第38話 引き取りたい
「想太を引き取りたいんです」
カフェの奥まった席について、注文を終えると、想太の父親は、前置きもなく言った。
「わかっています。今頃何を言うのかと思われるでしょう。身勝手なことを言っているのは、重々承知しています。それでも、想太を引き取りたいんです」
姉と彼は、想太がまだ赤ちゃんのときに離婚し、その後は、姉が1人で想太を育てていた。そして、彼女が事故でなくなったとき、彼は、再婚を決めていたため、想太を引き取ったのは、想太の祖母である佳也子の母だった。その母が亡くなったあとは、佳也子が想太を育ててきた。
「あのときは、しかたなかったんです。再婚相手の、嫁が、自分は、赤ちゃんを育てる自信がないと言ったので。でも、今なら、想太もずいぶん大きくなっているし、手もそんなにかからないでしょう。やっと、嫁も、引き取って育てることを同意してくれたんです。
それで、こうして飛んできたんです。なんとか、あの子を引き取りたいと思って」
『飛んできた』……。
まるで、ずっと会いたくてたまらなかったのを、今日まで我慢してたみたいな言い方だ。何年間も、会いに来ようともしなかったのに。
佳也子も佳也子の母も、ただの一度だって、彼が、想太に会いに来ることを拒んだことはない。
そもそも、彼は何も言ってはこなかった。何も、だ。
赤ちゃんの面倒は、ようみぃへんけど、5歳児ならなんとかなるわ、とでも?
ふざけるな! 大人の都合で、想太を振り回そうとするな!
佳也子の心は、怒りで一杯になる。
「お断りします」
一言答えるのが精一杯だった。
それ以上、口を開いたら、あふれだした言葉が止まらなくなるに違いない。
佳也子がそう答えることは、想定内だったのか、相手は怯まない。
「いや、もちろん、これまでに、あの子を育てるのにかかった費用もちゃんと考慮して、できる限りのことはさせていただきますので」
佳也子は、言う。
「そんな問題ではありません。想太を、大人の事情で振り回したくはありません」
「そうです。だから、これからは、父親である自分が、責任をもって、面倒を見ようと。君もこれで、子育てから開放されて、自由に過ごせます。悪い話ではないはずです。君自身のこれからを思えば」
自分の目的を達するためなら、なんとしてでも、相手を言いくるめようとする話し方をする人だ。
だが、彼は、声をけっして荒げることはしない。
「赤ん坊のころから、ここまで、あの子を育ててきた君には、感謝の気持ちでいっぱいです。本当に大変だったでしょう。だから、そろそろこの辺で、その重荷を、父親である僕が引き受けます。今まで、親として何もしてやれなかったので」
やれなかった。
やらなかった。
日本語ってすごい。ほんの一文字入れ替えるだけで、伝わる意味が全然違う。
佳也子は、一瞬、そんなことを思う。
彼が繰り返し使う、『親』という言葉。彼は、その言葉が、相手の心に与える効果を意識している。
「もちろん、君としても、いろいろ都合があるでしょうから、すぐに、とは言いません。でも、こちらは、もういつでも、受け入れる準備はできています。ですので、できるだけ早く、いい返事を聞かせてください。では」
自分の言いたいことだけを、ほぼ一方的に伝えると、彼は、席を立つ。
「ここは、僕が払っておきます。」
伝票を掴んで、言う。
「いえ、結構です!」
彼は、佳也子の言葉も待たずに、出入り口に向かった。
振り向いたりもしない。
心の中が、ぐちゃぐちゃだ。
このまま家には帰れない。
店を出たあと、佳也子は立ち止まった。そして、我慢できずに、スマホのアドレス帳の圭の画面を開く。
一瞬、迷ったけれど、思い切って、受話器のマークを押す。
「もしもし。佳也ちゃん。」
圭の柔らかな声が聞こえる。
「……ごめん。忙しいのに、電話して」
「いいよ。大丈夫。今、一つ仕事終わって、ちょうど帰るところでね。だから、歩きながら、話せるよ」
この頃、仕事帰りに、散歩しながら帰ることも多い、と圭は言っていた。
佳也子も歩き出して、近くの公園に向かう。
「いつもと声の感じがちがうね。どうした?」
電話で話すことが多いこともあって、圭は、佳也子の、ちょっとした声の違いを感じ取って、佳也子の気持ちを察してくれることも多い。
「今日ね……」
話し始めたところで、公園の入り口に着いた。
公園内は、ランニングやウォーキングをする人達が、結構、あちこちにいる。けれど、他人の会話にまで注意を払う人は、いなさそうだ。
「何だ、それ!!」
佳也子の話を聞いて、圭の声が、激しくなる。
「想ちゃんを、今になって……。だめだ! 絶対、だめだ! 想ちゃんは、俺らで育てる! 俺らの子だ!」
「……圭くん」
「佳也ちゃん、大丈夫だ。絶対、想ちゃんは、俺たちで育てよう。今まで放っておいて、急に、引き取りたい、なんて、なんかおかしいよ。何か、今までと違う事情が、引き取らないといけない事情ができたのかもしれない」
引き取らないといけない事情。
そうかもしれない。
丁寧に頼んでいるようでありながら、余裕のない、あの話し方。
何かを隠しているような……。
「佳也ちゃん、何とか、時間作って、俺もそっちへ行く。何なら、そいつと会うよ」
「ありがとう、圭くん。でも、とりあえずは、私の方で、なんとかするよ。だから、来なくても大丈夫。でも、やっぱり、どうしても、ってなったときは、頼むから。そのときは、相談にのってね」
「わかった。でも、なんかあったら、絶対、言うんだよ」
「うん。ありがとう。じゃ、そろそろ帰るね。ごめんね。声聞けて、すごく嬉しかった。ホッとしたよ。ありがとう」
「こっちこそ、ありがとう。電話してくれて嬉しかった」
圭の声が、佳也子の心を包み込むように、柔らかくなる。
この声が聞きたかった。ホッとする、温かい声。
優しく受け止めてくれる声。
もしかしたら、圭の顔より、姿より、声が一番好きかもしれない。
そう言ったら、圭はなんと言うだろうか。
やっと、少し心が落ち着いた佳也子は、家路をたどる。
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