん中、大磯家は藤沢家の左隣、すなわち私道と公道がぶつかる角地にある。

 藤沢家と大磯家は、互いに車1台分の駐車スペースで接している。

 隣人の大磯がどんな仕事をしているのか、藤沢は知らない。知らないが、経済的にはかなり裕福に見える。

 駐車場にある大磯家の車も国産の高級車だ。さらに、まだ築7年というのに、3週間かけて外装と内装のリフォーム工事をし、昨日終えたばかり。

「何かお困りごとですか」

 大磯はぶしつけな男だ。妻とのやりとりを聞いていたらしい。冬季はどう誤魔化そうかと考えながら、無言で歩く。

「カギをどうかされたとか?」

 大磯は、冬季の横に並ぶと、冬季の顔を不安そうに覗いて言った。

「なくしまして……」

「それはタイヘンだ。どちらで?」

 それがわかれば探している。

 しかし、その大磯のことばで、冬季は、もう一度、最後にカギを使ってからの行動を振り返った。

 きょうは祭日で、昨日は水曜日。

 会社からの帰り、自宅のドアは妻の菜津に開けてもらい、今朝になって机の抽斗を開けようとして、カギの紛失に気がついた。

 最後にカギを使ったのは、昨日家を出る際、ドアに施錠したときだ。会社のロッカーは、貴重品を入れるとき以外はカギを使わない。

 だから、家を出てから帰るまでの間に紛失したことになるが、会社では、通勤着から作業衣に着替えるから、仕事中はロッカーに吊るしたズボンのポケットに入れたまま。

 着替える際、ズボンのポケットから落ちたのだろうか。それなら、会社の総務に届くから、明日出社すればわかる。ただ、通勤電車の中や、途中の道で落としたのなら厄介だ。

 財布ならいざ知らず、他人が小銭の入ったキーケースを届けてくれるだろうか。もっとも、小銭といっても、50円玉と10円玉がとりまぜて数枚しか入っていない。拾った人間が悪党の場合でも、財布ならネコババするだろうが、カギはどこに使うものかわからない限り、利用価値がない。

 拾われても、小銭だけ抜きとられて、そのまま放置されるか、捨てられる。電車内であっても、駅に届けてくれるのは、100人に1人いるか、いないかだろう。

 第一、あのズボンの尻ポケットから、どうして落ちる?……落ちないと思ったから、安心して入れていた。ハンカチと一緒に入れておくと、ハンカチを出した拍子に、落とすかも知れないと思い、尻ポケットにはキーケースしか入れていなかった……。

 アッ! そうか!

 昨日、帰宅途中、公園の前を通りかかったとき、小さな騒ぎがあった……。

 と、横から、

「どうかされましたか?」

 大磯だ。冬季は、そばに隣家の主人がいることを、すっかり忘れていた。

「い、いいえ。ちょっと考え事をしていたものですから……」

「大事なカギがなくされたのですから、いろいろ考えますよね。私だったら、どこでなくしたのか。他人に拾われたらどうしようとか。カギがなくても、スペアはあっただろうか、って。でも、ズボンのポケットはあまり感心しません」

「エッ!」

 冬季は思わず、振り向いて大磯を見た。

 この男は、おれたち夫婦の会話を全部聞いていたのか。いくら隣どうしといっても、そんなに聞こえるものか。もっとも、あのときは私道に面した居間の窓は開いていた。大磯が外に出て、駐車場に駐めてある車のそばにいれば、いやでも耳に入ったのかも知れない。

 大磯は冬季より2つ年上。7年前、入居したときは奥さんがいたが、去年あたりからその奥さんを見かけない。

 別居しているのか、それとも別れたのか。愛嬌がある、こづくりのかわいい奥さんだった。

 こどもは2人いたが、そのこどもの姿も見ない。待てッ。大磯が自宅をリォームしたのは、奥さんとこどもがいなくなったので、売りに出すためなのだ。そうだ、そうに決まっている。

 7年でリォームは早過ぎる。

「ポケットに穴が空いていたンじゃないですか」

「それはもう確かめました」

 そんなことより、昨日会社から家に帰る途中、ちょっとした騒ぎがあったため公園に寄ったのだ。

 公園の広場には、明日から始まる秋祭り用のやぐらがすでに組まれていた。毎年、この時季に行われるが、ことしは、気になる女性に会いたくて、その祭りに出かけるつもりになっていた。

 寒川麻由未(さむかわまゆみ)。同じ町内の住人だが、菜津の話では、時折、頼まれて町内会の行事などの手伝いをしているらしい。

 年格好は、冬季と同じくらい。冬季が初めて彼女と出会ったのは、つい3日前。最寄駅の改札口だった。

 駅から冬季の自宅まで徒歩で、およそ20分かかる。その日、駅の改札を出た冬季の横を足早に駆けて行く女性がいた。

 黒のタイトスカートに白いヒール、その二つに挟まれた柔らかそうなふくらはぎがとても印象的だった。

 しかし、冬季は、急いでいるのだな、と思っただけで、女性と同じ方向に向かってゆっくりと歩いた。

 駅前商店街を抜け、いくつかの信号を渡り、学校、神社、蕎麦屋をやり過ぎると、やがて右側に、祭りが行われる公園が見える。

 公園には、中央に広場があり、砂場、ブランコ、鉄棒のほか、遊具もいろいろ揃っている。冬季はその公園で右に折れるのだが、何気なくその砂場を見ると、小学校高学年くらいの少年が母親らしき女性と一緒に、懸命に砂を掻き出していた。

 その女性の形のよいふくらはぎを見て、冬季は足早に追いぬいていった女性だと気がついた。

「タカオ、もういいでしょ」

「でも、パパの時計だよ。ぼくが持ち出したのがいけなかったンだ」

 少年は手を休めない。女性は手の砂を払い、立ち上がった。

「これだけ探したのだから、パパだってわかってくれるわ」

「ママ、だれかが見つけて持って帰ったンだよ」

「そうかも……」

「ママ、きっとそうだよ」

 少年はようやく砂を掻き出すのをやめて、母親を振り仰いだ。

「家に帰って、食事にしましょう」

 女性はハンカチを取り出し、少年の手に付いている砂を落とすと、少年の肩に手を回して、2人で公園を出ていった。

 冬季はその光景を見ていて、心底羨ましくなった。

 冬季と菜津の間には、こどもがいない。結婚して10年になるから、冬季はすでに諦めている。

 どこに住んでいる親子だろう。冬季は母子の後ろ姿を見送りながら考えた。どこかで見たような気もするが、はっきりしない。気がつくと、冬季はその母子の後をつけるように歩いていた。

 母子と冬季の家は、同じ方角のようだ。ところが、次の小さな交差点で、母子は左に折れた。冬季の家は、まだまっすぐだ。しかし、冬季は迷うことなく、母子の後に従った。

 母子は、それから幾度か曲がり、細い道に面したアパート1階の一室に入った。

 アパートは新築の2階建て。1階と2階にそれぞれ5室づつあり、母子の家は1階の真ん中の部屋だった。表札には、「寒川時雄 麻由未 高雄」とあり、時雄が主の名前として、母子の名前は麻由未、高雄なのだろうと推測できた。

 同じ町内だ。冬季は帰宅すると、町内会名簿を見た。住所から寒川家はすぐに見つかった。ところが、それには「寒川時雄」の代わりに「寒川麻由未」と記されている。

 何の考えもなく、冬季はそのことを菜津に尋ねた。名簿には、その家の代表者の名前を記載することになっている。一般には、男性の名前が多い。

 すると、菜津は、

「ご主人がいらっしゃらないからよ。未亡人……」

 と言って、チラッと冬季を見た。

「あなた、ヘンな気を起こさないでよ。越してきて、まだ半年ほどらしいから」

「バカなことを言うンじゃない」

 そう言いながらも、冬季の中で麻由未の存在が急激に膨らんでいった。


 冬季は大磯と並んで、やぐらの建つ公園の前を歩きながら考えた。

 明日の祭りに彼女と話す機会があるかも知れない、いや話したい。だから、抽斗のカギが必要なのだ。

「大磯さん、わたしはこちらに行きますので……」

 冬季は公園を左に折れて駅の方に行くそぶりを見せて言った。

 すると、大磯は、

「そうですか。私は、ちょっとやぐらを見物して行きます」

 と言う。厄介なやつだ。

 大磯は身長170センチくらい。細面の整った顔立ちをしている。いい男の部類に入るのかも知れないが、冬季には好きになれないタイプだ。

 冬季は、大磯が公園からいなくなるまで、コンビニで時間をつぶそうと考え、そこで大磯と別れた。

 20数分後。冬季が公園に戻ってくると、大磯の姿はない。冬季は、公園の北東隅にある電話ボックスに急いだ。砂場のすぐそばだ。

 一昨日、冬季は、会社の帰り道、公園に立ち寄った。

 その前日の、麻由未と高雄母子の会話を思い出したからだ。息子の高雄が父の遺品ともいえる大切な品を無くしたらしい。

 冬季は畳4枚ほどの砂場のそばに立ち、全体を見渡した。時刻は6時を過ぎていた。薄暗いせいか、公園にはほかに人影はない。砂場の砂はきれいに馴らされていた。

 あの母子は何を探していたのだろう。冬季は当てもなく、目を凝らした。すると、どうだ。砂場の木枠の朽ちた直径10センチほどの穴に、何かが挟まっている。腕時計だ。革バンドの平凡な腕時計。

 木枠の穴にすっぽり隠れていた。バンドの色が木枠の色に似ていたため、ちょっと見にはわからなかったのだろう。

 その腕時計が高雄のなくしたものかはわからない。しかし、冬季は急いでそれを拾った。これがあれば、あの女性と……。

 冬季は自宅に帰ると、大切なものだけをしまう机の抽斗に入れ、しっかりカギをかけた。そのカギをなくした。ドジな話だ。

 そして、昨日も帰宅の途中、公園に立ち寄るはめになった。公園の前を通りかかったとき、公園の中から主婦の叫び声がしたから。

「ケンちゃん! どうしたの、しっかりしてッ。だれか、助けてください!」

 冬季は放っておけず、声のした方に駆けつけた。

 祭りのやぐらから離れたシーソーのそばで、若い主婦が2つくらいのこどもを抱きかかえてオロオロしている。

 そばに同じ年格好の主婦がいるが、同様にパニックになっている。こどもは白目をむき、口を固く閉じて、全身をワナワナと震わせている。

 引きつけだな。冬季は親戚のこどもが似た症状を起こしたことがあったので、すぐに気がついた。

 取りあえず病院に行ったほうがいい。救急車だ。冬季は携帯を探したが、自宅に忘れてきたらしい。

 見ると、そばに公衆電話ボックスがある。近頃では携帯に押されてどんどん姿を消しているが、この公園はまだ利用者がいるのだろう。冬季は何気なく尻ポケットからキーケースを取りだし、小銭入りから硬貨を出して119番した。

 やがて救急車が到着して、主婦がこどもを抱きかかえて乗り込み、救急車は走り去った。

 冬季はいいことをしたと思いながら公園を後にしたが、そのとき、砂場に佇む未亡人の息子、高雄の姿が、視野の片隅にちらりっと入った。

 彼は砂場でなくしたものを探しにきたのだろう。しかし、冬季には、引き返して「探しているのは時計じゃないのか」と申し出ることができなかった。腕時計が欲しくなったわけではない。

 冬季は、高雄とのやりとりを瞬時にシュミレーションしてみた。

「キミ、何しているの?」

「探しているンです。なくしたから……」

「何をなくしたの?」

「時計」

「キミの時計?」

「父の……」

「その時計かもしれない。昨日、ここで拾ったの……」

「本当!?」

「あァ」

「返してください」

「いいけど。ここにはない。家にある」

「家に持って帰られたンですか。それって、警察に届けるンでしょ」

 そこで、冬季のシュミレーションはストップした。

 拾得物は警察に届けるのが社会の決まりだ。冬季はそこで気持ちがグラついた。あの未亡人に対しても、拾った時計を示したとして、どう説明していいのか、わからなくなった。それをきっかけに親しくなるどころか、犯罪者の烙印を押されてしまう。

 冬季は楽しい計画が急に色褪せ、しぽむのを感じながら家に帰った。

 しかし、自分の部屋に入り肘掛け椅子に座ると、未亡人の姿が目にちらつきはじめ、頭から離れなくなった。話がしたい。親しくなりたい。そう思うと、拾ったことを正直に告白すればいいンだと思い直した。

 あの腕時計が未亡人の亡夫のものと決まったわけではない。

 そして、今朝、腕時計をしまった抽斗を開けようとして、カギの紛失に気がついた。


 冬季は大磯がいないことを確かめると、公園に入り、電話ボックスの辺りを歩き回った。

 キーケースらしきものはない、小銭入れがついていたことが、よくなかったのかも知れない。拾われて、どこか別の場所に捨てられた可能性が大きい。

 結局、カギは見つからなかった。明日、祭りが始まり、未亡人が町内会の手伝いのために現れても、話すきっかけはない。あきらめよう。未亡人がなンだ。おれには、菜津がいる。未亡人に劣らない美形だ。

 ぜいたくを言うものじゃない。冬季はそう自分に言い聞かせて公園から立ち去った。


 その2時間後。

 冬季が本屋などに立ち寄ってから帰宅すると、意外な展開が待っていた。

 菜津の話では、隣の大磯が、キーケースを届けに来たという。

 大磯は菜津に次のように話した。

「公園にお祭りのやぐらを見に行ったのですが、ふと電話ボックスを見ると、少年が周辺をうろうろしている。どうしたンだ、って尋ねたら、昨日ここでカギを拾った。家に持って帰って母親に話すと、落としたひとはきっと困っておられる。電話ボックスなら電話を使ったひとが落としたに違いないから、落ちていた付近に戻しておくのがいちばんだと教えられた。だから、やってきたと言うンです。昨日はもう辺りは暗くなっていたから、いまになったンだが、どこに置こうか迷っているところだ、と。それで、私が、そのカギには心当たりがある、と訳を話して預かってきたのです」

 菜津が、カギを見せて欲しいというと、大磯はキーケースを差し出した。まさしく冬季がなくしたキーケースだった。

 大磯は、今朝、駐車場で車の手入れをしていたら、冬季と菜津のやりとりが耳に入ったと打ち明けた。

 時間の流れからみて、大磯と一緒に祭りのやぐらを見物するために公園に行っていたら、麻由未の息子に出会え、直接キーケースを受け取ることができたはずだ。結果はヨシとしても、なんとなく後味の悪い結末になった。

 菜津は冬季に、隣家にお礼を言っておいて言うが、冬季はそんな気持ちになれない。どうしてか。

 大磯とはなんとなくウマが合わない。ああいう男は好きになれない。

 冬季は自分の部屋に入り、戻ってきたカギを使って抽斗を開けた。砂場で拾った腕時計が出てきた。その腕時計を見ながら、どうしたものかと考えた。

 麻由未は息子の高雄に、拾ったものは落ちていた所に戻すように諭した。警察に届けるほどでないものなら、落とし主が探しにきて持ち帰るだろうとの読みだ。しかし、冬季はそうはしなかった。できなかった。未亡人と近付きになるきっかけにしたくて……。

 冬季は思った。おれはなんと、根性の曲がった、小さな人間なのか、と。これからどうすればいい。失点は取り戻せるのか。

 カギは麻由未母子のおかげで戻ってきた。この腕時計は……。金張りの国産メーカーのものだ。秒針は止まっている。竜頭を回してみる。と、コチコチと音を立て秒針が動き出した。

 正直にすべてを打ち明ける以外にない。冬季はそう結論付けた。腕時計を見つけたいきさつや、高雄にカギを拾ってもらったこと、をだ。

「ちょっと出かけてくる」

 冬季は玄関に行きながら菜津に言った。

「どこに?」

「コンビニだ」

「さっき行ったンじゃなかったの」

「買い忘れたものがある」

「早く帰ってきてよ。もうすぐ夕食なンだから」

「わかった」

 冬季は寒川家に急いだ。時刻は午後5時を過ぎている。

 5分ほどで着いた。

 インターホンを押す。

「どなたですか?」

 少年の声だ。

 冬季は少し言いよどんでから、

「同じ町内の藤沢です」

 すべてを告白すると覚悟したばかりじゃないか。

 冬季は自分を叱りつけた。

「お待ちください」

 まもなく、ドアが開き、あの高雄が顔を見せた。

「少し込み入った話ですから、中で話させてください……」

 冬季はそう言って、相手が答えないうちに中に足を踏み入れ、後ろ手にドアを閉めた。

 玄関は狭い。上がり口まで50センチほどしかない。

「実は……」

 冬季は戸惑っている高雄に、腕時計を差し出した。

「これ。こちらのものでは……」

「アッ、それ、父の……」

 高雄は受け取ると、大切そうに掌に載せた。

「どこにあったンですか?」

「公園の砂場の木枠の中に。木枠が腐って穴が空いていて……」

「ありがとうございます。何度も探しに行ったンです」

「いや、私のほうこそ、お礼を言わないと……」

「エッ?」

 冬季はキーケースを取り出す。

「これ、キミが拾ってくれたそうだね」

「それ、オジさんのだったンですか」

「砂場近くの、電話ボックスのあたりでなくしたらしくて、探していたンだ。ありがとう。助かったよ。私はこれで……」

「もうすぐ母が勤めから帰ってきます。それまで待って……」

「腕時計をお返しするだけだから」

 冬季は、高雄にしゃべらせないように背中を向け、外に出た。

 これ以上、話をしていれば、必ずボロがでる。

 冬季は寒川家から10メートル近く離れたところで、自宅に戻って来る麻由未に出会った。

 麻由未は冬季を見つめている。冬季は、軽く、意味もなく、会釈した。と、麻由未も返す。

 麻由未とすれ違ってから、冬季は寒川家の玄関から出てくるところを麻由未に見られたのだと気がついた。しかし、もう遅い。

 すべて終わったのだ。もっともずるい形で。冬季は愚かな自分が恥ずかしくなった。


 町内会の祭りは金曜と土曜の2日間、行われる。時間はいずれも、午後5時半から8時まで。

 金曜の夜、冬季が帰宅して菜津と夕食をとっているとき、菜津が言った。

「あなた、お祭りに行かないの?」

「どうして、そんなことを聞くンだ」

 去年だって祭りには行かなかった。こどもでもいれば別だが、大人が楽しめる祭りではない。和太鼓が叩かれ、ノドが自慢の者が民謡などを歌い、参加者がやぐらの周りを踊りながら巡っていく。

 いろいろな屋台もあるが、それは業者ではなく、町内会の世話役たちが切り盛りする。未亡人はその世話役のひとりとして祭りに来るのだろう。

 翌土曜日。夕暮れから、細かな雨が降り出した。

 ガラス窓を通して見る限り、カサがなくても歩けそうな雨だ。祭りの太鼓は聞こえているから、中止にはしないようだ。

 冬季は夕食をすませ、妻と一緒にテレビを見ているとき、不意に未亡人に会いたくなった。

 きょうを逃すと、永遠に話す機会がなくなる気がした。

 時刻は、午後7時半を過ぎている。まだ、間に合うだろう。

「ちょっと出かけてくる」

「どこに?」

 菜津が不審げに尋ねる。

「コンビニだ」

「外は雨よ」

「カサをさしていく」

「あなた、何かというとコンビニね。コンビニにかわいい娘でもいるの」

 冬季は妻の嫌味を無視して外に出た。

 外は、家の中から見た通り、糠のような雨が降っている。しかし、冬季には雨は気にならなかった。むしろ、雨が彼に大胆な行動を決意させていた。

 彼は自宅にある最も大きなカサをさして出かけた。祭りの太鼓は、いつの間にか消えている。

 公園に着くと、すでに屋台は片付けられ、数人のひとたちが6本の支柱で支えられた8畳ほどの白いテントの下で動き回っている。

 その中に、麻由未がいた。テントの下は天井から吊るされた3個の裸電球の明かりで照らされている。

 冬季は急いだ。

「お祭りはもう終わりですか?」

 冬季は、背中を見せている麻由未に向かって声を掛けた。

「はい。この雨で……」

 麻由未はそう言いながら振り返った。その途端、麻由未の顔色が変わった。

「藤沢さん……」

 麻由未は、後ろにいる2人の初老の男女に、「この方にお話がありますので、先に失礼させていただいてよろしいでしょうか」

 と言った。

 すると、

「どうぞ。役員でもないのに、いつもお手伝いいただいてありがとうございます」

 好意的な言葉が返って来た。

 麻由未は、

「藤沢さん、行きましょう」

 と言い、折りたたまれた自分のカサを手にして、藤沢のカサの下に入ってきた。

 藤沢は、麻由未が示す方向に歩きながら、

「よろしいンですか?」

 と、確かめる。

「いいンです。あと少しで終わる後片付けですから……」

 冬季は自分の家とは逆方向に歩いていることに気が付いていた。

 ふだんのルートではないが、駅に続く幅2メートルほどの細い道だ。

 街灯は、50メートル間隔くらいにしかない。薄暗く、冬季は興奮していた。

 麻由未は冬季のカサに入り、互いの肩が触れ合うほどに冬季と並んでいる。

「この先に、お話ができるお店があります」

 麻由未はそう言い、

「ご迷惑ですか?」

 と尋ねる。

 冬季は「いいえ」と言ったつもりだが、興奮の余り、声になっていない。

 冬季は考えていた。このまま店に入るより、街灯の明かりの下で、はっきりさせよう。他人のいる所では、言えないこともある。

 3つ目の街灯の下まできたとき、冬季は不意に立ち止まった。

「麻由未さん」

「はい……」

 麻由未は冬季を正面に見つめた。

「ぼく、いつもあなたのことが……」

 麻由未は冬季のことばを遮り、

「藤沢さん、腕時計を見つけてくださったそうで、ありがとうございます」

「いいえ、それは……」

「ただ、わたしも気になっています……」

「何でしょうか?」

「あの腕時計が、亡くなった夫のものだとどうしておわかりになったのか。名前は書いてありませんでした」

「それは……」

 どうってことはない。

「あの日、帰宅途中に、公園の砂場で、息子さんと一緒に探し物をされている奥さんの姿をお見かけしたものですから」

「そう……」

 麻由未はまだ合点がいかないようす。

 カサを通す薄明かりに照らされた麻由未の顔は、ゾクッとするほど妖艶な魅力にあふれている。

 辺りに人影はない。霧雨が小止みなく降り続けている。冬季は理性を失っていた。

「麻由未さん……」

「でも……」

 冬季はカサを持たないほうの手を彼女の背中に回した。

「わたしのことは、それまでご存知じゃなかったのでは……」

「同じ町内です。あなたのような美人を知らないわけはないでしょう」

 冬季の手に力が入る。

 このまま女の体を引き寄せれば、思いはとげられる。

「わたしたち、転居して来てまだ半年にもなりません。町内会の名簿作成時に越してきて、うまく間に合ったくらいです。わたしはこのご町内のことはまだよく知りません。大磯さんにはいろいろご親切にしていただいているのですが、何のお返しもできなくて……」

「大磯!?」

「あの方、とってもいい方で……」

「大磯があなたに……」

「お仕事も紹介していただきました」

 冬季は、気持ちが萎えるのを感じた。

 麻由未は冬季の変化を敏感に察知したのか、持っている自分のカサを広げた。

「もうお話はすべて済んだようですので、失礼します」

 麻由未は冷めた口調でそう言い、踝を返した。

 冬季はいきなり隣人から拳骨を食らったように、しばらく呆然としていた。


 3ヵ月後。

 晴れた秋の休日。

 冬季は妻の菜津とドライブに行くため、朝から車を洗っている。

 と、隣の大磯が駐車場に現れ、車に大きなトランクを積み出した。旅行らしい。

 大磯は冬季を見て、

「おはようございます」

 冬季は挨拶を返してから、

「ご旅行ですか」

「家族がふえたもので……」

 恥ずかしそうに言った。

 すると、再び隣家のドアが開き、女性が現れた。

 冬季はその瞬間、動転した。麻由未だ。化粧をしているせいか、以前より、はるかに美しく見える。

「お世話になります」

 麻由未はとりすましてそれだけ言うと、車の助手席に消えた。

 続いて高雄が現れ、

「オジさん、ぼく、ここのこどもになったの。これからもよろしくお願いします」

 高雄は後部座席に乗ると、大磯は運転席に乗り、素早く車を出した。

 冬季は呆然と見送った。菜津がバッグを手に現れ、

「あなた、なにしてンの」

「オイ、お隣……」

「越して来られたの。先週、一緒にご挨拶に見えられたわ。一応、新婚だって」

「どうしてもっと早く教えてくれなかったンだ」

「言ったわよ。未亡人がいなくなって残念ね、って。あなたはいつもひとの話を聞かないから……」

                (了)

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