白線の外は地獄です

ヨカ

白線の外は地獄です


 白線の外は地獄。

 だから白線の上を歩かなくちゃいけない。

 誰でもわかる、私たちの世界の小さなルールだ。


 いつだったか。確か小学校も中盤になった頃だったと思う。私の友達が言った。


「別に、白線の外が安全地帯で、白線だけが地獄だっていいのにね」


 白線からひょいと、足を外しながら。

 多分なんか、その方が世界は優しいじゃない、的なニュアンスを含ませてたんだと思う。

 私は感心した。なるほどなと。そういう考えもあるわけだと。

 しかしだ。


 それがいいわけないだろう。


 確かにその方がなんか良さげだし、むしろ白線の内側を歩けと幼稚園の時にめっちゃ言われた。

 でもさ、そうじゃないだろう。

 白線の上だけが安全地帯。そこから少しでも外れれば地獄。そんなわかりやすい。でも絶対的なルールで、私たちはスリルを楽しんでいるんだろう?

 そんなことも忘れたのかと、呆然としながら思った。でもその時は呆然とし過ぎて話題は移り、何も言えないまま赤いランドセルと並んで歩いた。


 そして今。私はセーラー服を着て、白線の上に立っている。

 ランドセルを背負った少年と睨み合いながら。


 私がふっと笑えば真似をするように少年も笑う。あまりにも似合ってなくて吹き出しそうになるが我慢。


「今日も来たか」

「通学路だからね」

「オレが勝つ」

「私が勝つ」


 目線を合わせて合図をする。お互いスゥっと息を吸って、一息に言う。


「「最初はグっ、ジャンケンポイ!」」


 私の拳は固く握られ、少年のまだ小さめな手は綺麗な形で開かれている。私は顔を覆って天を仰いだ。


「あぁあああああ」

「ヨッシャーー!」


 敗者の嘆きと勝者の勝鬨が青い空に吸い込まれる。


「負けたー。三連敗じゃん」

「へっ。地獄へ堕ちろ」

「ひどい」


 そう言いながら、敗者な私は白線の上から身をひき地獄へ落ちる。少年は安全地帯な白線のうえでピカピカと顔を輝かせていた。


「相変わらずじゃんけん弱いのな」

「えー、そんなことないはずなのに。今はちょっと運が悪いだけ。今度泣かす」

「やれるもんならやってみやがれ」


 負け惜しみを言えばイヒヒと笑われた。生意気な小僧め。

 そういえば、と少年の少し前のセリフを思い出して口を開く。


「君の考えでは、白線の外側はマグマなんじゃなかったっけ?」

「地獄にもマグマはあるだろ」

「あー、なるほど」


 確かにな。


「だったらもう地獄で良くない?」

「地獄は行ってみたいからだめ」

「マグマの方が行ってみたいと思うんだけどなぁ」


 わっかんねぇな、と首を捻る。少年はこてんと首を傾げた。かわいい。


「どこならいいんだろ」

「地獄でもマグマでもなく。でも落ちれない場所?」

「うん」

「んー」


 二人して考え込む。途中で車が一台通り過ぎ、私はひかれないよう、白線をひょいと飛び越した。


「あ、深海は?」


 少年がハッと顔を上げる。口調は背伸びをしている風なのに、表情や仕草はよく動くところが面白い。


「えー、深海も行ってみたい」

「……お前、行きたいところ多すぎるだろ」

「地獄に行ってみたいとか言ってる君が言うことじゃないね」


 少年はチョンと唇を尖らせる。私は笑う。


「あー、空はどう?」

「空?」

「うん。ここは今、雲の上でさ。白線の上だけが私たちの足場なの。だけど一歩踏み外せば」

「落ちるのか!」

「……そう」


 最後まで言わせろよ少年。

 まぁ、顔をそんなに輝かせている人に水はささないけどさ。


「いいな、それ!」

「だろう」


 煽てられて心なし胸を張る。こう素直に褒められると普通に嬉しい。


「やっぱお前天才だな!」


 そこまで言われると照れる。

 思わず頬を指でかくが、でも、まぁ。こんなピカピカの笑顔を向けられるのは、悪くないよな。


「どうも〜」


 そうしてイヒヒと二人して笑い合う。

 しばらくウダウダ喋ったりして、どちらともなく「またね」を言い合う。小さく手を振り合って、少年は空の上に引かれた白線を。私は空中を。それぞれの家を目指して歩いていく。

 私たちのちっぽけな世界の、些細な交流。

 かれこれもう一年ほど続いている。


 私はなんとなく、ずっと続くと思ってた。

 だってそれが、私の知っている世界のルールだったから。


「なぁ」

「ん?」

「なんでこんなことしてんだ?」

「……ん?」


 何言ってんだこいつ。


 あと数日で夏休みという猛暑真っ盛りの時期。太陽の猛攻に耐えながら、湿ったおでこに前髪を貼り付けた少年を見下ろす。

 そこには真っ直ぐこちらを見つめるガラス玉みたいな目があった。まあるくて焦茶色で透き通った綺麗すぎる目。それはあまりに綺麗すぎて、私になんとも言えない不安をもたらす。心臓が妙な具合にさわめいた。


「だってお前、もう大人だろ?こんなこと続けてていいのかよ」


 マジかよ少年。


 思い浮かんだのはバカみたいなセリフだが、受けた衝撃はバカにできなかった。

 そういうこと言う?そんな今更?ていうか黙認してたんじゃなかったの?


 私たち、仲間じゃなかったの?


 いくつもの言葉が喉に詰まって、でも口からは出てこなくって。

 ただ困惑で顔が歪んだ。


「……そういうこと言う?」


 やっと出てきた言葉は、蝉時雨にかき消された。


「……なぁ」


 少年はなおも、ガラス玉みたいな目で話し出す。私はそれにどうも違和感を感じたけれど、それよりもじんわり滲む額の汗と七月の蝉の声すら遠のけてみせる不穏な動悸に気を取られていた。


「今日な、告白されたんだ」

「マジかよ少年」


 ここだけははっきり声に出た。少しだけテンションが元に戻って、蝉の大合唱もクリアに聞こえた。


「マジかよ。え、え」


 いきなりの小学生の恋バナ。気になりすぎるし動揺する。その挙句出た言葉。


「スゲェ……」


 そんなところが私の子供たる所以である。

 少年はガラス玉の目をふいとそらした。その時の目が通常に戻ってるように見えて、私は少し安堵する。


 でも多分、しちゃダメだった。


「そんでな!」


 多分恥ずかしくなったんだろう。暑いせいだけではない赤い頬がしっかり見えた。かわいい。


「お前、恋人とかいんのかよ」

「いるわけねぇだろ」


 恋愛なんてのは大人がやってればいいんだよ。だってあれ本気で意味わからんし。

 この前友達にそう言ったら「あんたに恋人ができたら世界が終わるわ」とガチトーンで言われた。


「ふぅん……」

「……」

「……」


 え、なんなのこの間……。

 またもや嫌な予感がしてくる。今度は蝉の大合唱がやけに大きく聞こえた。少し気の早いヒグラシが数匹鳴いてる。

 どうした少年。今日ちょっとおかしいぞ。水分補給ちゃんとしてるか?家帰ってお水飲んで寝なさい。

 そんなことを言おうとしたけど、言えなかった。少年の方がはやかった。


「オレ、断ったから」

「んぉ?」

「断ったから」

「そ、そうか」


 この時点でだいぶ嫌な予感はした。予感が確信に変わったと言ってもいい。可愛らしい赤い頬と、こちらを見ないまあるい瞳が私を追い詰めていった。

 やめろと言いたかった。でも肝心な時に、言葉は喉に絡むだけ。


「断った理由は」

「ま」

「お前の方が大事だったから」


 マジかよ少年。


「じゃ」


 少年は軽やかに、白線から飛び降りた。

 スローモーションのようにその瞬間がはっきりと見えた。思い出の中の友達と、少年が綺麗に重なった。


 青空と入道雲によく似合う、ランドセルを背負って走る小さな後ろ姿を、私は呆然と眺めていた。蝉の声がよく聞こえた。風がスカートを撫でていった。車が隣を走っていった。私は白線の上に立っていた。


 そこには地獄へ落下していく少年と、空に取り残された私がいた。

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