車、食べ物、不動産
1971 年アメリカで初めて乗った車は 65 年型ダークブルーのマスタングでした。値段は600 ドルの外車、いや国産車です。そしてその後サンフランシスコから戻ったときに乗った車は2ドアーのゴールドカラーカマロでした。 現在はコンベンションセンターになっている場所にアロハモーターと言うフォードのディーラーが有りましたがその頃はまだ車も安く確か5千ドルぐらいの3年月賦で月に160ドルぐらいが毎月のペイメントだったと思います。その頃のアメリカの車は燃費も悪いですし大体3年乗るとすこしガタが来ます、ですからローンの終了と共に又新車に乗り換えることになります。商売上わざとそのように作られているのでしょうか?当時免許証取得のテストは3ドル。筆記テストが受かると路上テストが受けられます。筆記テストは英語と日本語がありますがもちろん私は日本語のテストを受けました。全く勉強もせずテストを受けましたが見事に満点で合格です。頭いい?いえいえ、この日本語のテストを作ったのが私が努めていた旅行社の社長でしたから彼から答えを教わり手の裏に書き留めて丸写 ししただけでした。それを考えついたのですから頭はいいのでしょうか?テストが終わると白人の試験官がやって来て「テイクロードテスト」と言ってきます。その日は筆記テストだけで路上テストは受けるつもりではありませんでしたが、仕方ありません。何故なら運転は真珠湾のそばの空き地で練習しただけで実際に街の道路で走るのはこれが初めてです。「ゲットオン」と言われ車に乗り込みます。緊張の一瞬です。「ターンレフト。ブリンカーを出し曲がろうとすると「ユーズユアーハンドシグナル」手でやれといいます。私だって勉強してなくてもこれぐらいは分かります。次の十字路に来ると「ターンライト」と言ってきます一瞬考えたのですが右手は右の窓には届きません。「ソーリー アイキャントリーチマイアームトゥーザウインドウ」と云うと不思議な顔をして「ゴーバックトゥーザステーション」そうです、見事に落ちたのです。やはり私は馬鹿でした。家に帰りテキストを見ると手を上に上げると書いてあります。「なんだそうか」感心している場合ではありません、テキストを見てみただけです読んでません。再び路上テストを受けに行くとまた同じ試験官がいます、私を見ると頭を振って「オーユー アゲイン」と半分呆れた顔をしています。何故か理由は分かりませんがこの日も又不合格です。「カンバックアゲイン」と言われトボトボと家に戻りました。聴くところによればもう一度落ちると筆記 試験からやり直しといいます。私の仮免許の裏側は注意事項の赤インクで真っ赤であります。知り合いの人が「日系人の試験管がいるから彼のところに行ってみろ」と言われました。二度あることは三度ある。行くと運命の悪戯でしょうかまた同じ試験管が立っています。予め日系人の名前を聞いていましたので名指しをして彼が来るのを待ちました。彼らしき人が来ましたので「OO さんですか?よろしくお願いしますと」と日本語でいうと私の仮免許の裏を見て「あなた、元気ね!」と笑っています。車に乗ると「此処行くと公園があるからそこでパークしなさい」と言います。車を止めると「どこから来たの?」と聞いてきました「東京です」と答えると「僕日本行ったよ。東京いいところね。と世間話が始まりました。暫くすると「ステーションに戻りなさい」と云うので戻りますと、「よかったね〜合格です」と云うのです。見事に!ではありませんが合格したのです、と云うよりさせてくださったのですね。「ありがとうございます。」とお礼を言い家に戻りました。合格後に払うお金は2ドル合計5ドルでアメリカンドライバーライセンスをこの手で握りしめました。友人に聞くと彼はこうして沢山の日本人をヘルプしているそうです。しかし彼はその後韓国クラブのママさんから高級ワインを頂戴して免許取得のお手伝いをしたのが明るみになり検査官をやめたと聞いています。捕まる前に私に免許証を下さってMAHALO !感謝しています。
ハワイの日本人社会で最初にロールスロイスに乗ったのが私でした。たまたまお金に困った人がアメリカ本土に移転する時信じられない程安く手放したので一度ぐらいいいかと思い購入したのです。車はシルバーシャドー2、白に薄いマリンブルーのツートンカラーとても美しい車でした。ベンツや BMW、ボルボとの違いはアクセルを踏んだときの感触です。ベンツやその他の車はアクセルを踏むとグーンと重い鉄の塊が動き出すように感じますが、同じく重い車体のロールスロイスはまるでアイススケートのような滑らかな滑り出しです。問題は維持費です。クーラーが壊れて治す時の修理費は5千ドル、中古の車が一台買えます。「えっ〜そんなにすんですか?」と言うと「そのぐらいの修理代が払えないならこんな車にはのるなよ!」と言われました。その他にも掛かるお金が見栄のチップ。ホテルの正面玄関に行くと通常は「此処に止めるな!」と怒られますがロールスロイスは違います。係が来て「サー、パークエニーウエアーユーライク」どこでも好きにお止め下さいと云うのです。差し出すチップは1ドルという訳には行きません最低でも5ドル、高級ホテルなら10ドルです。高いものは高くつく当然の方程式でしょうか。ワイキキのカラカウア通りを走っていると街の綺麗な白人女性がみんなこっちを向いて手を振っています。さすがロールスと思いきやこの車の前のオーナーはピンプ(売春女の正面玄関マネージャーすなわちポン引き)な〜んだ!みんなが手を振るわけであります。お嬢さん私はポン引きではありませんよ〜。アメリカに来て車は色々乗りました。マスタングピントー、カマロオールドモービル、リンカーンキャデラック、BMW、ベンツ、ロールスロイス。やはり良いのは国産車、いや外車日本の車です。この間まではトヨタセコイヤ今はスバルのアウトバックに乗っています。なんと言ってもやはり日本の車が一番ですね。過去に車で沢山お金を使ったので今は私も車のことについては結構びんかんコンチネンタルになりました。
1980 年代になると日本からは不動産業者がハワイ不動産ブームに肖ろうと沢山やってきました。今のようにスリムで軽い携帯でなく重たいモートローラーを片手にワイキキの風月堂に屯していました。この携帯電話を持っている事が裕福のステータスのような時代です。皆様は移民の地上げと言うお話をご存知ですか?昔ハワイに移民で来られた方達が日本に残してきた土地家屋です。私の広島の友人でこの仕事を専門にやっていた方がいました。その多くは家族親戚が管理しているか所有者不明のまま置き去りになっています。彼はそれに目をつけてこの物件の所有者を見つけ出し交渉に入ります。放っておいて家族が亡くなると権利書と持ち主不在の不動産が取り残されていきます。日本とアメリカが離れていますから彼らには何も出きません。忘れていた土地家屋が売れれば彼たちにもありがたい事なのです。人間というものは面白いものですこうして忘れていた土地家屋が売れると知ると互いの欲が絡み交渉は難航します。最初は日本とハワイは折半と言っていてもどちらが多く面倒を見たか管理したかと問題が浮上します。彼はこうして双方の間にはいり話をまとめるのです。
人間は色々なお金儲けを考えるものです。私もいくつかお手伝いをさせて頂きましたが私は彼を移民の地上屋と呼んでいました。この当時からですか沢山のハワイのビジネスマンやローカルの人が不動産ライセンスを取得して一攫千金を狙ったのです。現在見るハワイの不動産は異常にまでも値上がりを続けお金持ち以外には全く手が届かなくなりました。ですから昔から此処に住むローカルの人達が自分達のアイランドであるにも関わらず家も買えない様な現時代が来たのです。先日ハワイ州が、ローカルの人達にも不動産が購入出来るようにと作ったローインカムハウスの金額を見ますとこれは全く低所得者用とは思えない金額設定で有りました。これではやはりローカルの人たちは家を買うことは到底無理でしょう。大変に悲しい現実です、実は私も過去になりますが家とマンションを持っていた時が有りました。後ほどお話をするある問題からアメリカ本土に移転したためやむなく手ばなしたのです。今になり後の祭りと後悔しています。さて私の知り合いに当時7万ドルで購入したカハラの家がなんと現在は2億円を下らない値に膨れ上がりました。ベランダから見える180度のパノラマオシャン ビューも7万ドルの景色からなぜか2億円の景色に変わって行きました。このままコンドや家、ホテルやビルディングが建ち続けるといつの日かこの島が沈むのではないかと心配になるのは私だけの取り越し苦労でしょうか?
ハワイの食べ物ですが、此処はチャプスイいわゆるマゼコゼという意味です。各国の異人種料理人が其々に工夫して作り上げたお料理であります。根本的に味は少し甘めかも知れません。代表的なハワイ料理ならポケ又はポキと呼ばれるものですが(ポケとはハワイ語でぶつ切りの意味で魚はマグロに限らずハワイアンが釣った魚をぶつ切りにしてハワイや沖縄など水のきれいな海に自生するオゴと云う海藻と混ぜて食べたのがその由来であります。また古き時代には冷蔵庫がありませんのでハワイアンソルトを多めに混ぜ魚を短時間で腐らせない様にと考えたのです。ポケは主にプープー、ハワイ語でおつまみという意味ですがビールや酒のツマミであった様です。 現在はポケ丼という丼が有名になりましたがこの丼をアメリカ本土で最初に発案してレストランで売り始めたのがなんと驚く私のお店でした。これは自慢ではありません。当時私がレストランを開けた時アメリカは寿司ブームでしたが、たまたま開けたお店のモールにはすでにお寿司屋さんが有り、うちの店では寿司が出せないためその対抗策としてポケ丼を考えたのです。ですから出し始めた当時は誰もポケ丼なんて知らず「これは何?」とよく聞かれたものでした。ポケ丼が浸透するには4~5年かかったと思います。そのうちに1軒2軒とポキ丼専門店がオープンし一挙にポケ丼ブームが到来したのです。もう一つポケ丼屋さんが多いのはこの料理は誰にでもできるという事であります。混ぜたいものをただ混ぜるだけですからたとえお料理の経験のない人達にも簡単にできる訳です。一つだけ教えましょうこのポケが美味しいか不味いかは新鮮ないい魚を使用しているかどうかの違いだけです。混ぜ込んでありますから魚が多少古くても分かりませんのでポケラバーの皆様その点をよく考慮されお召し上がりください。魚が新鮮でないと、なりますよビリビリに!ちなみに私どもがカリフォルニア州アメリカで初めてポケを販売した新聞記事の切り抜きは証拠物件として額縁に入れ大事にお店に飾って有ります。その他のハワイアン料理ですが豚の丸焼きカルアピッグ、鮭とトマトとオニオンを酢で合えたロミロミサーモン、肉と魚を包み蒸したラウラウ、主食にはポイ(日本人のお米の代わり)デザートには フィリピン人が作るハウピア。日本で言うバイキングのような宴会はルアウと呼ばれています。また美しいハワイの夕日を見ながら飲んで合うカクテルがハワイアンパンチ、ブルーハワイにカルアミルク、飲み干す時にはハワイでの乾杯オコレマルナ。オコレはお尻マルナひっくり返して飲みほせと言う事らしい。 ハワイに訪れると最初にあるのがレイの歓迎長旅で疲れたあなたを癒す一分間の夢ごごち美しいハワイの美人がレイを首にかけてくれて頬にチュッ!調子に乗って抱き付くと訴えられるかもしれないのでお気をつけ下さい! さてハワイのお土産ですが 70 年代の昔は現在のようにマカデミアナッツやチョコレートコナコーヒーもあまり知られてなく、パパイヤとパイナップル、アイスクリームだけしかありませんでした。最近ではチョコ、ナッツ、コーヒー、クッキーやローカルハワイの匂いが残るクッキーレディーなども販売されています。本当にいい時代が来ました。世界中の人に愛される夢の島ハワイ。輝く太陽に青い海。自然と近代都市のコラボレーション。もし貴方が本当にハワイを愛するならブルーハワイでオコレマルナを楽しむだけでなく若い時に旅をしておいて昔と今の歴史を歩き貴方の第二の故郷としてハワイを支えて頂きたいのです。真珠湾攻撃でお亡くなりになった方々ハワイで日本人アメリカ人として貢献され第二の故郷を残してくださった先輩達が居なければきっと今日のハワイは無かったと思います。ですからハワイを愛する皆様一人ひとりが、そのような先輩の方々に心からのお礼を伝えて頂きたいのです。
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