小説家の妻

あわせかがみ

第1話

『私の仕事は字を書くことです』

 私の夫がそう言えるようになるまでどれだけの時間が掛かったことでしょうか。

 少なくとも執筆活動をしていた夫と出会い結婚してからは三年の時が経っていますから、それ以上の時が経っていることは確かでしょう。

 それだけの期間、自らが何者でも無い状態で過ごしてきた夫のことは十分尊敬に値すると思います。




 今でこそ堂々としている彼ですが、実は面倒な程に繊細な面があります。仕事はあれど、執筆だけで生活が出来る程のお金を貰えていない事を常に気にしていました。

「たった一人愛する君のことも十分に養うことの出来ない私が、本当に小説家なんて高貴なものを名乗ってしまっていいんだろうか」

 それが彼の口癖であり、彼の固い信条でもあります。名の通るようになった今でさえ言いますからね。

「そんなの気にしなくても大丈夫ですよ。全く収入がないわけではありませんし、私が働きに出ている稼ぎの分だけで十分に生活できていますから」

「ううっ、申し訳ないねぇ……。本当に君は、私には勿体無いくらい良い人だよ」

 そう言って泣き出すまでがいつもの流れ。

 どうやら毎回、本当に泣いているみたいです。こんな場面で嘘泣きする理由もありませんし、本当に自責の念を感じているのでしょう。

 多少しつこく感じることもありますが、恐らくこのくらい感情表現が豊かでないと出来ない仕事なのでしょう。無理に治して欲しいだなんて思いません。

 それに──愛されている気がして悪い気はしませんからね。

「それより原稿の進歩は如何ですか。今日はあまり進んでいないように見えますが」

「そうなんだ。今日は全然筆が進まなくてね……」

「では一度休憩なさったらどうですか? 何も進まないのなら、そこへ座っていても意味無いですから」

「君も言うようになったね」

「そうでも言わないと貴方は休まないでしょう?」

 私が言うようになったというよりは、強く言えば動いてくれるということを覚えたと表す方が正しいかも知れません。

「君がそこまで言うなら休ませてもらおうかな」

「はい、そうしてください」

 やっと夫を動かすことが出来ました。もしもこれで動かないようでしたら無理矢理動かそうと思っていたところだったのですが。

「それではご飯にしましょう。準備は出来ていますから」

「うん、ありがとう。いつも助かるよ」

 私は最後の仕上げの為に台所へと向かいました。




「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

 夫はお昼に用意したご飯をぺろりと平らげた。案外、考えているだけでもお腹は結構空いてしまうらしい。何にせよ健康的な生活をしてくれるならそれに越したことは無いです。

「何処か行きたいところはあるかい?」

「いえ、特には。この後は夕ご飯のお買い物さえ出来れば大丈夫です」

「そうか……私もついていこうかな」

「結構です。進みそうなら原稿を、そうでないなら昼寝でもして休んでいてください」

「辛辣だなぁ」

 そう溢しながら夫は自分の書斎へと入っていきました。出かけることは諦めてくださったそうです。

 そんな夫の後ろ姿を見て、この家へ引っ越して来る時に『夫の書斎を作るかどうか』で少し揉めたのを思い出しました。


『私は机さえあればどこでも仕事が出来るから、君の部屋を作るといいよ。君も女性なんだから、物をしまって置く場所や化粧をするための部屋があってもいいんじゃないか?』

『何を言っているんですか。そんなの寝室や洗面所で事足りますし、部屋が必要になる程物を買うお金も持ち合わせておりません。それよりも立派な小説家になりたいと思っているのなら、しっかりとした書斎を構えた方があなたのためになるのでは?』

 あの時は何日か平行線の状態が続き、最終的には私の『私の部屋を作りたいと思うのなら、早く立派になって大きな家へまた引っ越せばいいでしょう。そのためにもまずはあなたの書斎を構えてください』という言葉が響いたようで。夫の方が先に折れて下さいました。

 そもそも私は夫へ嫁いだ時から覚悟が決まっています。もしかしたら夫が売れないままで非常に貧しい生活を強いられるかも知れませんでしたし、自分が働いて二人分の生活を支えていかなければいけないかも知れませんでした。

 ですが私は、それでもこの人と一緒になろうと思ったのです。

『君がそこまで言うなら……。君を贅沢させられるように頑張るよ』

『そんなことは考えないでいいので、あなたは書くことだけに集中して下さい』


 今思えばあれはとてもいい判断だったと思います。その結果が今に繋がったのですから。もしあの時に私の部屋を作っていたら、いまだに夫は何者でもなかったかも知れません。

「おーい、まだいるかい?」

「はい、いますよ。どうかしましたか?」

「ついでに買って来てほしいものがあるんだけど、頼まれてくれるかな?」

「私でも持ち運べる物且つ高価なものでなければ」

「ははっ、少なくとも君に持ち運べないものだったら頼まないさ」

 それはそうですねと思いながら書斎の前まで向かいました。

「それで何を買えばいいんでしょうか」

「ちょっと卵をね、多めに買って来てほしいんだ」

「卵ですか? 食べ物で遊んではいけませんよ」

「もちろん全部無駄にせず食べるさ。ちょっと今書いている話の中で使いたくてね、本物が欲しいんだ」

「まあ卵くらいならいいでしょう」

 私は了承して玄関へと向かいました。いつもそ外へ出る時の物は全て持ちましたし、忘れ物は何も無いはずです。

「それでは行って来ますね」

「うん、気を付けるんだよ」

 夫の声に送られて私は家を出ました。

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