幾幌駅
口羽龍
幾幌駅
川上益男(かわかみますお)は大学生。東京で暮らしている。長い夏休みを利用して、北海道をバイク旅しようと思い、北海道を走り回っている。
北海道は広大で、自然が素晴らしい。そして、海の幸も山の幸もおいしい。そんな中をバイクで旅するのは、かねてからの夢だった。
今日泊まる宿は、『民宿天北』というらしい。情報によると、かつて駅があった場所にあり、ブルートレインの3段ベッドで泊まるらしい。昨日泊まった宿とは少し違う。というより、こんな宿に泊まった事がない。どんな宿だろう。
時間は午後8時。もう日が暮れて辺りは暗くなっている。辺りに光が見えない。無人の原野が広がっているんだろう。
どこまでも続きそうな原野を走っていると、小さな木造の駅舎らしき建物が見えてきた。これがそうだろうか? でも、こんな所に駅があったという事は、ここはもっと家屋があったんだろうか? 全くその痕跡がないけど。
よく見ると、『民宿天北』という看板がある。確かにここだ。益男は建物の前にある駐輪場にバイクを停めた。
「今日はこの民宿か」
益男は民宿の入口をじっと見た。民宿天北はかつてここを走っていた歌別(うたべつ)線の幾幌(いくほろ)駅だった場所にある駅だ。30年余り前に廃止になった歌別線の幾幌駅は、かつてここにあった幾幌という集落の人々のための駅だ。集落からは少し離れていたものの、多くの人々が利用したという。だが、モータリゼーションの進展で集落の中心部を通る道路が歌別線と並行して走るようになった。それによって、歌別線は利用客が減っていった。そして、国鉄再建法による赤字ローカル線のバス転換の波にのまれ、廃止になったという。
幾幌駅の駅舎はその後も残り続けた。幾幌の人々はこの集落の発展に貢献した幾幌駅をこれからも後世に残そうと清掃活動などを行い、駅舎を守ってきた。だが、幾幌から人はいなくなり、幾幌駅は整備されなくなった。そして、朽ち果てるままだったという。
そこに、かつてここの駅長をしていたという人とその家族がやって来た。共に過ごした幾幌駅が朽ち果てる姿を見て、ここに幾幌という集落があった事を伝えたいと思い、ここに民宿を開いたという。
「お邪魔しまーす」
「あっ、いらっしゃいませ」
駅舎に入ると、フロントに1人の男がやって来た。この男が幾幌駅最後の駅長だった山本正二郎(やまもとしょうじろう)だ。もう70代にもなる老人だが、とても元気だ。
「本日予約しました、川上益男と申します」
「あっ、どうぞ」
と、山本は硬券を渡した。その硬券は昔の電車の切符風で、そこには今夜泊まるベッドの番号が書かれている。鉄道好きがワクワクしそうなサービスだ。
2人は駅舎を後にして、幾幌駅のホームだった場所にやって来た。ホームは島式で、駅舎寄りのホームにはブルートレインが泊まっている。往年の寝台列車、20系客車だ。デビュー当時、走るホテルと言われ、『ブルートレイン』を寝台特急の代名詞にした名車だ。この中に宿泊するベッドがあるようだ。
幾幌駅は最後まで行き違いのあった駅だが、晩年の乗降客はほとんどなく、半ば行き違いのための信号所のようだったという。
2人は車内に入った。車内には3段ベッドがある。ここに泊まるようだ。すでに何人かが泊まっていて、話し声が聞こえ、行き来する人もいる。
「こちらが今日宿泊するベッドです」
「ありがとうございます。本物の寝台車ですか?」
益男は驚いた。幼少期に読んだ絵本で見た寝台車に乗れるなんて。今では全部廃止になってしまい、乗れなくなってしまったと思ったら、こんな所で乗れるなんて。
「はい、そうなんですよ」
山本は笑みを浮かべた。この寝台車を使って民宿をするのが夢だったという。その夢を叶える事が出来て嬉しそうだ。
と、宿泊者がベッドから出てきた。彼らは鉄道オタクのようだ。写真を撮ったり、グッズを見せ合ったり、楽しそうだ。
「すっごいなー、これ、本物の寝台車を使ってるんだって」
「こんな所で眠れるなんて、夢物語だよ」
益男はその様子を見て、何も感じなかった。こんな人もいるんだ。自分は鉄道オタクではない。普通の大学生だ。
荷物をまとめた益男は駅舎にやって来た。寝るまでの間、少しここを散策しようと思ったようだ。駅舎の一部は休憩室になっている。休憩室には1人の宿泊者がいて、鉄道部品を食い入るように見ている。
益男はあちこちにある鉄道部品に見とれた。こんなに多くの部品があるなんて。まるでここは博物館のようだ。本当にここは休憩室だろうか?
「すっごいですね」
「えっ、どうしたんですか?」
休憩室でパソコンを使っていた山本だ。山本は今日の日記をブログで書いていた。山本はここでの出来事をブログで書いているようだ。この原野での出来事、寒い冬の生活、副業の酪農や農業の日々、野菜の収穫。まるで残りの人生を楽しんでいるようだ。
「これ、全部鉄道部品ですか?」
「はい」
山本は笑みを浮かべた。これだけ鉄道部品の集めた事を誇らしげに思っているようだ。
「こんなに集めたんですね」
「ええ」
更に見ていると、昔の写真がある。駅名標を見ると、『いくほろ』と書かれている。これは昔の幾幌駅の写真のようだ。
「これが昔の幾幌駅?」
「はい」
山本は席を立ち、益男の横にやって来た。その写真に反応して、見に来たようだ。写真には、ホームで電車を待っている人々がいる。こんな豊かな時代があったんだ。こんな時代に行ってみたかったな。
「けっこう賑わっていたんですね」
益男はその写真を見て信じられなかった。こんな原野にある駅がこれほど賑わっていたとは。全く想像できない。ここの人々は、みんな幾幌を出て行ってしまったんだろうか? そして、豊かな都会に移り住んだんだろうか?
「あの頃はよかったな」
山本は賑やかだった頃の幾幌を思い出した。山本は長年、幾幌駅のあった歌別線の運転士をしていて、昔の幾幌駅の事を覚えている。幾幌駅は多くの人が行き交い、今では信じられない程だった。だが、時代は変わった。もうだれも
更に進んでいくと、歌別線の最終日の写真が飾られている。幾幌の人々が多く駆けつけ、見送っている。この集落の発展に貢献した歌別線が、その使命を終えて姿を消そうとしている。みんな残念そうな表情だ。
そして、その中には、最終電車を見送る幾幌の人々の写真がある。こんな最後だったんだ。どんな思いで最終電車を見送っていたんだろう。益男は思わす考えてしまった。
見とれているうちに、もう午後10時だ。そろそろ寝台車に戻ろう。
午後11時になると、突然、チャイムが鳴った。客車に付けられているチャイム、『ハイケンスのセレナーデ』だ。益男はその曲の名前は知らないし、聞いた事がない。突然、チャイムが鳴って驚いた。
「本日は、民宿天北にご乗車いただきまして、誠にありがとうございます。時刻は午後11時になりました。すでにお休みの宿泊者もおられますので、緊急の場合を除きまして、明日7時の起床時刻まで、放送によるご案内を中断させていただきます。また、車内を少し暗くさせていただきます。なお、お休みの際には、貴重品は肌身離さずお持ちください。それでは、ごゆっくりお休みください」
すると、車内が暗くなった。昔の夜行列車もこんな感じだったんだろうか? 絵本に載っていた寝台特急はみんな廃止されてしまった。もう乗れないのだ。だが、こういう形で残しているって、素晴らしいな。
益男はベッドを出て、通路にやって来た。非常灯がうっすらと光っている。車内は静かだ。辺りには駅舎の明かりしか見えない。現役の駅舎の最晩年もそうだったんだろうか? 歌別線最後の夜、最終電車を見送った時もこんな風景だったんだろうか?
午前7時、益男は車内放送で目が覚めた。この車内放送でも『ハイケンスのセレナーデ』が流れる。これまた夜行列車らしい。
「皆様、おはようございます。時刻は7時になりました。民宿天北にご乗車いただきまして、誠にありがとうございました。またのご利用、お待ちしております」
それと共に、何人かの人が起き、駅舎に向かった。この民宿ではモーニングサービスがあるらしい。素泊まりでチェックアウトするつもりだったけど、ついでに食べていこうかな?
益男は駅舎にやって来た。駅舎では山本がモーニングサービスを作っている。チーズの匂いがする。チーズを使った料理だろうか?
「すいません、モーニングサービスお願いします」
「はい」
益男はテーブルに座り、モーニングサービスを待った。後から続くように、昨日泊まっていた人々もやって来た。
しばらくして、山本がモーニングサービスを持ってきた。北海道で収穫された野菜の温野菜、パン、コーンポタージュ、フルーツポンチだ。
山本がそれらをテーブルに置くと、またキッチンに向かった。今度は何を持ってくるんだろう。益男はワクワクしていた。
すぐに山本は戻ってきた。手には半円のチーズが置かれている。チーズの割れ目は焼かれておこげができ、柔らかくなっている。そのチーズをどうするんだろう。益男は首をかしげた。
山本は柔らかくなったチーズを温野菜の上にかけた。チーズは温野菜に絡んでいく。ラクレットだ。
「こちらでございます」
「いただきまーす」
益男はラクレットを食べた。とてもおいしい。朝食からこんなのが食べられるとは。
「おいしい!」
「この大自然の恵みがあるからおいしいんだよ」
山本は笑みを浮かべた。家族はこの近くで酪農を営んでいる。この民宿を開業すると同時に、息子とその家族は酪農を始めたそうだ。その過程でチーズなどの乳製品の加工品も作っている。この民宿の食事で使われているチーズはみんなこれだそうだ。
朝食を食べ終えると、益男はフロントに向かった。フロントには山本がいる。山本は鉄道員の服装をしている。現役時代に使っていたものだろうか?
「昨日はありがとうございました」
「いえいえ」
益男はバイクに乗り、次の町に向かって走り出した。夜と違って、原野の風景がはっきりと見える。原野はどこまでも続いているようだ。いかにも北海道らしい風景だ。この中を電車が走っていたんだ。現役の頃に乗ってみたかったな。
と、益男は道端で白い棒を見つけた。棒には『35』と書かれている。キロポストだ。だが、益男にはそれが何か全くわからない。でも、益男にはわかった。この道は廃線跡だ。ここに鉄道があった証拠なんだ。
「ここって、鉄道跡だったのか」
その時、後ろでSLの音が聞こえた。まさか、SLがやってくるんだろうか? 益男は振り向いた。だが、そこにはレールがなく、あるのは民宿天北とそこに展示してあるSLだ。そのSLは現役さながらに今でも汽笛を鳴らせるようだ。
もうそこに鉄道はない。だけど、この民宿が教えてくれた。この近くに幾幌という集落があった事。幾幌が賑やかだった頃。この道はかつて線路だった事。それを後世に残していこうとする宿主。ただ1泊するだけだったのに、昨夜は素晴らしい体験をする事ができた。
幾幌駅 口羽龍 @ryo_kuchiba
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