殺してはみたけれど
黒澤伊織
殺してはみたけれど
人を殺してしまったは良いけれど、その後に残った死体をどうするか。
どうにかこうにか車に乗せて、どこかの山に埋めてしまうか、それともバラバラに解体をして、少しずつトイレに流すか、生ゴミとして捨ててしまうか、庭に埋めるか、大きな冷凍庫で保管するか、あるいは料理に使って食べてしまうか。
否々、埋めたり捨てたりするならいいが、人を料理に使うだなんて、恐ろしいことができるのだろうか。
以前の美結ならそう思ったに違いない、しかし、いま、それを目の前にして思うのは、それも
とはいえ、捌いたのは美結でなく、世界中にレストランを持つ金持ちの父親、その懇意のシェフであり、その黒い目をしたフランス人男性、大きく毛むくじゃらの指が、魔法のように肉を切り分け、調理していくその行程を、間近で見ていただけだった。
既に毛皮を剥かれたというウサギは、薄桃色の皮膚を晒して、厨房のフックに吊されて、耳もなくなったその姿は、人間の赤ん坊によく似ていた。『実際、そう言って嫌がる人はいるよ』——フランス人はそんなことを言っただろうか。『でも、ぼくは赤ん坊の方が嫌いだけれど』
思い出し笑いをするように、美結は少し頬を緩める。人間の赤ん坊に似ている剥かれたウサギと、剥かれたウサギに似ている人間の赤ん坊。美結が調理しようとするのは、前者ではなく、後者であったが、その違いは何だろう。いまの美結には、ウサギか、人か、たったそれだけのような、そんな気がする。
だらだら思い出す間にも、股の間、ずるりと胎盤の出てくる気配、生温かいそれをボウルに移し、赤ん坊の隣に置いて、美結はレシピを考える。
料理は得意、フランスで暮らした二年ほどで、そのフランス人は、様々な料理を作ったし、門前の小僧習わぬ経を読むというわけで、帰国後、美結は次々と、
いまも鮮烈な赤を見るうちに、イメージはふつふつと湧いてきて、美結は這うようにキッチンへ向かい、ナイフとボウルをその手に取る。まず赤ん坊の血を絞らねば、まだそれが新鮮なうちに、頸動脈にナイフを入れて、逆さに吊して、ボウルで受けて、欲を言うなら、心臓が動いているうちが良かった、全身の血を押し出して、一滴の無駄なく味わえるから。けれど、そうでなくても仕方がない。次善の策を、とにかく急いで。
赤ん坊の首に巻き付くへその緒をくるくると解き、それを紐代わりにしてキッチンへ吊す。ボウルを下に、ナイフの先で頸動脈を探した、これがなかなか見つからない、ならば、頭ごと落とそうかとも考えるけれど、ウサギもそんな姿ではなかった、頸動脈への切れ込みで、少し首を傾げたように、あれ、ぼくはどうしてこんなことになったんだっけとでも言いたげな姿が、不思議と可愛らしかったことを思えば、ここに吊される赤ん坊も、そうであって欲しいと思う。
結局、頸動脈それ自体は見つからず、首に切れ込みを入れることになったがしかし、首を傾げたようになるにはなって、美結はほっと安堵する。ぽたり、ぽたり、血が落ちる。まるで雨漏りでもするように、その静かな音に誘われて、美結は床で眠ってしまう。
しかし、それは効率的な時間の使い道で、美結が再び目を覚ませば、赤ん坊の血抜きは終わっている。すると、美結も俄然腹が減り、調理にいよいよ腰が入る。息んだときの名残だろう、立てば太もも回りの筋肉が傷み、全身が疲労感に満ちている。それでも、肉は待ってくれない、冷たく柔い赤ん坊をまな板へ、肛門を切り取るようにナイフを入れて、そのまま腹の皮を裂き、臓物を取り、頭を落とす。股関節にナイフを、腕の付け根にナイフを、膝、足首、肘、手首、首元、背骨を縦に割るように、あばらは一本一本切り分けて、玉ねぎ、人参、豆とカスレに、肉はパテに、骨からはフォン・ド・ヴォーを作らなければ、脳味噌はバターソテーにしてもいいけれど、頭ごと丸焼きにしてもいい、腸と血はもちろんブータン・ノワール、残りは胎盤とミンチに混ぜて、とびきりのアンクルートに——。
コトコトと、鍋が音を立て始め、そこにバターと小麦粉の匂いが加われば、キッチンには特別な雰囲気が立ちこめる。フランスの乾いた空気、パンの香り、塩漬けしたハムの風味、つんとするチーズの匂い——あの頃の空気が蘇ると、そこからは、不意に色褪せたような哀しみの声が聞こえてくる。ママ、ママ、あたしを置いて行かないで。
ぴたり、美結の手が止まる。思い直したように、再び動く。ママ、呼んでいるのは幼い美結で、それはフランスへ渡り、しばらくしてからのことだった。それは父親の誕生日、部屋まで漂う良い匂いに誘われて、美結が起き出すと、母親は既にいなかった。代わりに、あのフランス人がキッチンに立っていて、その隣、カフェを啜っていた父親は美結を見るなり、気まずそうな顔をして、ママは男と共に逃げてしまったと、言葉少なにそう言った。その男がどこの誰なのか、一体どこへ逃げたのか、どうして美結に何も言ってくれなかったのか——美結を連れて行ってくれなかったのか、美結には知りたいことばかりだったというのに、逃げたというそれ以外、父親が語ることはなかった。当の父親も、それ以上のことは分からなかったのかもしれないけれど、でも美結にはもっと分からなかったし、何か納得できるような説明が欲しかった。美結の記憶にある母親は、料理が好きでふくよかで、父親のことを愛しているように、そう見えた。けれど、それは美結の前だけで、本当は不満があったのだろうか。女性としての母親がどんな人だったのか、父親との仲はどうだったのか、なぜ異国の地で出会った男と、家族を捨て、逃げるという決断をしたのか、美結にはまるで分からない。
鍋の灰汁を丁寧にすくいながら、美結はその色褪せたような哀しみを、元の通り、時間のアルバムに挟んで閉じた。なぜ、どうして。母親の存在を欠いたまま、父親と二人きり、フランスから日本へ戻ってから、美結はそんな疑問を口にすることはなくなった。けれど、父の誕生日が来て、フランス料理を作っていると、そのときのことが思い出されてならなくて、ついつい口にするのだった——なぜ、どうして。しかし、答えは同じ、父親は静かに首を振るだけで、母親はいま頃どうしているのか、そんなことすら口にすることはないのだった。
いや、一度だけ、父親は母親について、話そうとしたことがあったかもしれない。美結はさらに記憶を辿る。哀しい記憶、辛い記憶、できれば仕舞ったままでおきたい記憶。
けれど、記憶は蘇る。それは一昨年の父親の誕生日、特別な日、特別な料理を作り、食べる日、キッチンに立つ美結のところへ、珍しく父親がやってきて、ことことと煮立つ、カスレの鍋を黙って見つめ、なぜ、まるで美結のように言ったのだった。何かを恐れるように、怯えるように、どうしてお前は——と、小さな声で。
しかし、美結が振り向くと、その先の言葉は言わないまま、父親は逃げるように出て行って、そしてそのまま戻らなかった。家の電話のベルが鳴ったのは、その夜のこと、道をふらふらと歩いていたところを、車に撥ねられ、意識不明の状態ですと、警察からの知らせがあった。お父様には認知症の症状がありましたか、病院にはかかっていましたか、駆けつけた美結に、誰かが尋ね、確かにそんな風だったかもしれない、忘れっぽく、ぼうっとしていて、時々あの頃に戻ったように、フランス語で何事かつぶやき、そう、こんなことになる直前も、おかしなことを口にしていた、なぜ、どうしてお前は——。
あのとき、父親は何を言いたかったのだろう、どうして出て行ってしまったのだろう、年に一度の特別な日に、特別な料理を食べることもなく、美結を置いて行ったのだろう。
警察や、病院や、葬儀社や、諸々の手続きをこなせるだけこなした後、美結がようやく帰宅すると、特別な日のご馳走は特別なまま、テーブルで冷たくなっていた。美結は椅子を引き、座ると、磨かれたフォークとナイフを手に取り、それを全部一人で食べた。おいしい、けれど何か足りない。その足りないものは父親の存在なのか、それともそれ以前、父親とこの日の料理を食べていたときも、何かが足りないと感じていたのか、美結にはもう分からなかった。ただ、とにかく何かが足りないのだということは分かっていたので、しばらく考えたその後に、以前、父親から勧められていた結婚相談所へ登録し、見合いを始めることにした。こちら、料理が好きでぽっちゃりとした小さい女性、父親の遺産で働く必要なし、持ち家はあり、結婚後は専業主婦希望、相手は優しい人であれば誰とでも。
オーブンからは、バターの良い匂いが漂ってくる。鍋の中身を漉して戻し、煮詰めの行程に入ったフォン・ド・ヴォーは、濃度を帯びて、艶めいている。カスレの鍋で、肉は柔らかく繊維がほぐれ、いまは火を止め、味が染みこむのを待っている。あとに残っているのは、削いだ脂肪や臓物の切れ端、腸に、ボウルにぷるんと固まった血液。
美結は炊いた麦粥とそれらを混ぜ、綺麗にした腸へと詰めていく。血はそれだけでしょっぱいのだから、味付けをする必要は無い。端を結び、空気が入らないように慎重に、最後までしっかり詰め終われば、所々でくるりと捻り、ソーセージの形にする。それを茹でる。信じられないくらい赤い血が、加熱によって黒へと変わる。
——おいしい?
刹那、その黒の中から、あのフランス人の目が覗いた気がして、美結の心はざわついた。
母親は男と行ってしまった、その後、帰国するまで一年余りもそこで暮らした、そこでフランス人と、父親と、美結の三人は食卓を囲み、どれほどの料理を食べただろう。肉を噛み、血を食べ、脳味噌や臓物を楽しんで、まるで家族のように暮らしただろう——。
茹で上がったブータン・ノワールを皿に取り、冷めるのを待ってから、ナイフで切る。ああ、この色、この香り。うきうきと、美結はカスレを盛り付け、アンクルートとパテを切り分けて、フォン・ド・ヴォーで作ったソースをかけて、あの特別な日のように、テーブルは料理でいっぱいになる。なぜなら、今日も誕生日、食材となった赤ん坊の誕生日には違いない。
美結は一人、席に着く。やはり、何かが足りないとそう思いながら、それはやはり両親だろうかと訝りながら、食欲に任せ、料理を口に放り込む。柔らかな肉、旨味の詰まったソース、塩と脂と、それから鉄の味、口の中でとろける脳味噌。
無我夢中で飲み込む味は、フランス人の作る豚料理というよりは、ウサギの肉の味に似ていた。人間の赤ん坊にそっくりな、皮を剥いで吊されたウサギ。見た目が似れば、味も似るということなのだろうか。赤ん坊はウサギの味、ウサギは赤ん坊の味、赤ん坊も大人になれば、味も違ってくるのだろうが、ならば大人はどんな味がするのだろう。
——どうして、お前は。
そのとき、言葉にならなかったはずの父親の声が、無意識の想像を補って、不意に美結の耳に届いた。恐れるような、怯えるような、いなくなってしまう直前の、父親の声。
——俺のことを恨んでいるのか。
恨むだなんてとんでもない。一体どうしてそんなことを、今更になって声にするのか、満腹を覚えながら、それでもアンクルートをもう一切れと口に押し込み、美結はうっとり咀嚼する。赤ん坊の肉、赤ん坊の臓物、赤ん坊の血に脂、赤ん坊はどこから来たのか、それが美結の生み出したものならば、いまは美結の中へと戻る途中、再び美結の血となり肉となれば、何も以前と変わらない、何も生まれなかったと同じこと。
そこで美結は手を止めた。何か思いついたというように、肉の断面を、詰め物の中身をじっと見つめる、検分する。そこに美結以外のものが宿っていないか、もしも宿っているのなら、それは見れば分かるものか。混ざり合った遺伝子の、美結のものではない方が。その顔も薄らとしか思い出せない、何度目かのデートで美結をホテルに誘い、ベッドの上に押し倒した、見合い相手を表す何かが。
あっ、あっ——その日、ベッドの中で喘いだのは、美結ではなくて、見合い相手の方だった。日本人にしては毛深い肌を密着させて、あっ、あっ、あっ、そのとき、赤ん坊のイメージが浮かんだ、それから割れたガラスが合わさるように、一つの記憶が再生された、あのフランスの家で聞いた音、何か知らない動物が鳴くような音、ドアの隙間から覗いた毛むくじゃらの背中、あっ、あっ、あっ、音に合わせてベッドが軋む、二匹の獣が揺れて喘ぐ、母親だけが消えた夜に、赤ん坊という実りのない欲望を、何度も何度も互いにぶつける、そんな音の切れ端が。
そして、記憶は朝に繋がる、翌朝、囲む食卓に、男が作ったフランス料理、カスレ、アンクルート、ブータン・ノワール——。
——美結はもうすぐお姉ちゃんになるのよ。
色褪せた時間の中で、母親の声がそう告げる。
——弟かしら、妹かしら、ママも未だ知らないの。
けれど、美結の意識には届かない、耳には決して聞こえない。そのほか、様々な記憶さえ——例えば、フランス行きは二週間、妊婦が飛行機に乗れるぎりぎりの週数、三人家族の最後の旅行、次はきっと四人家族、アメリカ、イギリス、スペイン、ブラジル、それからやっぱり最後はフランス、父親のレストランを巡りながら、世界一周、夢の旅行の計画さえも。
それでだろうか、変わらず美結は一人っ子、母親の腹にいたのは弟だったか、妹だったか分からないまま、代わりに食べたウサギ肉、それより大きな豚の肉、一年かけて食べてしまった、獣二匹と、美結一人。
だから、歌詞を忘れてしまった歌を、メロディーだけでも口ずさむように、美結はナイフを動かし続ける、フォークを使い、咀嚼を楽しむ。セボン、セボン、時折つぶやき、その感覚を確かめながら。
殺してしまったは良いけれど、その後に残った死体をどうするか。
答えは、料理に決まっているのだ、古今東西、往古来今、食べてしまえば何も残らぬ、骨の髄までしゃぶり尽くして、おいしく頂くのが人のすること、毛皮を剥いだその下に、獣の肉は詰まっていても、料理を作り、食べれば人でいられる、きっと美結の父親も、あの日、テーブルに並んだフランス料理、すっかり食べてしまっていれば、未だ人でいられただろう、いまも作り、食べる美結のように、例え母親のようにふくよかな体になったとしても、これまでも、これからも、人間として生きられるに違いないのだ。
殺してはみたけれど 黒澤伊織 @yamanoneko
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