猪俣先生と、ビバ・ブラジル、

 ブラジルは大変治安が悪いと聞きます。しかし猪股先生と一緒なら怖い思いはありません。何故なら、現地で彼は国賓級の扱いです。空港にはサンパウロの政府のお役人やブラジリアの大統領補佐官などが軍のMPと迎えに来ます。彼の呼名はセニョヨールピメンタ。ピメンタとはポルトガル語で胡椒のことを言います。猪俣公章の名前を洒落てこの名前がついたそうです。ホテルはサンパウロ。日本人街リベルダージに有るホテルド日系です。

 ブラジルは日本の次に日本人日系人が多く住む所です。ブラジルでは英語は殆ど通じません。ホテルはこの他にも日本の青木建設が保有するところがありますがわずかにこの2件だけが日本語の通じるホテルであります。リベルダージの街なかは日本の下町商店街のように大小の店がところ狭しと並んでいます。気候は日本と正反対で日本が冬なら此処は夏、此処が夏なら日本は冬と言うことです。こんな話を聞きました。いい時計をはめていると腕を切られる。高い指輪をしていると指をもがれる。お洒落なネックレスをしていると首を落とされる。これが治安が悪いということでしょう。当時のお金はクルゼイロ。アメリカの1ドルが現地のお金では7倍の価値があります。ただ一度クルゼイロに交換するとクルゼイロからドルは買えません従って両替したお金は次に来るときまで取っておくか全部使って帰るかしかありません。そんな訳でブラジル人は機会があるごとにドルを買い求めます。銀行に行かず闇ドルを変えますと1ドルが14倍の価値になります。私がこのような国に行って思うのは同じ所から移民に行った先の国のお金の価値でその人達の人生が大きく異なることです。米国に移民に来られた人は最低年に一度祖国の土を踏むことが出来ますがブラジルやメキシコに行かれた人は一生に一度祖国の土を踏むのが夢であります。今は大分変わったと思いますがその頃のブラジルの一般人のお給料は月に 80 ドルから100 ドル前後。千ドル以上の航空券を購入するのは並大抵ではありません。ブラジルのお料理は肉と豆のシチュウ、肉は柔らかな霜降りなんぞはなく牧草牛で添え物にはヤシの芽の酢漬けのようなものが出てきます。週に一度ホテルではショワザとかよばれるブラジル料理のバイキングがあります丁度ハワイのルアウの様なものでしょう。ルーツは昔王様が自分の残り物を下男下女に振る舞ったのだといいます。日本食は大変に美味しく豪華で日本でもブラジルの本マグロを輸入するほど品質もいいですから大トロの刺し身などは日本顔負けといってもいいでしょう。現地の人から見れば豪華で贅沢な食事ですが我々から見るとお金の価値も考慮すれば大変に値段も安く思えるのです。ハワイからブラジルに行くまでの所要時間はロスまでの5時間と乗り換えの2時間。現在は直行便がありますが昔はマイヤミまで行きそこでまた乗り継ぎでリオデジャネイロまで行きますから待ち時間を加えれば 11〜12 時間。リオの空港でまた一時間待ってから一時間でサンパウロに到着。全部合わせ ると待ち時間を入れてほぼ一日です。一度着いたらもう帰ってきたくないと云いますがその気持がよくわかるほど遠いのです。私の知り合いが闇ドルで1万ドル変えましたので14 倍です。価値としては 14 万ドルになります。その上額面の大きな紙幣もない時代ですから丁度スーパーマーケットで下さる紙袋にお札が一杯になった状態です。毎晩そのお札をゴムバンドで巻きつけポケットに突っ込んで出掛けるのですが物価が安いこともあり一生懸命に使っても一向に減らないのです。ブラジルに行く前に先生がアメリカの 1 ドル札とコインをたくさん持って来なさいと言ってましたがその意味が行ってみて良く分かりました。1 ドル札はホテルのベッドチップやドライバーのチップに使用しますが彼たちも闇ドル市場に行って替えれば14倍になる訳です。彼らにとってはとても良い収入になるわけです。ポーターも車は走って取りに行きますし部屋にはエキストラの美味しい本場のパン、ペイストリーが運ばれています。それに又このパンのおいしい事。そうですねパンという名称はポルトガル語ですからなるほど美味しい訳であります。夕食の時です。ウエイトレスに「ボニータ」と言ってOK サインをしますとそれを見ていやな顔をするのです。先生が笑いながら「OK サインはケツの穴、英語で言う F サインだよ!」「いいときは親指を上に立て、悪いときは親指を下にする。」「なんで最初に教えてくれないの?」最初にブラジルに行った人はみんな同じミステイクをするそうです。「先生、人が悪いっすよ!」

「おい!そろそろいくぞ」雨上がりの街に高くそびえる椰子の木、どこからか聞こえてくるサンバ、ボサノバのリズム、ムードは最高であります。「ボアノイチ」ラテン系の美女がこちらを覗いて声を掛けてくる。ブラジレーラは3種類。白人女性はブランコ、アフリカ系の女性はムラタ、白人黒人の ハーフはムラノ、人は住む国の文化や情緒でその国にうまく溶け込んでゆくものです。同じ日系でもハワイの日系人とブラジルでは何かが違う。ここはサンパウロのノイチクルーブ(ナイトクラブ)であります。此処で働く女性はプロとアルバイトの学生でいっぱいです。こうしてブラジルに来る男性はこのナイトクラブに一度は顔を出すでしょう。

「オイ、お前はどの娘を連れて帰る?」「イヤ〜今日は着いたばかりで疲れているから一人で帰ります。」「エ~お前付き合い悪いな。」「そうじゃないです。本当にクタクタですよ。」「ア~わかったよ。おまえが連れて帰らないならみんな!俺たちも一人で帰るか?」これが馬鹿な男仲間のプレッシャーなのです。「分かりましたよ。それじゃあそこにいる貴女」どうせ疲れているしみんなの手前連れて帰れば顔も立つ。ホテルに戻りました。ブラジルではこの手の女性が宿泊客とホテルに泊まるときは身分証明書を必ずフロントが預かります。俗に言う置き引きや美人局とトラブルを起こさせないためです。シャワーを浴びて部屋に来るとなにか様子がおかしい。特別太っているのでもないのにお腹が大きい。「えっ!もしかして妊娠しているの?」日伯辞書片手にジェスチャーゲームです。「ごめんなさい7ヶ月なの」「でもなぜ」「私貧しいのお金がないとこの子産めないの」気の毒な気持ちと疲れているので20ドル札を出し「サヤ ポルファボール」お帰りくださいと彼女を送り出した。ちょっといい事をした気分でもあります。「ムイントオブリガード」と言葉を残し彼女は申し訳無さそうに帰っていきました。

 朝のコーヒーであります。ブラジルのコーヒーはとても濃い小さなカップで甘さ多めのコーヒーを啜りながら「昨日は驚いたよ。彼女は妊娠していてお腹が大きかったんだ。」「えっ〜それでどうしたんだ?」「チップだけ上げてすぐ帰ってもらったよ。」「そうか『金とともに去りぬ』だな」「じゃあな、晩行ったらまずお腹を擦れ。膨らんでいたら止めて平らだったら GOだ。どうだ、いい考えだろう。」云われるままにお腹を擦って見た。その日の娘はたしかに平らだった。ホテルに着いて驚きました。「そのお腹どうしたの?」それは帝王切開の傷跡でした。見るからにかなり難産だった様子が伺えます。また20ドル札を出し、「サヤポルファボール」彼女もまたお札と共に夜霧に消えていったのでした。あくる朝今度は帝王切開だったというと、「お前は運の悪いやつだ」と笑い話の種になってしまった。「きっと今晩は大丈夫だがんばれ!」こんなことが続くと精神的にも肉体的にもそんな気持ちは薄れる。やはりタイミングとフィーリングが合わなくてはそんな気持ちに肉体的にはなれないのです。その晩もそしてあくる日も連れては帰す日が続いたのでした。ちょうど一週間が過ぎた時でした、このクラブの美人ママが「話があるわ、ここに来て」と私を呼ぶのです。此処のママさんはロンドンから来てこのクラブをオープンしたと言っていましたが、私が思うにはきっと誰か富豪のパトロンが居るお妾さんだと思います。「あなた!私は誰にも言わないしあなたも恥ずかしがらなくてもいいわ。それぞれの好みもあるでしょうし」「なにか言っていることがよく分からない。」というと「私には隠さないでいいのよ。どんな男性が好きか言ってくれれば私がなんとかするわよ。」私はゲイと間違えられてしまいました。「ママ俺はゲイじゃないよ。たまたま来た人が」とそこまで言うと、「若い男性が一週間も続けて女性を帰すなんて普通じゃないわ」「分かったよママ。もし今晩ママが部屋に来てくれたら俺が男であることを証明するよ。来るわけ無いと思っていたらやはりママは来ませんでした。据え膳食わぬは OOOOO といいますが、ブラジルでは据え膳食わぬとゲイと思われるのです。ブラジルの正式名称はブラジル連邦共和国でありますが現在の人口は 212,6 ミリオンです。リオのカーニバルが行われるリオデジャネイロ出身の人達はキャリオカと呼ばれサンパウロの人たちはパオリスタと呼ばれています。夕方ホテルで休んでいたらどこからともなく懐かしい日本の童謡夕焼け小焼けが聞こえてきました。リベルダージにある日本人学校です。街に出てみたがブラジルのショッピングモールはとにかく大きい。アメリカの倍のサイズもあるようです。私が革のジャケットが安いので注文しようとすると先生が、「此処で物を頼むときは絶対に少しだけ手付金を置いて残りは出来てから払わないとすぐには出来てこないよ。」と云うのです。ですから10%だけ手付を渡すと本当に翌日の夕方までに出来上がりました。陽気な怠け者はお金を使い果たすまで働かないと言うことです。手付金だけですと残金欲しさに急いで仕事をするそうです。ブラジルでなにか注文するときは先に全額払わないことを覚えておいて下さい。ブラジルで知り合いになった女性が「私にはハポネーズ(日本人)のナムラード(恋人)がいるの」「何をしている人?」と聞くと「ハポネーズのカンタンテ(歌手)」興味しんしん聞いてみると「OOOOOO と OOOOOOO」 世界平和の為にお名前は伏せますが、みんな地球の裏側で結構やりたい事やりっ放しをしているんですね。それもそのはず此処までくれば三面記事やフォーカスの心配はないですからね。

 12 チャンネルの世界カラオケコンテストで猪俣先生とブラジルにお邪魔した時に現地の人たちが歌う姿を見て驚きました。みんな歌が上手な事、日本語もわからないのに発音も抜群リズム感はやはり本場でしょう。このコンテストの後、先生に認められ日本で歌手になったのがマルシアです。

 以前こんな話がありました。市川昭介先生がお仕事でブラジルに行く時猪俣先生に電話がありました。「イノサン今度ブラジルに行くんだけど服装は?持っていったらいいものは?」市川先生はとても愛妻家です。海外に行く時は必ず奥様も同行します。「昭ちゃんブラジルに行く時は一人で行きなよ。」「なんで?」「行けばわかるよ」「でももう女房にも言ったし大丈夫だよ、連れて行くよ」ブラジルから帰国した市川先生から電話です。「猪さんが言ってた理由分かったよ。確かにあそこは女房を連れて行くところではないね?」と云うと「えっ昭ちゃん女房連れて行ったの?何だよ。言っただろう。なんでレストランに行くのに弁当持参で行くんだよ!」そんな話や珍道中を洋子先生を交えて話していたら、その半年後「ゲーリーこれ読みな!」あの珍道中が一冊の本になっていたのです。作家さんというのは凄いですね。冗談交じりのお話を半年余りで本にしてしまいました。名付けて「男の極楽」先生のお住まいが洗足池なので主人公は『洗足けいた』、ちょい役の私は『ハリー北川』でした。

 此処で少し猪俣公章先生のことを書かせて頂きます。とにかく先生はお酒が大好きでどこに行ってもシーバスリーガルの水割りを飲んでいました。大体一日に一本空けてしまいます。体を壊されたときも周りがどれだけ注意しても決してやめません。健康なときは良かったですが体の調子が悪くなると冷たい水割りが内臓にしみるとよくお湯割りにして飲んでいました。長い間独身でしたから先生の健康を気づかう人がいらっしゃらなかったのが大変残念であります。もう一つはお酒が入らないと自分から喋れる人では有りませんでした。特に知らない人の前ではとてもシャイな方です。名球会の正月用特番カラオケコンテストのハワイ収録の時も審査員席でなにかコメントを言わなくてはならないのですが、お酒が入らないと喋れない方でしたので湯飲み茶碗でお茶を飲んでいるような顔をして密かにシーバスを入れて飲んでいたのを思い出します。横にいた作詞家の山口洋子さんが彼を気遣い湯呑を取り上げるのですがうっかりしているとその湯呑を先生が又取り返すのでテレビの画面の中で湯呑が行ったり来たりしていたのも懐かしい思い出です。もう一つは彼はとても寂しがり屋でしたから誰か周りにいないと落ち着かない人でした。洗足池の自宅にはブラジルから来た六本木のサンバパティオの人がよく来ていました。ですからこのお話の中での先生のイメージはとても遊び人のようですがそれは全く違います。万一女性を連れて帰っても女性がベッドで寝て先生はいつもリビングにあるソファーで一人寝ていました。やはりご自分が有名人であるだけにとても警戒心も強かったようです。本来寂しがり屋ですから誰かが部屋にいるだけで子供のように安心して満足しているような人でした。以前先生と一夜を過ごした女性に何度か伺った所彼は何もせずやはり一人で寝ていたそうです。ですから猪俣先生は寂しがり屋で一人で居るのが嫌いなだけなのです。女性関係には大変に潔白で慎重な方でしたのでどうぞ誤解しないで頂きたいと思います、、、、

 さてこの猪俣先生と共に数々の名曲を残された山口洋子先生ですが、以前私が仕事をしていましたあのスカンジナビアのフランコの物語を完成させるためお話が聞きたいと何度もお会いしました。途中高血圧を患い誠に残念でしたが本を完成することはできませんでした。私が本土に移転したあとはアラモアナのそばのコンドミニアムにリハビリを兼ねてお住まいでしたが、残念なことに先生もすでにお亡くなりになりました。とても面倒見がよく私にも大変よくして下さいました。

 もう 1 人このハワイでお亡くなりになった方が藤田小女姫さんでした。昔ヒルトンホテルのダンスフロアーで踊っていた時、突然「私感じる。なにか感じる」と言い出し、後で調べた所その同じ場所で本当にお亡くなりになった方が居ました。確か息子さんの友人の手にかかりこの世を去ることになりましたが同じ日本人同士がいかなる理由であれこのような事件をこのハワイで起こした事は誠に残念な事です。もうお一方よくお会いした方が作家の阿川弘之さんでした。お会いしたと言っても当然お仕事では有りません。たまたま私の住まいがプナホウとべルタニア通りの角バニアンツリーリープラザでしたが、偶然にも阿川先生が階上に住んでいらっしゃいました。「Garyくん暇ですか?」「私はいつも暇ですよ」と答えますと「メンバーが一人足らないので」と麻雀の誘いです。当然私のほうが若いですが阿川先生にはよくお小遣いを差し上げていました。とても麻雀のお好きな方でしたね。いつの日でしたか川勝先生も多くの著書を出されていますので是非お会いしたいと言うので阿川先生にお時間を頂き三人で朝食を食べに行ったのを懐かしく覚えています。作曲家の市川昭介先生もとても優しい方でした。よく新曲ができますと「この歌はあのOOOO という曲をひっくり返して反対から書いたら出来ちゃったの」と目をぐりぐりさせてお話くださいました。「内緒だよ」と言われておりましたがもう時効でしょうからお許しください。時が過ぎ多くの先輩や名のある方々がこうして姿を消されたのは寂しい、の一言に付きます。猪俣公章先生を始め山口洋子先生そして藤田小女姫さん、川勝久先生、阿川弘之先生、市川昭介先生。心からご冥福をお祈り申し上げたいと思います。

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