雨の味

千口立華

第1話 僕は

 僕は、浅川葵は雨が好きだ。

 例えばどんなことが好きなのかと問われると迷うところはあるが、やはり外で運動をしなくてもいいことだろうか。いや、実際には運動している所を見なくてもいい、と言う方が合っているかもしれない。


 他に理由を挙げるならば、雨の雰囲気が好きだ。

 打ち付ける雨は木々の葉を踊らせ、心の騒音をかき消してくれる。少し遠くのぼやけて見える信号は、まるで急ぐなと落ち着かせるように曖昧で。


 でも、味は嫌いだった。子供の頃、大きな口を開けて飲もうとしていたのが信じられないくらいに。

 肌を伝って、唇に染み込むあの感覚。思わず舌で拭き取ってしまう。その度に味蕾を刺激するのは、あの時流した涙にそっくりで。

 しかし言ってしまえば濡れなければいいのだ。傘を広げて、あとは耳を澄ませばいい。そうすれば、思い出さずに、考えなくて済むから。


 少し遅れてしまった。

 昔ながらの茶色く古臭い、この通りが商店街だった頃の名残を残した建物が一軒、時代に放置されたまま佇んでいる。

 近所の子供達には幽霊屋敷だとか、封印の館などと言われているが。

 葵は顔を上げ、よくある墨で書いたような看板に目をやる。

『竹山家具』

 ガタガタと何度も引っかかるような戸を開けると、外見からは考えられないほどの綺麗な室内と家具が一斉に出迎える。


「おじさーん、竹おじさん、来たよー」

 そう呼ぶと、奥の方からのそのそとのれんを潜ってやってくる。

 がっしりした体型に、大きめの甚兵衛に身を包ませ、大半を白が占める髪と髭。顔によったシワは威厳に満ちている。

「おー、アオちゃん、今日もよく来たな。ちょっと待ってな、近所のたつさんからいい菓子もらったんだ」

 でも、実際はすごく柔らかい人だ。

「ちゃん付けはいい加減やめてよ。男だよ?」

「でもまだガキだ。一人前になってからだな。それかアオちゃんもおじさん呼びはやめるべきだな。俺はまだまだ若えぞ」

 若くない。


 竹おじさんが奥の方へと戻っていくのを確認すると、葵も並べられた家具達をかき分け、窓際の小さな机の前に歩き、その上の埃をサッと横に流す。

 年季の入った、それでも比較的綺麗な売り物の机。

 たまにやってくる客に見向きもされず、他の家具が入れ替わっても唯一残されているこの家具屋一番の先輩だ。

 そのせいかこの机には愛着が湧いていた。いや、それ以上かもしれない。ここに毎日通う前からずっとここにあったらしく、売れないからと竹おじさんに勧められてからしばらく使っていたらすっかり落ち着いてしまった。一度老人会のおばさんが欲しがったこともあったが、なぜか竹おじさんは断っていた。


 鞄を下ろして中から教科書とノート、そして何冊かの本を取り出す。足が地面にピッタリつく椅子に腰を落ち着かせると、本の1ページ目をめくる。

「おうなんだ、もう始めているのか。本当楽なバイトだぜ。無賃金労働ならぬ無労働賃金だな。ガハハ」

 戻ってきた竹おじさんは横にようかんを置くと、そう笑った。


 何も否定はしない。雨のしとやかな雰囲気の中、客が来るまで売り物の机の上で勉強したり本を広げて待つ。

 これが、おそらくこの梅雨が明けるまでの残り短い人生を歩む僕の、浅川葵のバイトなのだ。

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