エンタメ業界へ
マラソンプロジェクトが何年か過ぎた時でした。代理店の方々と板垣社長のご好意から 私どもの会社と日本の代理店に業務提携のお話が持ち上がりました。小さな私どもにとっては大変にありがたいお話でした、それというのも今ですから正直にお話し出来ますが私はこのハワイで長年に渡り会社経営をしましたが黒字になった事は殆ど有りません。いくら仕事をしても会社の経費、家賃、従業員の給料ととても追いつくことは出来ませんでした。会社は旅行業そしてイベント企画芸能といくつかの業種を抱えていましたが旅行社だけでも毎月2~3万ドルかかります。航空券を一枚売っても手数料はたった 20 ドルです。 旅行社は派手には見えますがとても利益の薄い仕事です。仮に2万ドルの経費を出すのには千枚の航空券を売らなければなりませんがハワイで一月千人のお客様を掴むのは大変に難しい事です。その経費を補う為に持ち込まれる仕事もそれほど儲かるものでは有りません。ハワイに居る大勢の古き仲間にはきっと私の言っている意味がご理解頂けると思います。資本金を入れ会社をスタートすると蓄えは月々少しずつ減って行きます。毎月頂いたお給料をコツコツ貯めて年末に不足分を補い何とか帳尻を合わせます。お金が無くなると何処かでスポンサーを探し又お金が減れば又違うスポンサーを探す。私は此れを、やどかりビジネスと呼んでいました。ですから私達は常に太い柱を探していたのです。こうして私は川勝先生のバックアップに板垣社長と代理店の皆様のご協力でハワイの合弁会社をお預かりする事になったのです。私のような一匹狼まで行かず一匹ネズミのような人間にはハワイで会社を上手に存続させる事は大変な事でした。ある日の事、私が「広告代理店の仕事を勉強したいので半年でも一年でも本社でトレーニングをして頂きたい。」と申しますと、板垣社長は何も言わずただ眼を閉じ、「庭園に咲き誇る花もよかろう。野に咲く花もまたよかろう。」と呟いたのでした。どうやらその意味はあなたが本社に来てもあなたの花は優秀な人の中に埋もれてどこに咲いて居るのかも分からないですから貴方はハワイの野原で一人静に咲いていなさい、と言う意味であったようです。
以前にも書きましたが、日本や海外から来られるお客様を現地でお世話するのがインバウンドの仕事です。ですからマラソンの仕事はインバウンドになりますが私はこのコーディネーターの仕事はただの案内役お世話役だけではなくエンタテーナーとよく似ていると思います。ハワイをステージとして我々が繰り広げる観光ショウが素晴らしければお客様はまた戻って来ます。ですから会社名もエンターテインメントツアーと名付け主に芸能人のお世話やテクニカルツアー、イベントセミナーを中心に行っていました。一方会社は現地の人を東南アジアや日本にご案内するアウトバウンドも行っています。代理店との提携後約一年後の事でありました。この年はアウトバウンドの集客が良くかなり期待の年でした。 40 人程のツアーを3本立て続けに日本に送り出しました。ツアーが無事に終わり精算の時です。思いもよらぬ事態が!ドルと日本円の変動で約束されていた利益は消え全て赤字決算になってしまったのです。本社の局長会議の時で有りました会計監査が「なぜ赤字を出した?日本にツアーを出す前に未然に防ぐ方法は無かったのだろうか?」ただ旅行は一度日程が決まれば為替の変動であろうがいかなる理由が有っても勝手に変更したりキャンセルしたりは出きません。しかしながらビジネスは理由が何で有ろうが赤字は赤字で有ります。板垣社長に説明責任を果たし追加の投資をお願いすると静かに笑みを浮かべ「そうですかそれでは貴方にもう一度騙されてみましょう」と言って小切手を手渡すので有りました。
私達は会社の存続を掛け色々な仕事の可能性を試みました。その一つが興行の仕事でしたプロモーターと言えば聞こえはいいですが狭い日系社会の中でのオママゴトのような仕事です。高いギャランティを払えばトントンか赤字、見た目は派手ですがこれも又難しい仕事でした。その他にも放送業界に興味をいだいた私はホノルル KZOO 、KOHO ラジオのパーソナリティとして仕事をさせて頂きました。この仕事の企画からコマーシャル作りは川勝先生から学びました。当時のラジオパートナーは岡本和枝さん。聞くと彼女以前はトビ職をしていたといいます。女だてらにと思っていたらそれはスチュワーデスの事でした。なるほど飛び職であります。次に企画した番組は愛子とゲーリーの今日はサタデー。毎週土曜の昼から午後5時迄のワイドショーでした。昔 愛子さんには大変にお世話になりました。実は愛子さんは三人娘トリオ恋さんズの歌手 で、藤田まこと主演の『てなもんや三度笠』であんみつ姫をされていた事は皆さんも記憶に残っていると思います。これまでに私がお仕事をお手伝いさせて頂いた方々のお名前です。神野美香、大月みやこ、瀬川瑛子、さだまさし、角川博、島津亜矢、木の実ナナ、浜圭介、マヒナスターズ、白木みのる、杉良太郎、橋幸夫、美川憲一、細川俊之、クラリオンガール、阿川泰子、加藤玲子、ドリフターズ、坂本スミ子、高石ともや、安倍律子、石川さゆり、狩人、コロッケ、ビージーフォー、カルーセル牧、名球会、阿川弘行、渡哲也、宮内淳、そして猪俣公章、市川昭介、山口洋子、ヘンリーカポノ、カラパナ、ノヘラニサプリアーノ、ナンシー田中、レイモンド田中、パット森田と多くの方々にお世話になりました。 アメリカでの興行のお仕事はハワイ音楽協会、テクニシャンズユニオンとの交渉、エンターテイメントビザの確保、会場、機器、楽器の抑え、大道具小道具、TV、RADIO、紙面のプロモーション、チケットの販売と大変手間のかかる仕事でした。見た目は大変に派手ですがその割合には決して儲かる仕事では有りません。あるジャズシンガーのハワイのモントレー船上コンサートのお仕事でした。移民局には必要書類は全て提出を済ませ日本のアメリカ大使館からのビザ発給の知らせを待っていた時です。日本のプロダクションからの連絡でビサ発給の知らせが一日前になっても来ないとクレームが付いたので調べてみますとビザの発行は済んでおり既に日本には連絡済みと云うのです。こんな時日本のプロダクションは我々下請け会社のミスと思います。「お前ら一体何しているんだ。あんたの会社本当に大丈夫なのか。」と怒っています。しかし何度移民局に問い合わせても確認番号はすでに送り済みだといいます。こちらの移民局はうるさそうにするし日本のプロダクションは怒っているし板挟みであるだけで無く一向にラチがあきません。怒られながら何度も確認をすると移民局のミスで送られた確認番号の数字が間違っているのです。早速日本に事情を説明するのですが彼たちは全て私達のミスと云います。最終的に移民局が自分たちのミスを認めましたが日本とアメリカの時差で、こちらの事務所が閉まっているため書き換えて送ることは不可能です。するとある親切な職員が、明日の到着時間に合わせ空港の移民局に出向きそこで認証のハンコを押してくださると云うのです。「そのまま観光ビザでお越し下さい。あとは到着後空港でクリアーしますから心配ありません。」と言うのですが日本のプロダクション担当者はとにかく怒っている為機嫌が悪く話になりません。言われたとおりに到着後空港でビザを頂き入国出来たのですがこのプロダクションの責任者は帰国の日まで私とは満足にお話しもして頂けませ んでした。
これはある有名な俳優さんですが歌手活動もされている方です。この年彼はレコード大賞を意識することである有名な作曲家も同行していました。ホノルル到着後記者会見の為、空港内のガバナーズラウンジで待機していました所に俳優さんと作曲家の先生が来られましたので「お疲れさまでした。」と声をかけると、その作曲家と私は古くからの友人である為、「おい、なんで君が此処にいるの?」と聞いてきましたので「久しぶり〜元気?」と声をかけると、突然マネージャーが「貴様は誰だ!この先生は大変偉い方でお前なんかが気安く声をかけるのは失礼だ。」と怒鳴ってきたのです先生は「いいんだよ。彼は僕のポン友だから。」と云うのですが、一度言い出した手前あとには引けず、ぶつぶつと文句を言っていました。この仕事の興行主は私でなく別の人でしたが私はこの司会としてお手伝いさせて頂く予定でした。しかしながらなぜ私がマネージャーからああまで言われて怒鳴られたのか納得がいかず興行主に「申し訳ないですが今回の仕事は降りさせて下さい。」とお願いすると作曲家の先生からも事情を聞いて「それは失礼な人だ。あなたの気持はわかる」と言って「よしその人が正式にお詫びをしないなら明日の本ちゃんの幕は開けない!」と言い出したのです。時に人は有名人や著名人に関わるとその人自身が勘違いをして周りの人を見下すのです。最終的にマネージャーがお詫びに来られたので、興行は無事に終える事が出来ました。
石川さゆりのコンサートの時でした。舞台監督を含め総勢 27 名のビザの申告を済ませいつものようにコンファメーションを待っている時でした。それまではビザの申告は興行場所であるハワイの移民局で出来たのですが現在は政府の方針が変わりビザの申告は全米で2箇所ニューヨークとロスアンジェルスに移ってしまったのです。割合にいい加減なのですが厳しい移民局です。ビザを取るという事はとても手間の掛かる仕事です。歌手であればCDレコードの制作販売枚数、テレビ舞台の公演活動の証拠、新聞雑誌の切抜などをすべて英文に翻訳して書類をつくり提出しなくてはなりません。さてその理由ですが映画コマーシャルの撮影隊、カメラマン、制作スタッフ、歌手、ダンサーなどの皆さまがアメリカの土地で自分たちのベネフィットのために何かをやった後、その後始末を怠り人によっては金銭的な負債を残し逃げ帰った為、そのような事が再び起こらぬよう厳しい審議調査手続きをするようになったのです。ですからアメリカに住む日本人のためにも旅の恥をかき捨ててお帰り頂く事は日本人の誇りを守るためにも避けていただきたいと思うのです。
ある公演間近の事でした移民局から連絡が来て、この度の芸能ビザ発給は却下されたと知らせがありました。これまでですと此処の移民局に直接行けばその理由も伺えるし交渉の余地もあるのですがロスアンジェルスですとそんな簡単にはいきません。その上こんな事が現実になれば大変な問題になります。その時ふとあることを思い出しました。当時の上院議員のダニエルアカカさんの息子さんは ハワイでも有名な音楽家で有りました。私も過去何回となくコンサートのお仕事を一緒にしておりましたので一か八か彼に連絡を取りました。「実は私もこんなことは初めてですが手配も申告も期日までにやっているのに理由も教えてもらえず却下されました。」と伝えると「レットミーコールマイダッド」といってすぐ連絡してくださいました。アカカ議員は「ハワイの日系人や沢山の日本人が心待ちにしているコンサートをさせない理由は一体なんですか?」と抗議をして下さったのです。 驚きました。却下の報告を受けてから2時間後コンファメーションの知らせが有りましダニエルアカカさんハワイの日系人と私達日本人の為にお骨折り頂き大変有り難うご御座いました。
長い間の音楽活動のお仕事から私は素晴らしい作曲家と作詞家の先生方とお会いさせて頂きました。大変幸運な事であります。この先生方三人はすでに亡くなられていますがその一人が森進一の多くのヒット曲を残された猪俣公章先生そしてもう一人の方が都はるみの生みの親でもある市川昭介先生であります。最後に元は大映の女優そして銀座ひめのオーナーで作詩家だけでなく作家としても名を残 された山口洋子先生です。私はこの3人の先生方のお陰でなんの問題もなくプロモーターを続ける事が出来たと今でも深く感謝しています。
猪俣先生とは沢山の想い出が有ります。官約移民100年祭、此処ハワイに移民で来られた人達の移民百年の記念の時です。はるばる日本から家族親戚に見送られ出稼ぎに来られた方、家族で豊かな未来を夢に託し移民に来られた人達と色々です。日本人の多くは永久移民というより一旗揚げて故郷に帰る出稼ぎ族が多かったと思います。その当時日本人の心として自国を捨てることは考えられぬ事だったのでしょう。日本政府は自国の人達が行く先に領事館を開ける。ちょうど日本のメーカーが他国で販売するに当たり支社を開けるとのと似ており日本人の誇る責任感のある対応なのでしょう。その点中国人の移民はアメリカの要望は受けましたがなるべく感知することを避け問題と責任はアメリカに委ねていたようです。ですからアメリカに来られる中国人は最初から此処で骨を埋める覚悟でありました。中国人に地主が多いのもそんな理由であったのかもしれません。これは私が猪俣先生のご協力を頂いて見事に失敗をした『100 年祭懐かしのメロディ』と云うコンサートのお話です。
出演 ディック峰、田端よしお、菊池あきこ、榎本美佐江、岡ハルオ、二葉百合子と、往年の大スターをお招きしてこれぞ100年祭に相応しいと企画したのです。しかしその思いは見事に外れたのです。この大スターの歌は一世の人達がよく口ずさんだ歌の数々ですがコンサートの時には多くの一世はすでに他界されていたのでした。二世の人達はこの大スターの歌を父が歌う姿を母の背中で聞いたのだと思います。ですから我々日本人とってよく知る大スターも二世にとってはその面影がなく歌に聞き覚えがあっても誰が歌っているかまでは知らないのだと思います。コンサート会場の予約を済ませ、ミュージックユニオンとの交渉も終えエンターテイメントビザの習得をしていた時です。TV や雑誌の広告を打ち、チケットを一斉販売したのですが、問い合わせもなく全く売れないのです。日系人協会や各宗教団体とあらゆるところに協力を求めても誰もこの大スターを知る人は居なかったようです。会場は2千席、売れたチケットはたったの100枚にも満たないのです。「先生チケットが売れません。どうしましょう?」あらゆる方面に手を尽くしましたが販売数は伸びなく最終的には中止となりました。今ですからお話しできますが先生は「仕方ない。ディックを病気にしよう。」「そんなことして大丈夫なんですか?」と云うと先生は「お前2千の会場で百人ではお茶代も出ないどころか何せこれではカッコがつかないだろう。」仕方なく、また新しい企画を立ち上げました。美空ひばりインハワイ官約移民特別記念公演と題し先生と二人でまずはコロンビアにお伺いしました。ミーティングの時でした。ひばりさんは私達より10メートル先のソファーに腰掛けていましたが、ミーティングには同席されません。ひばりさんにはひばりプロジェクトチームがありすべての仕事の依頼はそこが受けます。メンバーが吟味してひばりさんが出演するだけの意味と意義があるか検討されます。先生と私が「コンサートは6月を考えておりますが。」と云うと「6月は名古屋で新しい劇場のこけら落としがあるので無理よ。」と言われるのです。「6月を選んだのは何故?」とひばりさんが聞かれたので「じつは、常陸宮様が官約移民に参加される予定が6月なので。」と言いますと、「困った わね〜。あなた達、常陸宮さんの日程は変えられないの?」と云うのです。さすが日本を代表する歌姫はパワーが違います。そんな話を先生と私がしていると山口洋子先生が来られたので「洋子先生だめでした。」と報告すると「馬鹿ね〜お嬢はそんなやり方では動かないわ。直球はだめよ。私にいい考えがあるから任せなさい。」というのです。数日後洋子先生が「大丈夫?本当に受けられるの?お嬢いくと言ってるわよ。」「洋子先生一体どうやって説得していただいたんですか?」とお伺いすると、「中村メイコちゃんに頼んだの」と云うのです。「あのね〜メイコちゃんの旦那 はひばりさんの舞台を仕切っている神津先生でしょ。だからメイコちゃんに頼んで神津先生もメイコも一緒に行くからみんなで一緒に行こうって言ったら二つ返事よ。」「へえ〜そんなもんなんですか?!」「ひばりさんは別格だからね、仮にプロジェクトチームがやると言ってもお嬢がいやと言えばやらない、プロジェクトチームがやらないと言ってもお嬢がやると言えばやるのよ。」大変なパワーで有ります。数日後書類が届きました。ひばりさんの希望条件であります。
1)顎足枕、80 名の航空代金、現地での送迎、宿泊費、食費、お嬢はファーストクラス
2)ハワイ到着時 赤ジュウタン、移民局税関の手続き無しでカハラヒルトンスイート
3)通訳2名 24 時間隣の部屋に待機
4)市長、州知事の招聘状に感謝状
これを全てクリアーしなくてはならないのです。絶対に不可能であります。もう一つの考え方はひばりさんが断る方法として出来ぬ条件を出したのではないかと言った人がいま したがそれも一理有りでした。
一週間後、興行主が来られ会場の確認をすれば確実に赤字になります。運がいいといえばお叱かりを受けるでしょう。希望の日付は会場がすでに予約済み正直の所中止になりほっと胸をなでおろしたので有りました。しかしひばりさんのパワーには大変驚かされました。
100 年祭開催に当たり実行委員会が発足し、会長は後藤健二さん、メンバーは各県人会、宗教団体、そしてハワイ日系有力者の集まりでした。私は後藤氏のお誘いを受け最年少で有りながら企画財政運営委員長と言う大役を仰せつかりました。私の役職は年間を通しプロジェクトを立ち上げ委員会のために運営費用を捻出する仕事です。大体にこの手の集まりに参加する人達は私も含め名誉名声を好む出べそ人間で有ります。いつの世もこの手の催し物をまとめていくのは大変な仕事です。出来る事ならなるべくハワイの権力者の中には入らず委員会に貢献出来ればいいなと思ってました。早速私は日本のメディア関係や芸能関係と連絡を取り始めました。
まず最初に思いついたのは 100 年祭のロゴデザイン、そしてテーマソングで有りました。 ロゴデザインはある方からのご紹介で巨匠グラフィックデザイナーの黒田征太郎氏、100 年祭音頭は猪俣公章氏作曲、山口洋子氏作詞、歌は当初美空ひばりさんを考えていましたがコンサートが中止になり金田たつえさんとなりました。ロゴが完成され委員会に持ち込むとハワイで代理店を営む女性社長が、「これはハワイのイベントですからハワイのアーティストを使うべきである。」と言い出しました。 日本にお願いする前に委員会の承諾を頂いているにも関わらず今になって反対意見をいうのです。周りの人達はハワイの人間同士のトラブルを好まず、顔色ばかりを気にして誰も何も言わない。結局ロゴデザインは黒田征太郎氏のご好意虚しく名も無きハワイのアーティストに決まりました。協会はお金は欲しいがイニシャティブは渡したくない。協会にはいくつかの派閥も有りましたが、私のように日本で幼少を過ごした人間とハワイで長い間日系アメリカ人として経験された方達との考 え方の違いも多く有ります。私はふと初期の頃のマラソン協会を思い出して居ました。後藤会長も当初は任せるから好きにやってくださいと云うものの反対意見がでれば顔色を見て口を閉ざすのです。私がお話した相手は渋沢栄一さんのお孫さん渋沢均さん、TBS 川勝先生、朝日 TV、黒田氏、猪俣先生、山口洋子先生、農林水産大臣武藤嘉文先生に青年の翼笹川良一先生の第一秘書加納さんとそうそうたるメンバーの皆様にお手伝いして頂くはずだった予定が、自分の手柄を取りたい数人のメンバーによって私の企画は全て却下されてしまいました。全ては私の力不足でした。暫くすると州の関係の日系人の方が既にある実行委員会を無視して新たな委員会を発足させたのでした。同じ日系人の仲間たちの寂しく醜い戦いでした。
その頃の芸能ショウビジネスは演歌が中心です。日本のポップスは人気がありませんでした。ハワイの音楽興行主は私の他にも約4名、意地と面子を保つため儲かりもしないお仕事をよく取り合ったものでした。もう一つハワイの人たちの楽しみは年に一度の桜祭りと女王コンテスト、私も何度か司会をさせて頂いたハワイ紅白歌合戦、日系移民の人達の宗派を超えた唯一の楽しみとコミュニケーションの場であったと思います。当時の日系ラジオ局は KZOO 局と KOHO 局の 2 社でした。オーナーは日本劇場という映画館を運営していた古屋のぼる社長。ハワイで初めて日本語放送を始めたのは後のジャーナリスト田坂養民さん。私のハワイの親代りでした。アメリカの放送局 KIKI から朝の時間を買い取り日本語放送をやっていましたが KZOO、KOHO とともにKIKUTV が始まった時に放送の世界から足を洗いレストランに転向しました。もともとは広島出身の田坂さんと最後にお話した時、「ワシは日本に帰ってお遍路さんをする」とおっしゃってました。もう一度お会いしたいです。
さて、カルーセルマキちゃんのお出ましです!ハワイに着いたその夜はクルージングへ行きクラブシャンデリアだったか?店内に入ると「あらオネエさん!」マキちゃんちらっと仲間を見つけて、「あんた いつまでも赤毛の白人追いかけてるんじゃないわよ。」ゲイの世界は上下関係が厳しそう。クラブ帰りのカラカウ通り、見るとマキちゃんが下着をずらして車の窓から尻を出している。「オイオイまずいよ捕まるよ!」「捕まえて頂戴よイケメン白人ポリス!」次の日ホテルのプールサイドで一休み、ブラジャー外して胸を出す。「マム、ユーキャントドゥザット ユーマストハイドユアブブー」ブブーとは胸のこと。「なんでこんなに綺麗なものみんなに見せてはいけないの!ブブーいわないで!」マキちゃんが言っていた。「日本で最初に腹の下切って鉄の棒取ったの私よ!私の本名知っている?桐原鉄男っていうの。何と男らしい名前なんでしょう!もしかして『切腹鉄尾!』
忘れてはならない事が有ります。銀座の有名クラブ柳のハワイ旅行の一コマ、このお店のホステスかホストか正体不明の人が多く居ました。ハワイ旅行で皆超ハッピー。機内のトイレでお化粧パンパン完璧〜!到着後、空港入管検査に来ると見ためは女性、パスポートは男。見れば男か第3星人。検査官も呆れ てタジタジ、結局全員お化粧取らされ入管手続きにはオーバータイム。「何よ〜せっかく綺麗にしてきたのに〜!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます