にいさま、もーっと怖い話をしましょう⑯
次の瞬間、僕は世界が切り替わるのを感じた。
僕の意識は白い光に包まれ、そして――――……、
――――――――…………
――――……
――
「――ん、ここは……」
気づくと、僕は広い座敷の真ん中にいた。
どうやら僕は座敷の
机から顔を上げると、赤い着物姿の少女と目があった。
「――――待っていましたよ、にいさま」
少女がにっこりと微笑む。
「……どうやら夢じゃなかったみたいだな」
「夢だったことにしたら、さすがに怒りますよ」
「夢オチでもオチが付くなら、怪談としてはアリじゃないか?」
「はあ……。怪談がどういうものなのか、にいさまはまだよく分かっていないようですね」
「そういうことも含めて、これから知っていけばいいんじゃないか。僕と、きみで」
「むう……、その言い方は卑怯です」
そして、僕と妹は再び手を取り合って立ち上がる。
僕は無事、現実世界へ戻ってきたらしい。
物語世界と同じように、こちらも夜明けを迎えたばかりのようで、外からは朝の日差しが注いでいた。
僕と妹は屋敷の長い廊下をたどって、玄関へと向かった。
屋敷を出ると、朝焼けの中で僕たちを出迎えたのは――なんと、
我が親友、
思ってもみなかった人物の登場に、僕は隣に妹がいることも忘れてその場に立ち尽くす。
「えっ、才吾……お前、死んだんじゃなかったのか!?」
「は? 何言ってんだよ。死んだかと思ったのはこっちだぞ!」
呆気に取られる僕に向かって、才吾がものすごい剣幕で怒鳴った。
「お前が勝手に一人で行っちまうから、俺、心配で心配で……!」
「えっ、そ、そうだっけ……?」
「……お前なあ」
才吾が言うには、昨夜、僕と才吾は同じ高校の生徒何人かと噂の怪談屋敷へ肝試しに来たという。
しかし、他のメンバーが屋敷に入って早々に仲間割れを起こし、肝試しは中断。
皆が続々と帰っていく中で、僕だけが一人で屋敷の奥へと進んでいき、そのままどこかへ姿を消してしまったのだという。
「俺が一緒に肝試しに行こうなんて言ったもんだから……俺、お前にもしものことがあったらどうしようって、ずっと……」
「そ、そりゃ、悪いことをしたな……」
「そうだぞ。俺、ずっとお前のこと呼んでたんだからな。一晩中、おーい、おーいって」
ずっと呼んでいた?
一晩中?
――おーい、おーい、おーい!
――おぉーい、俺だよ俺。
ああ、そうか。
じゃあ、あの声は。
「……そういうことだったのか」
僕はひそかに苦笑する。
物語世界の恐怖体験は現実世界を反映していた。
しかし、そのすべてが恐怖を原因とするわけではなかったのだ。
「……ってオイ、どうしたんだよ、その子」
才吾が僕の隣にいた少女に気づいて怪訝な顔をする。
「ああ、こいつは僕の妹だよ」
「何言ってんだ、お前に妹なんていないだろ」
「そうだな。僕に妹はいない。だから、こいつは僕の妹なんだ」
「……わけわからん」
なんにせよお前が戻ってきてよかったぜと笑う才吾に続いて、僕たちは怪談屋敷を後にする。
門を出たところで、僕はふと足を止めた。
振り返った先にある屋敷は確かに大きく立派だったが、門も廊下も朽ちかけていて、とても人が住めるような状態には見えなかった。
結局、僕がいなくなっていたのは、たった一晩だけのことだったらしい。
家に帰ってまず驚いたのは、両親が普通に生きていたことだった。
肝試しに出かける前、僕は帰りが遅くなる旨をあらかじめ両親に伝えていた。だから最初は両親も、夜になっても帰らない僕のことを、それほど心配してはいなかった。
しかしその後、僕が屋敷で失踪。
両親は才吾から事情を聴き、町中を探し回っていたという。
警察は家出の可能性を考慮して、朝を待って動くということで話が付いており、僕が家に帰ったときには、まさに父さんが警察署に再び出向く直前のタイミングだった。
そこに僕が何事もなかったかのように帰宅した。
当然、僕は両親にしこたま怒られた。
しかしそこで浮上するのが、僕が連れ帰ってきた妹の存在だ。
だが、僕が「何言ってるんだよ、こいつは僕の妹じゃないか」と言って、妹がニィッと二人に微笑みかけると、
「あ、ああそうか、そうだったな」
「どうして忘れてたのかしら」
と、すべてをなんとなく受け入れていた。
あらためて末恐ろしい妹だと思う。
そして。
その日、特に大きなケガもないということで、僕は普段通り朝から登校することになった。両親がすでに学校にも連絡していたために、先生たちに事情を説明するのが難儀だったが、大ごとにならずに済んだということで、思ったよりも早く僕は解放された。
放課後、少し遅れて文芸部の部室に行くと、
「おお、来たか」
「どうも」
僕が会釈すると、先輩は少し執筆の手を止めて、僕を一瞥した。
「きみ、なんか行方不明になってたらしいじゃないか。噂になってたぞ」
「いえ、なんかその、ご心配をおかけしました」
「まったく勝手にいなくなられては困るよ。きみは私の貴重な読者で、弟子なのだからね」
「弟子ではありませんが……」
毎度のやり取りが行われる。
そして、僕と先輩が次の文集で発表する作品の話に移ろうとしたところ、
「せーんぱいっ」
甲高いアニメ声とともに僕に飛びついてくる女子生徒がいた。
言うまでもなく、例の後輩だ。
「うわっ。お前もいるのかよ」
「もちろんです。私、先輩のこと、諦めたわけじゃありませんからね」
「何げにお前の存在が一番謎なんだけど……」
「いいじゃないですか。ほらほら先輩、私と楽しい話をしましょうよ〜」
後輩のウザ絡みに、僕はたじたじになる。
どうしたもんかと僕が懊悩していると、
「いいえ、にいさまは私と怖い話をするのです」
突然、どこからか現れた妹が、僕と後輩の間に割って入ってくる。
「そうですよね、にいさま?」
妹が僕を見上げて微笑む。
僕は「ああ、まあ、うん」と曖昧な返事をすることしか出来ない。
「いえいえ、先輩は私と楽しい話をするんです!」
「いーえっ! にいさまは私と怖い話をするのです!」
「私とですよね、先輩?」
「私ですよね、にいさま?」
「先輩?」
「にいさま?」
妹と後輩が僕を挟んで言い合いになる。
僕はなんとかして場を収められないかと逃げ道を探すが、
「なんだなんだ。きみ、今日は私の小説を読んでくれるんじゃなかったのか」
ついには夜見嶋先輩までもがこちらに混ざってくる。
おいおい、こんなのどうすりゃいいんだ。いよいよ収拾がつかないぞ。
なんだかなんでもありになってきたな。
しかし……いくらなんでも、なんでもあり過ぎじゃないか?
これではまるで、まだあの物語世界の中にいるみたいな――、
僕の中に一抹の不安がよぎった。
そんな。
まさかな……、
「…………なぁ――――――――――――――んて」
妹がニタリと口元を歪ませたのを、僕は見た。
「え……っ?」
バンッ!
刹那、何かが破裂したような音がして、視界が真っ暗になった。
「うぇっ? な、なんだっ?」
停電か?
いや、だとしても、まだ日は沈んでいなかったはず。
急にこんなに暗くなるのはおかしい。
慌てて見回した部屋の中はやはり暗闇に閉ざされており、窓の外を見ると夜とも昼ともつかない黒くぼんやりとした空が覗いていた。
そのうち闇に目が慣れてくる。
見ると、一緒にいた後輩も先輩も薄闇の中で黒い影と化しており、二人ともどんどん輪郭がぼやけていっている。
その中でただ一人、妹だけが元の姿を保ったままだった。
「ふふっ、にいさまは本当に仕方のない人ですね」
「な、なにを言って……」
たじろぐ僕を冷たく見据え、妹は語り出す。
「怪異を起こす呪われた本だとか。不気味で不可思議なお屋敷の因習だとか。忌まわしくて忘れたい過去の記憶だとか。死んだ友人の幽霊だとか。裏の世界の隠された真実だとか。謎の神様みたいな何かだとか……そんなものはどうでもいいんですよ」
「どうでもいい……?」
「そうですよ。にいさまはそんなものが恐怖の説明になると本気でお思いなのですか?」
「だって、それは……」
僕は言葉を継ぐことが出来ない。
「だとしたら――、にいさまは愚かです。本当に愚かです。愚かで愚かで愛おしい」
妹は恍惚とした表情で僕に差し迫る。
わけが分からなくなった僕は、ただおそれ、狼狽する。
「なんだ、なんなんだ……? 全部説明が付いて解決したはずだっただろ……?」
「言ったでしょう? 理屈や理由なんてどうでもいいんです」
妹は僕を説得するような調子で語りかけてくるが、その唇の端からは、くふくふと口に空気を含んだような不自然な笑い声がこぼれていた。
「そんな簡単に理屈や理由が付けられてしまうようなことで、真の恐怖は得られませんよ。恋愛も恐怖も同じ。愛は理屈を越えるのです。そうでしょう、にいさま?」
陶然と僕に同意を求める妹の目は明らかな狂気を帯びていた。
妹は後ずさる僕に向かってしずしずと近づいてきて――、
「大好きです。愛していますよ、にいさま」
僕の耳元でそうささやいた。
途端に僕の全身に
「どうですか、にいさま? 怖いですか? 恐ろしいですか?」
くふ。
くふくふくふっ。
くふくふくふくふくふっ、ふっ、ふふふふっ。
「あはははははははははははははははははははははは――………………っ!」
妹が狂ったように
と同時に、黒い靄のようなものが辺りに満ち満ちた。
「さあ、にいさま。存分に怖がってください。得体の知れない恐怖に酔いしれてください。最高の恐怖を二人で一緒に創っていきましょう!」
妹が両手を広げ、僕に笑いかける。
「う、うそだ。こんなの……!」
「嘘ではありませんよ」
僕は目の前の光景が信じられなかった。
何かの間違いだと、そう思いたかった。
だけど。
なのに。
「駄目ですよにいさま、怖いものにはちゃぁんと怖がってあげないと」
妹がもったいぶるような、いじらしげな声で僕に告げる。
「でないと――――……」
妹が言いかけると、部室全体がガタガタと鳴動し始めた。
しまってあった本や原稿が落下する。
めくれ上がるページ。
バサバサと舞う原稿用紙。
紙の束が床一面に散乱すると、印刷された文字の列が剥がれて浮き上がる。
文字が飛び散る。
ずるずる。べちゃっ。ぼたっ。ぶちゃっ。
ずりゅっ、ぞろろろろっ。
ぐちゃっっ。べとっ。ぶちゅっ。
ずちょっ。
あふれ出した文字の群れでたちまち視界が黒く染まる。
鼻をかすめるのは、粘っこい腐臭だ。
ケモノの唾液を腐らせたような臭いが鼻腔をつんざく。
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まとわりつくこれは、霧でも黒い水でもなく――――、
文字だ。
全部、文字だった。
刻まれているべき文字が、
波打つ文字の泥濘に足を取られそうになる。
「うわああああああああああああああああああ――――っ!」
たまらず僕は部室を飛び出した。
暗がりの校舎を駆け抜ける。増改築を重ねてきたという校舎は、古い建物と新しい建物とが組み合わさっていて、どこがどこへつながっているのかも判然としない。
しかしその複雑な造りも、すべては僕を逃がさないためのものだといまは分かる。
僕を捕らえて離さない堅牢な迷宮。この校舎の謎めいた構造は、僕が囚われているこの世界そのものを表していたのだ。
僕はほうほうの体で学校から逃げ出した。
たった一人、何もない田舎道をひたすら走る。
しかしどれだけ走っても走っても、誰ともすれ違わなかった。
人っ子ひとり、猫の一匹にも出会うことはなかった。
いつのまにか日は落ちかけていて、重苦しい雲のかたまりが空を埋めていた。
焼けただれたような夕暮れだった。
赤い。
赤黒い。
赤と紫がどろどろに混ざったような薄明が、夕景の道を染め上げていた。
僕は必死に町から出ようとするが、走って走って走って――、
行き着いた暗闇の果てにあったのは――――、
あの、怪談屋敷だった。
「どうして……」
フラフラと屋敷に上がり込み、長い廊下を抜け――、
やがて奥の座敷にへたり込む。
座敷の中央には低い文机が置かれていた。
机の上を見ると、古びたノートのようなものが開きっぱなしになっていた。
見覚えのある冊子だ。
それは、この怪談屋敷の当主が残した日記の一冊だった。
開かれていたページを覗き込むと、そこには――、
――――私に妹はいない。
ただその一文だけが書かれていた。
「妹は、いない……」
僕は、あの妹は――僕を「にいさま」と呼ぶあの妹の姿は、怪談屋敷に残っていた日記をもとにしたものだと思っていた。
かつて怪談屋敷に住んでいた少女が残した日記の中にあった、兄を慕う妹の記述をもとに生み出された人格だと、そう思っていた。
しかし、そもそも怪談屋敷に妹はいなかったとしたら?
僕の仮説は前提から覆されることになる。
それに、妹がいない人間がわざわざ「妹はいない」などという記述を残すものだろうか? ひょっとして、「存在しない妹」の恐怖は、僕が思うよりもずっと以前から発生していたものなのか。その正体不明の恐怖にかつての怪談屋敷当主も苛まれていたのだとしたら……。
と、そのとき。
ヴーン……。
ジジッ、ジジジッ……。
僕はどこからか小さな音が聞こえるのに気づいた。
注意深く周囲を見渡し、目についたのは――座敷の奥の、床の間。
どうもその音は、床の間の裏のほうから響いてきているようだった。
「この広い座敷が屋敷の一番奥の部屋だと思ってたけど……もしかして、この向こう側にさらに奥があるのか……?」
音に導かれるように床の間の壁に手を添える。
すると、がたりと、引き戸のように壁の一部が横にスライドした。
そして、僕が見たものは――、
「なんだ、この部屋……」
開けると、そこには四畳半ほどの空間があった。
薄暗く、狭い部屋だった。
窓がない代わりに壁は床から天井まで本棚で覆われている。
本棚には漫画やライトノベルのカラフルな背表紙ががギッシリと詰まっており、床から棚の隙間、天井にかけては、アニメや映画のポスター、タペストリー、フィギュアやDVD、ゲームソフト、プラモデルなどが、ぞんざいに、所狭しと積まれている。
それらのグッズを掻き分けるようにして、部屋の奥にはつけっぱなしのノートパソコンがチラチラと白い液晶画面を輝かせていた。
ヴーン……。
ジジッ、ジジジッ……。
(音がしてたのはこのパソコンか……)
画面にはワープロソフトが開かれたままになっていて、書きかけの文章が表示されていた。
それは、未完成の小説のようだった。
僕の視線はそこに書かれていた文章に吸い寄せられる。
――――――――――
これから語られる物語の中に、わずかにでも真実が含まれているとは思わないでほしい。
――――――――――
……小説はそのような一文から始まっていた。
「これは……なんだ、これは……」
僕はパソコン画面の前で、かつてない恐怖を感じた。
「――見つけてしまいましたね、にいさま」
身を屈めていた僕の首筋を、妹のささやき声が
全身の震えを必死に抑え込んで、僕は振り向く。
「どうですかにいさま、怖いですか? 怖いですよね?」
赤い着物姿の妹が心底嬉しそうにキャッキャと笑う。
「なあ、なんだこれは。何がどういうことなんだ。きみは本当は何者なんだ」
「私はにいさまの妹ですよ」
妹は何度も聞いた台詞を繰り返した。
「じゃあなんなんだ! この屋敷には歴史も由緒もあるんじゃなかったのか! あやしい噂は本当なんじゃなかったのかよ!」
「そんなことはもうどうでもいいじゃないですか。ここには妹の私がいて、にいさまがいる。それだけで私は充分なんですよ」
ほら。
だから。
ねえ、にいさま。
私と。
ずっとずーっと私と。
「にいさま、もーっと怖い話をしましょう♡」
―― 虚妹怪談 第十夜 ――
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