そうめんでいいと言うなかれ〜文学喫茶オムレット3〜

松浦どれみ

第1話

日曜日の夜。文学喫茶オムレットでは、客足も途絶えたので閉店の札を出し、げん、坂本、松井、金井の四人の常連客と店長の藤崎日陽ふじさきひなたが定休日前の宴会中だった。スタッフの愛理と真白ましろは店内の片付けや客たちの空いたグラスや汚れた取り皿を取り替え、つまみや氷を用意するなど、甲斐甲斐しく客たちの世話をしている。藤崎の祖父、咲造さくぞうが経営していた純喫茶シェイクスピアでは酒は出していなかったが、オムレットは純喫茶ではないので夜のみ酒を提供していた。


「うわ、俺急にお腹すいちゃったなあ。愛理ちゃん、お茶漬けとかで良いんだけどご飯ものできる?」

「お茶漬けできますよ。鮭か梅、どちらになさいますか?」


 源がカウンターにいる愛理に声を掛けた。閉店後の時間の注文は、メニューにないものも受け付けている。


 源は「じゃあ鮭で!」と六十歳を過ぎているとは思えない、少年のような笑顔を愛理に向けた。建築関係の自営業をしてしている彼は、息子に会社を任せた今も現場に顔を出すので夏になる頃には肌がこんがりと小麦色になる。笑うと覗く白い歯がずいぶん爽やかだ。

 愛理はつられて笑顔で「かしこまりました」と会釈してから、カウンター奥のキッチンへ入っていく。


「愛理さん、俺もお腹すいちゃいました」

「じゃあ、ここで晩ごはんにしよっか。鮭たくご飯と玉子焼きでどお?」


 キッチンに入った愛理を追って、真白がキッチンへやってくる。彼は軽くお腹を手で押さえて愛理に甘える。出会って四ヶ月が過ぎ、愛理は真白を完全に餌付けしていた。ここ最近ずいぶん甘えん坊になった彼を前に、少し歳の離れた可愛い弟分は愛理の癒しとなっていた。


「最高です。じゃあ俺、味噌汁出します」

「了解。それじゃ、先に源さんのお茶漬け出すね」


 愛理はお茶の準備をして冷蔵庫から焼いておいた鮭の切り身とたくあんを出し、鮭を温め直した。その間にたくあんを刻む。小さめのどんぶりにご飯を盛り、たくあん、ほぐした鮭を乗せて緑茶を注ぐ。仕上げに刻み海苔を高めに盛り付け、鮭茶漬けが完成した。盆に乗せてキッチンを出る。


「お待たせいたしました。鮭茶漬けです」

「ありがとう愛理ちゃん。俺、愛理ちゃんのお茶漬け好きなんだよねえ」

「熱いので気をつけてくださいね」


 愛理が源の前に鮭茶漬けを出すと、彼はどんぶりにそっと両手を添え冷房で冷えた指先を温め一息つく。まるで温泉に入った瞬間のような顔でほっと安らいでいた。愛理は盆を持ちキッチンへと戻る。

 

 キッチンに戻った愛理は、残った材料の刻みたくあんと鮭のほぐし身、炒りごまをご飯に混ぜ、鮭たくご飯を作った。合わせて白だしと味醂を入れたほんのり甘めの卵焼きを作り、皿に盛り付けてから調理台に置く。最後に真白がインスタントの味噌汁を作って二人の夕食が完成した。


「この鮭たくご飯、素朴な味なのに妙に美味しいですよね」

「確かに、親しみのある味よね」

「玉子焼きも……ほんのり甘くてプルプルで、俺大好きです」

「良かった。私もこの揚げ茄子のお味噌汁、大好きだよ」

「いや、それインスタントなんですけど」

「いやいや、インスタントと言えど、このお湯の量が最適だと思うの」


 愛理が含み笑いをすると、真白は口を尖らせた。若干恨めしそうに愛理を睨み鮭たくご飯を掻き込んでいる彼の姿は、餌付けした人間だけの特権だった。



 食事の片付けを終えた二人はキッチンを出てカウンターを通り、客席の空いた食器などを片付けに向かった。


「愛理ちゃん、美味しかったよ」

「良かったです」


 源がどんぶりを下げる愛理に礼をしてにっこりと笑う。満足そうな顔と空になったどんぶりは、彼の言葉が本心であることを物語っていた。


「いやあ、本当に美味しかった。こんなんちゃちゃっと作っちゃって、愛理ちゃんきっと良いお嫁さんになるよ! ウチのなんか昨日、昼はそうめんいいって気使って言っても返事も寄越さなくて……」


 不満げな源の言葉に、愛理は眉をピクリと引き攣らせた。気付いたのは真白だけだった。他の連中は気付かず話を続ける。


 次に愛理は「へえ、そうめんなんて楽そうだけどな」と言いながら頬を赤らめ、酒の入ったグラスに口をつける藤崎に、射殺すような視線を送った。常連の坂本が視線に気づき慌ててフォローに入る。彼は優しく気遣いのできる愛妻家だ。


「でも、この夏に麺を茹でるって、それだけで大変じゃないかな?」


 この言葉で愛理の視線が和らいだが、この後の源と藤崎の言葉でまたすぐに凍りつく事になる。


「いやいや坂本さん。具材に手のかかる冷やし中華なら分かるけど、そうめんだよ? 茹でてネギかなんかつけるじゃない」

「だよなあ、源さん。しかもつゆだって売ってる麺つゆでいいんだしさあ」

「そうそう、ヒナちゃん。わかってるねえ」


 彼らが発言するたびに、場の空気が凍りつき、愛理の視線に圧が増した。気付いた真白は恐ろしくなり、カウンターの隅で気配を消した。坂本が怯えながらこの話を終わらせようと会話に混ざる。


「まあまあヒナちゃん、その話はこの辺で……ひい!」

「あら、坂本さん。どうしたんですか? そんなに驚いて」


 坂本が妖怪が人を喰らっている場面に遭遇したような、何か恐ろしいものを見たという様子で背後の気配に恐れ慄いていた。これが映画のワンシーンなら、何らかの効果音が鳴っていただろう。彼の背後にいる愛理は笑顔だったが、目の奥に怒りを宿している。


「皆さん、よかったら明日はここにランチに来ませんか? 実際にそうめん作りを体験して、奥様方にそうめんくらい簡単に作れるって言ってやりましょう」

「あ、愛理ちゃん?」


 坂本が肩を震わせながら愛理に視線を移し、その恐ろしさに目を背けた。張本人の藤崎と源は全く気付いていない。


「おお、昼飯作る手間省けた! いいね、愛理」

「愛理ちゃん、いいこと言うね! 明日は息子に現場任せてやってやろうじゃない」

「他の皆さんも、よかったら来てくださいね。お待ちしてます」


 よかったらという言葉に原因はわからずともただならぬ強制力を感じ、他の常連客たちも黙って愛理の言葉に頷いた。

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