椎の村の人(4)
――コンコン、とノックの音。
もう夜なのに、である。
ハールは、日記を書く手をとめた。
誰かと思って開けてみると、何と、ラインヴェールだった。
「こんばんは。遅くに失礼」
やや、彼は視線をそらせ気味だった。
「ど、どうしたのですか? ラインヴェール様」
「……様はいらないですよ。我々は、兄弟みたいなものではないですか」
ぎこちなく、彼は言った。
ハールは、少しだけほっとした。
もう二人の間には、学校長と一教師という関係しかない。距離を置いて接するしかないと思っていたのに。
正直、ラインヴェールに嫌われたかと思うと、とても心細かった。ハールには、この椎の村で、まだ彼ほど頼れる人がいなかったのだ。
「たいした用事ではないのですがね、今日、ずっと胃を押さえていたでしょう? だから、もしかして夕食を食べていないかと思いましてね。舞米の粥というまずい代物ではありますが、作りすぎて残したから、食べるかなぁと思いましてね」
よくよく見ると、ラインヴェールは小さな鍋を持っている。蓋を開けると、湯気とともに香りが立った。
ハールは、急にお腹がすいてきた。
舞米はまずい。だが、ハールにとっては、懐かしい学び舎の香りだ。食べ慣れていて、消化によく、栄養価も高い。
「あ、ありがとうございます……」
なぜか、泣けてきた。
少し遅めの夕食を食べた。
その間、ラインヴェールは、薬湯を飲みながら――しかも、自分で入れて――ハールの食べっぷりを見ていた。
「ゆっくり噛みながら食べるんですよ」
と、彼は言うが、舞米はほとんど全粥状態だった。胃にしみ込むようだった。
「……あなたはてっきり怒ったのかと思っていました」
恐る恐るハールが言うと、ラインヴェールは小さくため息をついた。
「少しだけ怒りましたよ」
「も、申し訳ありません。学び舎で神官課程を出たこと……嘘をつくつもりはなかったのですが……」
「隠そうとしたことを怒っていたのではありません。兄のように……と言っておきながら、黙っているつもりだったことを、です」
「あ」
そう、ラインヴェールには言うつもりがなかった。
神官の子供や神官課程の学生に対して、明らかに負の感情を持ち、その傷を隠していると思われる彼には。
もし学び舎の神官課程を出たと知られたら、きっと警戒され続けて、鼻持ちならないと思われてしまうだろう。それくらいなら、能力がないふりをして、彼をたてたほうがずっと扱いやすい。
「しかも、暗示にかけていましたね。ラン・ロサ様に会うまで、すっかりだまされてしまいましたよ。私は、確かに神官の子供ではありませんし、ムテの能力が高いわけでもありませんが」
ラインヴェールはしょぼんとした。
「あなたとは、話があうと思ったのですよ。本当に」
ラインヴェールは、ハールが同類だから心を開いたわけではなかったのだ。話があうと思ったから……だった。
それなのに――。
思えば、自分はどこか教師という職を馬鹿にしていなかっただろうか?
神官になれないならば、教師程度の仕事でいいと。そして、神官の子供ではないラインヴェールを、どこか下に見ていたのではないだろうか?
幼い日々から植え付けられた選民意識というものは、そう簡単には払拭できない。一般人になりたいと言いながら、どこか上目線の自分、学び舎出身の意識を捨てられない自分がいる。
ハールは、恥ずかしさでいっぱいになった。
「あなたは私を学び舎にいなかったと思ったようですが、いたのですよ。十年間ほど」
ラインヴェールは、懐かしむような顔をして言った。
「え? でも……あなたは」
神官の子供ではない。となれば、学び舎の神官課程からは追い出されてしまう。
「ええ、ですから追い出されました。ところが、私の故郷の神官は性格が悪くて……。自分の血を持っているかもしれない子の出戻りを受け入れなかったらしいのです。私は、学び舎の掃除夫に引き取られて、十歳まで育てられました。でも、そのうち学習能力が認められて、一般人でも入れる教員課程に入学を認められたのです」
「そう……だったのですか……」
ハールは、自分の浅はかさに恥ずかしくなった。
学び舎は、神官の子供と名がつけば、誰でも一度は入れる。だが、一度出された者が、再び迎え入れられることは、ほとんどない。
幼いラインヴェールは、養父が働いている間、教室の窓辺で授業を聴いていたに違いない。そして、必死に勉強した。それを、学び舎は認めたのだ。
「二十歳を迎えて、学び舎を出たあと、故郷に帰ることも考えましたが。一度受け入れられなかったことを思うと、ぞっとしてしまいましてね。そんな時に、ラン・ロサ様に認められて、椎の村の教師として働くことになったのです。かれこれ、三十年以上も前になりますが」
ラインヴェールの歩んできた人生に比べて、ハールの人生はなんと薄っぺらなことか?
「私は……恥ずかしいです。神官の子供でありながら、二十年も学びながら……その権利がもらえなかった。だから、もう学び舎にいたことは忘れてしまいたくて。誰にも知られたくなくて……」
忘れて……普通の人として、誰にも期待されず……。
そのまま、世界の片隅で、そっと人生を終えることができたら……。
ラインヴェールは、ハールの手を握りしめた。
「おかしいとは思っていたんですよ。なぜって、あなたには力を感じるし。それに、学び舎を追い出されて育ったにしては、世間擦れしていないし。だから、どうしても放っておけない。兄のようにと言ってくれて、たよりにされて、本当にうれしかったんですよ」
ハールは、ぽろぽろ涙を流した。
学び舎を出て以来、不安なことばかりだった。でも、一人ではない。いい出会いがたくさんあった。
カシュ、リリィ、アリア、そしてラインヴェール。
「ありがとうございます。ラインヴェール」
「ラインでいいですよ。それが、元々の私の名前でしたから」
「え? 元々の名前?」
ハールは驚いた。
魔族は、どの種族も偽名や仮の名を嫌う。名を変えるのは、まずあり得ない。
ラインヴェールは照れくさそうに言った。
「もしも私が神官の子供であったとしたら【ライン・ベヌ】という名だったのです。あなたが最初に読んだ通り、私には「神官の子供ではなかった」という劣等感がありました。忘れたつもりでも、乗り越えたつもりでも、今も時々、苦しくなります」
ハールが感じたのは、その覆い隠された劣等感だった。
だが、本当に気がつくべきは、覆い隠しているヴェールのほう、彼がいかに克服してきたか? のほうだった。
「ラン・ロサ様が、それを気にしてくださって、ラインヴェールの名を付けてくださったのです。自分の生きてきた道を、恥じてはいけないと」
人生は、山あり谷ありだ。
ラインヴェールも、簡単には乗り越えてきてはいない。何度も挫折を味わい、その度に苦労をしたのだろう。だから、人生初めての大きな挫折に苦しんでいるハールを、他人事とは思えなかったのだ。
「ライン」
その名を呼んで、ハールは胸の中が熱くなるような思いにかられた。
心のそこから、すばらしい友情に巡り会えたと実感した。
「あ、でも学校では【学校長】と呼んでくださいね。私にも、威厳ってものが必要ですからね」
「はい、学校長」
二人は、顔を見合わせて笑った。呼び方が変わっても、気持ちは一緒だった。
ラインヴェールが帰ったあと、ハールは日記の続きを書いた。
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