ホノルルマラソンとの出会い

 1972 年ある時舟山社長が「明日日本から VIP が来られるので空港で出迎えてホテルまでお送りして下さい。」と言って来ました、空港に着き暫くするとその VIP が出てこられました。

「新聞を買いたいけどニューススタンドはどこですか?」私がご案内するとアドバタイザー、ホノルルスターブルティン、ニューヨークタイムズ、ウォールストリート等、他州の新聞を含め7つの新聞を購入して嬉しそうに抱えています。「ホテルまでお送りします。」と車に乗り込みお部屋にご案内すると、先程の新聞をベッドの上に並べ始めました。「お迎えご苦労さまでした。後で夕食を一緒にしませんか。都合はいかがですか?」と彼が聞いてきました。これが後に私の恩師になる川勝久先生と私の出会いで有りました。

 川勝先生の本業はある日本の有名なTVと放送会社の調査室部長ですが放送業界には珍しく大変地味で静かな方でした。こんな事を記憶しています。まだ私が半人前にも満たぬ頃でした。帰国の為先生を空港にお送りした時の事です。高速道路で行く道をまちがえてしまいどうしても空港に着きません。すると先生は恥ずかしそうに「ゲーリー君、その先の道を左に曲がって下さい。3−4分で空港に到着します。」恥ずかしいのは私の方です。文句を言うでなく怒るのでもなく、きっと私に恥をかかせぬよう気遣って下さったのがよく分かりました。彼は多くの仲間から放送界の変人博士と呼ばれていましたがその理由は本業の傍ら100 冊を超えるビジネス著書を書き下ろしアメリカの優れたビジネス著書を翻訳して日本国内で販売を手掛けていました。大変ユニークでグローバルな方でした。またこの他にもアメリカに到着するや否やアメリカの 音楽番組を 24 時間録音してそのステーションに交渉し日本国内で有線やローカル放送のマテリアルとして音楽の流通にも貢献された人でした。夕食が終わりホテルに戻ると「部屋に来て下さい。面白いものを見せます」と云います。部屋に入ると先に購入した新聞がベッドと床にところ狭しと広げています。彼が「知らない土地に行った時にはこの新聞がその街を知るのに一番いい情報源になります。」と楽しそうに話します「色々な違った情報を集めて種別にまとめ、関連の有るものと照らし合わせると新しい何かが発生するんです。」これが彼から教えられた情報整理学で有りました。「此処に面白い記事があるから読んでごらん。」これが彼と私のホノルルマラソンとの出会いで有りました。

 このマラソンはホノルルで心臓外科医をしているジャック・スキャッフ医師が健康維持のために仲間と一緒に始めたらしいのですが、何と全ての運営は現地のボランティアで行われているのです。お恥ずかしいが現地で生活をしている我々より先生の方が良くご存じです。「どうだろう、一度ジャック医師に連絡を取りマラソンの将来に何かお手伝いが出来ないか彼と直接話してみたい。」と言いだしたのです。早速連絡をしてアポを取り下町にある診療所にお邪魔致しました。「新聞で知りましたがとてもユニークなマラソンですね、この先の将来のことも考え如何でしょうスポンサー探しを含め何かお手伝いが出来る事は有りませんか?」と伺うとジャックさんがゆっくりと話し始めました。「このマラソンは時間を争う競技目的ではありません。制限時間を気にせず仲間と楽しく完走を目指すピープルマラソンです。出来る事なら何処にでもある冠マラソンにはしたくない。」と言うのです。しかし彼の様子を見ると全く興味が無い訳ではないと思います。先生が「年々参加者も増えて来れば大きな運営費用も掛かるでしょう。如何でしょう、一度日本に帰国して心当たりを当たってみますが、お幾ら集めれば協力させて頂けますか?」と云うと、「さて」彼としては見当もつかないだけでなく、このピープルマラソンをビジネスライクにしたくない。後で彼がおっしゃっていましたがスポンサーフィーを高く言えばどうせ集まらないだろうし、ハワイのこんな小さなマラソンイベントがスポンサーにとってどの様なメリットが有るのだろう。そこで彼が言った金額はワンミリオンダラーで有りました。この様にしてホノルルマラソンは川勝先生のご好意のお陰で日本に紹介される事になったのです。 多くの参加者の皆様はご存知ないと思いますがあの時川勝先生のご好意が無ければ今日のホノルルマラソンは無かったと思います。すでに彼は他界されていますが、きっと今でも青い空に浮かぶ雲の間から彼が愛したこのマラソンをいつまでも見守っていると思います。

 もう一つわたしが彼を尊敬するのは、先生自身がファインダーであるにも関わらず決して前には出ず最後まで影の仕掛け人としてご自分の信念を全うされた事でした。「手柄は若い人に」これが先生の愛情ある仕事の流儀であったと思います。その他にも先生はTV、RADIO のスポンサーと共に多くのセミナーを企画されました。講師には慶応大学の商学博士村山教授、同時通訳には数々の国際会議でもおなじみトム浅田氏、日清国際セミナー、朝日TV開発事業部との経済セミナー、日本とハワイの金融セミナー、がん保険のアフラック、食品メーカーのフリトレイ等など私はこれらのお仕事をお手伝いさせて頂き多くを学ぶと云うより沢山の事を教えられました。このホノルルマラソンの広告代理店を選んだのは勿論川勝先生ですが、あるスポンサーセミナーの時でした。当時日本で業界5位の大手広告代理店OO 通信社の方がこのセミナーに参加されていた事がきっかけでこのホノルルマラソンの話が持ち上がりこの代理店と協力してのスポンサー探しを始める事になったのです。日本の大手代理店は国内のトップ企業との関連も深くどの会社に可能性があるかおおよそのプラニングを持っていたと思います。まず最初にお伺いしたのは日本の代表的な航空会社でした。私はアメリカに住んでいますので良く分かりませんが代理店担当者の話では当時この航空会社は飛行機事故で多くの犠牲者を出してしまった事で会社としてのイメージアップに繋げることも考慮に入れ交渉に入ったと申されておりました。何度となく交わされた会議の結果この航空会社が費用の半分を出して下さる事が決まったのです。さすが一流代理店の仕事人です。彼らのプランは見事に的中したのです。そしてその後またも世界を代表するクレジットカード会社に話を持ち込み残る半分のスポンサー費用を捻出して頂く事に成功したのでした。この2社を柱に日本を代表する商社、成長を続けていたコンピュータ会社なども賛同され可能性と現実に向き合う人達との未来が動き始めたので有りました。

「スポンサー見つかりましたよ。」「えっ本当に見つかったのですか?」ジャック医師は思いもよらぬ結果に興奮気味であったと思います。「其れでは早速協会のメンバーに報告します。」最初の頃はアメリカの主催者側とマラソン協会としての希望、日本側スポンサーの意向と中々話はまとまりませんでした。結論から言えばお金は出しても協会の運営方針には口は出さないで欲しい。しかしながらお金を出す方から言わせて頂けば最低限のメリットが無くてはただ黙ってお金を出す訳には行きません。矛盾と言い訳が重なる交渉が続きました。スポンサーは沢山の露出が欲しい協会は冠を好まず、しかしお金は欲しい。難しい交渉でした。そもそも文化思想の違う人種のボランティアと一流代理店とそのスポンサー双方が納得出来る案を見出す事は大変に難しかったと思います。そんな協会とスポンサー代理店に日差しが見えたのはこの人達のお陰でありました。ジャネット・チャンとロナルドチャンのご夫婦です。このお二人が唯一オリエンタルの心が通じる人達でありました。今日ホノルルマラソンがこれほど大きな国際イベントに発展した影にはやはりこのご夫婦の協力が大きく貢献していたと思います。今でも時々お会いしますが 80 歳を超えてもエネルギッシュに活躍されているお二人を見る と教えられる事も多く、いかなる問題を抱えても諦めず変わらぬ努力をされている姿を拝見しますと本当に頭が下がります。不可能を諦めず可能に変えていく努力と戦略、持続交渉力の尊さを深く教えられました。現在も現役で協会の一員としてマラソン協会を支えるお二人ですがご主人のロナルドさんは真珠湾に浮かぶミッドウェー航空母艦の元技術部長であります。今もマラソン協会の副協会長として活躍されています。皆さんが走られるコースのスタートラインからフィニッシュライン迄の全ての準備をされている方です。奥様のジャネットさんはマラソン協会の広報とエグゼクティブセクレタリーをされているユニークかつとてもチャーミングな方です。協会と代理店の意向、日本とアメリカの文化と方針の異なりを理解して双方に最良な方法を常に生み出し50年もの間日本と協会の間を取り持つスーパーレディーであります。

 確か提携後2年目の大会だったと思います、日本の代理店の代表者である板垣社長がマラソンに参加する為にホノルルに来られたのです。その時彼はすでに60歳を過ぎていました、聞けばお医者様から心臓の負担になるランニングは控えるように言われていたのですがそれを振り切りハワイに走りに来られたと言うのです。「なぜマラソンに参加するのですか?」と伺うと「このようにとても意義のあるマラソンプロジェクトのお手伝いをさせて頂く代理店の代表としてせめて一度だけでも参加させて頂きこのイベントをより深く理解するために自分の足で走るのです。」板垣社長は初めてのホノルルマラソンを何と5時間台で完走しました。これが私のもうひとりの師、板垣社長との出会いでした。若い頃満州に渡り帰国後に仲間と数人でパブリッシャーカンパニーを立ち上げ生涯現役を貫き 40 に近 い会社を一代で築き上げた広告界のジャイアントと慕われる方でした。腰が低く微笑みを忘れずどんな相手にも平等に接する方でした。 ある時エレベーターで偶然ご一緒した時の事でした。大きい荷物を抱えた人に「どちらからですか。ご用件は?」と聞きます「お約束の品を届けに参りました。」と答える彼に深々と頭を下げられ「有難うございます。ご苦労さまです。」とご挨拶をされていました。お食事にご一緒しますと同席の社員とお客様の一人ひとりにまで食べ物を皿にお取りする方でした。正に驚きと感動で有りました。人の上に立つ人頂点に立つ人がこんなにまで優しく真心で人に接する姿を拝見して心から深く感動したので有りました。ある時協会のお手伝いで日本にお邪魔したときでした。どこかで見覚えのある人が私のスーツケースを抱えようとしているのです。「社長、この荷物は自分で持てますので大丈夫です。」と云うと「貴方は協会員を連れ長い時間をかけて来られたのですからお疲れでしょう私がお持ちしましょう。」と言って荷物を離さないのです。長い間色々な方とお会いしましたがこの様な人とはこれ迄にお会いした事が有りません。私はこの板垣社長をいつまでも心から尊敬しております。

 次に日本の代理店の方が作り上げたのはホノルルマラソン公認姉妹レース三浦マラソンでした。このコースはホノルルのように海と青い空、そよ風と共に走る素晴らしいコースです。毎年ホノルル在住のトップランナーが三浦に招待され三浦で優勝したランナーがホノルルに参加すると云う素晴らしい友好の橋が出来たのです。この三浦マラソンに参加する為ホノルルマラソンの役員と日本にお邪魔した時のことでした。日本の代理店、マラソン関係者がアメリカから参加するランナーにエネルギーを付けて頂こうと毎日美味しいステーキを用意しましたが、メンバーの一人が「せっかく日本に来たのだからお肉より美味しいシーフードやお刺身が食べたい。」と言い出しました。早速日本の関係者にお願いしてその夜は豪華なお刺身と美味しいシーフードをご用意頂きました。食事を終えホテルに戻ったその日の夜中の事でした。私の部屋の電話がけたたましくなり始めたので受話器を取ると副協会長のロナルドが電話に出るなり片言の日本語で、「ゲーリー、オ〜痛い痛い。みんなビリビリ」というのです。私が「ワットアーユートーキンアバウト?」と聞くと「ビリビリ、みんなビリビリ」と言ってます。急いで彼の部屋に行って見るとトイレに座ったままドアー越しに「ビリビリ」と言ってます。私とジャネット以外の人は全員なま物に当たりお腹を抱えています。「そうか下痢のことを言っているんだ。」日本語が分からないメンバーは何と言ってよいか分からず「ビリビリ」と言っていたのです。今思い出せばこんな出来事もとてもいい思い出になりました。ロナルドとジャネットは私のハワイの兄弟ブラザーアンドシスターです。時々彼らの家にお邪魔して昔起きた数々の思い出に懐かしく楽しく浸っています。もし貴方がホノルルマラソンに参加された時何処かで副協会長ドナルドさんを見かけたら是非声をかけて下さい。「ロナルドさんビリビリ」と・・・・・

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