しとりくん

かつエッグ

しとりくん

 ……カタン。


 いつの間にか、ぼんやりしていたのだろう。

 響いたその音に、ぼくははっと目を開けた。

 扉の郵便受けに、何かが配達されたところだった。

 見ると、うす緑色の封筒が一通。

 封筒の隅には、「XXX小学校第XX回卒業生同窓会」と印字されていた。

 それは、同窓会の案内だった。

 驚いてしまった。

 ぼくは、父親の仕事がら、小さい頃から転校の連続だった。

 どの学校にも、二年以上在籍したことはない。場合によっては、ひとつの学期の途中に転入し、転出となることさえあった。

 だから、同窓会の連絡なんて、自分には無縁だと思っていたのだ。

 それにしても、今日まで、転居を繰り返したぼくのところに、いったいどうやってこの案内は届くことができたのか。

 予定された日付を見ると、もうあまり日がなかった。

 多分、投函されたこの案内が、ここにたどり着くまでに、ずいぶんの紆余曲折があったのではないのだろうか、それでこんなぎりぎりになって、ようやく着いたのだろうな、そう思った。

 しかも、なんと都合のいい偶然か、そのXXX小学校は、今ぼくのいるところから、遠くはなかった。二駅ほどしか離れていないのだった。

 それで、せっかくだから出てみてもいいかなと、そんな気持ちになったのだ。

 同封された葉書の「出席」の文字を丸で囲んで、出した。今から投函して、返事が間に合うかどうかは心もとなかったけれど。


 XXX駅で降りるのはいったい何年ぶりになるのだろうか。

 駅前のロータリーに立ち、呆然とした。

 遠い昔のことで、しかも、わずかばかりの期間しかいなかったのだ。

 葉書に書かれていた卒業年度をてがかりにすると、ぼくは田舎のその小学校に、三年生の二学期に転入し、そして四年生の夏休み前にはもう、別の学校に転校していたはずだ。

 記憶が不確かなものになっていてもしかたがない。

 それはそうなのだが。

 しかしそれにしても、この記憶の曖昧さはどうだ。

 駅前の風景。さびれたパチンコ屋。小さな食堂。パン屋。

 何もわからない。何も見覚えがない。

 まるで見知らぬ町に放りこまれたようだった。

 この間に、それほどすべてが変わってしまったのだろうか。


 とにかく、会場に行ってみよう。

 案内に同封されていた地図に従って歩く。

 駅前の道を左に曲がり、線路に沿ったがらんとした道路を歩く。

 あいかわらず、見覚えのない光景ばかりだ。

 だが、ついに。

 ぼくの目は、あるものに止まった。

 あれは!

 目の前に現れた、赤さびた建造物。

 たった一つ、見覚えのあるものを見つけたのだ。

 跨線橋だ。

 カーブした道路が線路の上を跨ぐように延びている。

 鉄筋で無骨に作られた、跨線橋がそこにある。

 あれは、たしかにぼくの記憶に残っている。

 そして、浮かび上がる一つの光景。

 夕焼けの赤く染まった空を背景に、その跨線橋を渡っていく、ランドセルを背負った小柄な同級生。

 彼は一人で帰っていく。

 ぼくはその姿を、見上げていた。

 そうだ、あの子の名前は、たしか――。


 ようやくたどり着いた場所は、公民館のようだった。

 入り口のガラスのドアには、「XXX小学校同窓会会場」と、墨で書いた紙が貼ってある。

だれか、参加者がやってこないかと、立ち止まってあたりを見回したが、人気はない。

 腕時計を見ると、開始時間をとうに過ぎていた。

 おかしいな……。

 じゅうぶん間に合うように家をでたはずなのだが。

 みんな、もうとっくに集まって、はじめているのだろうか。

 とにかく、入ってみよう。

 下駄箱の横に、スチールの長机があった。

 長机の上に、ボールペンを添えた参加者名簿が置かれていた。

 来たらチェックを入れるということだろう。

 名簿の人数はそれほど多くない。

 そんなに大きな学校ではない。仮に、同学年のものが全員来ても、たかがしれているのだ。

 そこに書かれている参加者の数は、一クラス分もなかった。

 そして、すでに大半の名前の横には、しるしがついていた。

 ぼくはそこに書かれた名前を上から見ていった。

 知らない名前ばかりだった。

 いや、知らないというより、思い出せない名前ばかりだったということだろう。

 こんなにも記憶は失われてしまうのか。

 いちばん下まで見ていったが、なかば予想していたとおり、僕の名前はそこにはなかった。

 まあ、あんなぎりぎりに返事を出したのだから、こうなるのは無理もない。

 でも、まさか、名簿に載ってないからと言って追い出されたりはしないだろうな。

 ぼくは、名簿の一番下に、そっと自分の名前を書き加えておいた。


 スリッパに履きかえ、廊下を歩いて行く。

 奥の集会室で、同窓会は行われているようだ。

 長い廊下は、節電のためなのだろうか、妙に薄暗かった。

 薄暗い廊下を歩きながら、ぼくは、気まぐれを起こして同窓会に出てみようなんて思ったことを、だんだん後悔しはじめていた。

 しかし、ここまできて、引き返すわけにもいかないだろう。

 ぼくは、しだいに重くなる足を感じながら、廊下を進んで、突き当たりの扉まで。扉にかけようとした手が、途中で止まる。やっぱりやめておこうか——



 ——どうやって、中に入ったのか記憶にないのだが、気づくとぼくはその部屋の壁際に、ぽつりと立ち尽くしていた。

 なにかがおかしい。

 すでに、その部屋は人でいっぱいだった。

 ザワザワと会話を交わす声が聞こえてくる。

 だが、人が見えない。

 部屋が暗い。

 天井の明かりは煌々と輝いているのだが、その光がなにも照らさないのだった。

 そして、暗いだけではなく、すべてがおぼろげだった。

 霧に包まれたような部屋の中を、たくさんのおぼろげな大小の影が、あちらでかたまり、こちらでかたまり、ぼそぼそと何事か談笑している。

 これが参加者たち——つまり、ぼくのかつての同級生たちのはずなのだが。

 しかし、顔が見えない。

 もちろん顔が見えたところで、名前など出てくるはずもないが、それ以前に、この部屋にいる人たちの姿は、細部が全く分からない。

 そして、ぼくに話しかけてくるものは誰もいない。

 けっきょく、ぼくは、壁を背に、ぼうっと立っているほかなかった。

 このままではらちがあかない。

 その時、一つの影が、ぼくのすぐ近くを通りすぎていく。

「あの……」

 ぼくは意を決して、その影に声をかけた。

「ん?」

 影は、数歩進んで立ち止まり、振り返った。

 そして、ぼくを認めると、歩みよって来た。

 ぬうっと、まるで水面から現れるかのように、その男の顔がぼくの目の前に。

 髪がだいぶ薄くなった中年の男だった。

 ぼくはその顔をじっと見つめ、同級生の面影を探そうとしたが、それははなから無理な話だ。そもそも、当時の同級生の顔を思い出せないのだから。

「ええと?」

 ぼくはなんとか話の糸口をみつけようと頭をひねり、やっとのことで

「すごく久しぶりに来たんですが……」

 そう言った。

「駅前もずいぶんかわってしまって」

 ぼくの言葉に、男は冷たく答えた。

「そう……ですか? 駅前は長いことなんの変化もないですよ」

「えっ……」

「なにしろ、こんな田舎ですから。新しいことなど、ね」

 そう言って、男は身体の向きをかえた。

 またおぼろな背景に溶けこもうとする。

 これはいけない。

 ぼくは焦った。

 なにか話の穂をつがないと。

 その時、ぼくの頭に閃いた。

 あいまいなこの記憶の中で、ひとつだけはっきり憶えていること。

 あれなら。

「そう言えば——あの子はどうしてるんでしょうね」

 と、ぼくは切り出した。

「あの子?」

「ええ、ほら、あのいつも跨線橋を渡って帰っていった、あの男の子」

 ぼくは、ここに来るとき、跨線橋を見て閃いた、その名前を言った。

「しとり……しとりくんですよ」

 もちろん、あだ名である。鮮明に浮かんだのは、そのあだ名だけで、本名は、とうとう思い出せなかったのだ。

「懐かしいなあ、ねえ、しとりくんって、なんて名前でしたっけ?」

 ぼくは、ようやく話題ができたことにほっとしながら、気安い口調で男に話しかけ、そして、ぎょっとした。

 無表情だった男が、大きく目を見開いて、怯えた様子でぼくを見つめていた。

「えっ? あの? なにか……?」

 まずいことを言ってしまったのだろうか。

 ぼくがうろたえている間に、男は後ずさりすると、たちまち影の中に溶けこんでしまったのだ。

 もはやその中年男がどこにいるかさえ分からない。

 なぜ、あんな表情に?

 なにが問題なのか。

 しとりくんの名前がいけなかったのか?

 ぼくは、記憶を探った。


(ぼく、しとりなんだ)


 不意に、しとりくんの声が、記憶の中から蘇った。

 彼は、おずおずとそんなふうに、話しかけてきたような気がする。

 でもそれ以上はなにも思い出せない。

 こうなったら、他の人に聞いてみよう。

 ぼくは、朦朧とした部屋をみまわし——それにしても、何なんだ、このおかしな部屋は——話しかける相手を探した。

 よし、あれだ。

 細い、三つのおぼろげな影が集まって、ゆらゆら揺れている。

 かすかな笑い声も聞こえるようだ。

 あの声はおそらく女性だろう。

 ぼくは影に近づいていき、声をかける。

「すみません……」

 三つの影は、ぴたりと会話をやめて、ぼくの方を向く。

 これもまた、深い水の底から現れるかのように、その姿形がはっきりしてくる。

 若い、三人の女性だった。

 さきほどの気配では談笑していたはずだが、いまの三人の顔からは、あの中年男のように、表情が抜け落ちており、青白い顔でぼくに視線を向けている。

 腰が引けながらも、ぼくは聞いた。

「教えてほしいんですが……」

「なんでしょう?」

「同級生の名前が思い出せなくて」

「みんな、変わってしまうから……で、どののこと?」

 そう言って、女性は部屋を見回す。

「あ……ここにいるかもわからないんですが」

「あら……男子は薄情ね。それは、どんななの」

 なにか、誤解されているようだ。

 ぼくは、手を振って打ち消し、

「女子じゃないですよ。男子の同級生」

「ああ、そうなの」

「あだ名しか思い出せないんです、しとりくんってみんな呼んでた」

 そして、ぼくがその名を出したとたんに、三人の女性は後ずさりして、おぼろげになって消えた。

 まただ。

 どうなってるんだ。

 しとりくんの名を出すたびに、みんな逃げていく。

 ぼくは、あたりを見回して、いちばん近くにいた二つの影に声をかけた。

「ねえ、ちょっと……」

 二人がこちらを向く。

 高校生くらいの男女だった。

「なに?」

「憶えてないかな、いつも一人でいた、あの子」

 怪訝そうな顔の二人に、

「しとりくんってあだ名の——」

 女子高生が、男の腕を掴み、そして二人はいなくなる。

 どうして……。

 と、そのとき、ぼくはあることに気がついた。

 最初に声をかけた相手は、中年の男。

 三人は、若い女性。大学をでたくらいの歳だろう。

 今の二人は、高校生。

 なぜ、みな年代が違う。

 同じクラスの同窓会のはずなのに。

 これは———。

 ぼくは震えた。

 なにか、この場所にいてはいけない気がした。

 とりあえず、この部屋から出よう。

 外で頭を冷やさなくて。

 だが、もはや、自分がどこから入ってきたのかも分からない。

 おぼろげな、薄ぼんやりとした、それでいて人の気配に満ちたこの部屋。

 そうだ、壁だ。

 とにかく壁にはりついて、壁をつたって扉を探そう。

 ぼくはいちばんちかい壁(と思われる方向)に急いだ。

「おっと」

 ぼくの前に、ふいっと小さな影がさまよい出て、ぶつかりそうになる。

 思わず足を止めた。

「どこに帰るの?」

 その小さな影は言った。

 まるで濃い霧のなかから現れるように、影が形をとる。

 それは小学生ぐらいの男の子だった。

 男の子は、ぼくを見つめている。

 おかしい。

 こんどは小学生か。

 どうなっている。

 これは同窓会ではないのか。

 みんな、ぼくの同級生ではないのか。

 ぼくと歳が同じはずで……。

 まてよ。

 ぼくは慄然とした。

 ぼくは、いま、いくつだ?

 ……分からない。

 今、ぼくは何をして生きている?

 ……それも分からない。

 あの、同窓会通知を受けとったアパートの部屋。

 あれはどこにあった。

 すべてがどんどん不確かに溶け崩れていく。

 足から力が抜けていくようだ。

 そんなぼくに、目の前の小学生が言った。

「だいじょうぶ」

 その顔に笑みを浮かべて、言った。

「じきに分かるから」

「分かる?」

「うん」

 小学生がうなずく。

「だって、ほら」

 そう言って、指さした。

 おぼろな部屋に光が射す。

 誰かに引かれて、部屋の扉が開くところだった。

「ほら、しとりくんが来るよ」

 外の明かりを背景にした、その小柄な影。

 ぼくには彼が、あの時のまま、ランドセルを背負っているのが分かった。

 ああ、しとりくんが、来る。


 

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