涙
(なんなのこの人!)
聖女を解任されただけでなく恋人だったアルフォンスにも捨てられて自暴自棄になっていたはずなのに、今は飄々とした態度で前を歩くジェミニ侯爵に対して腹が立つ自分の気持ちを持て余している始末。
(大体一緒にタイニアに行くってどういうつもり? まるで意味がわからない)
たとえ灰被りの街の人間であってもタイニアに行こうとは思わない。タイニアとはそういう場所だ。にもかかわらずレガード王に自ら進んで同行を申し出たカイルの気持ちがわからないし、わかりたくもない。
(やっぱり直接聞くしかないか……)
ユアは声をかけるタイミングを見計らいつつ、ジェミニ侯爵にどういうつもりの発言なのか聞くことにした。
「すみません」
「…………」
「あのう……」
「…………」
二度声をかけるもジェミニ侯爵が反応する様子はない。
(まただ。絶対に聞こえているくせに……)
ユアとジェミニ侯爵の距離はたかが数歩。あからさまに無視しているのがわかって腹立たしさが倍増した。
「ジェミニ侯爵! 私の声が聞こえているのはわかっているんだから返事くらいしなさいよ!」
思わず声を荒らげしまうと、ジェミニ侯爵の動きが図ったかのようにピタリと立ち止まった。まさか足を止めるとは思っていなかったのでこちらの足を止めることもできず、結果ジェミニ侯爵の背中に顔を打ち付けてしまった。
「いったぁぁー……」
「なんだ俺を呼んでいたのか。てっきり独り言を呟いているのかと思ったぞ」
鼻をさすりながら目線を上げれば、こちらに向き直ったジェミニ侯爵がにたりと笑んでいた。
「ッ。どういうつもりですか!」
「何がだ?」
「何が? 決まってるじゃないですか。私と一緒にタイニアに行くって言ったことですよ」
「そんなことよりもなぜ王はお前にタイニアの領地を与えたと思う?」
「質問したのはこっちです!」
「いいから答えろ」
いつのまにか笑みは消え、有無を言わせない口調で問うてくる。
ユアの足は自然と後ろに下がっていった。
「それは……私に対する嫌がらせで……」
「本当にそれだけだと思っているのか?」
ジェミニ侯爵の表情は真剣そのものだった。冷たさの中にも全てを見通すような瞳の奥には、かつてのユアが戦場で兵士たちに向けていたものと同様のものが垣間見える。
あれほどジェミニ侯爵に対して腹立たしかった気持ちが、自分の中で急速に薄れていくのがわかった。
「…………」
「沈黙は何よりも雄弁に語る、だな」
タイニアの領地を与えると言われた時点で気づいていた。気づいていたのに認めたくなくて、自分のことなのに他人事のように話を聞いていた。
瘴気が漂う地とはいえ、下賤な身分であるはずのユアに直轄領を与えた理由。
ユアは癒しの力で多くの兵士たちの命を救った。それこそ癒しの力がなければ死ぬのが確定していた命まで。だからこそユアは他国にとって脅威以外の何物でもなく、実際戦争中は刺客に何度も命を狙われた。
その戦争もすでに過去のもの。レガード王とすれば大して使い道のなくなった下賤の輩をいつまでも王宮に置いとくのは不本意だったのだろう。かといって身勝手にそれこそ他国に行かれてしまうのは甚だまずい。
そこでタイニアだ。癒しの力の一貫でユアが毒に対して耐性があることをレガード王は知っている。厄介者を追い払うにはまさに絶好の地で、万が一他国の間者がユアをさらおうとしても、瘴気が漂うタイニアではおいそれと手出しすることもできない。
ユアの力を封じ込めるという一点で、タイニアという地は歴史上初めて有用性を得たのだ。
(サンゼンイン・シズカさんという新しい聖女を迎え入れた以上私は用済み。レガード王はタイニアの地で私が朽ち果てることを最終的には望んでいる。そんなことはわかっているのに……)
いつしかユアの拳は爪が深く食い込むほどに強く握り締められていた。
「──なんであのとき私を一思いに殺してくれなかったの? 上級貴族様に暴言を吐いた以上、斬られても当たり前なのに」
ユアが恨みの籠った眼を向けると、ジェミニ侯爵はおどけるように両手を広げた。
「あいにく俺の剣は女を殺すようには作られていない。なにより聖女をこの手で殺めたらそれこそ末代まで祟られそうだからな」
「なにそれ。それじゃあ一生懸命手討ちにされようと頑張ってた私が馬鹿みたいじゃない」
ユアは力なく笑った。
「──無理矢理王城に連れてこられてレガード王に癒しの力をもって一人でも多くの兵士たちを救ってほしいと頼まれたとき、私の生きる道はもっといえば私の生まれてきた理由はこれだと思った。でも戦争は私が考えていたよりもずっとずっと過酷で凄惨だった。今日救ったはずの命が明日にはあっけなく消えてしまうのが当たり前で、それでも私は一人でも多くの兵を助けるために癒しの力を使い続けた。それが今の私が為すべきことだと信じて疑わなかったから。でも救えない命があまりにも多すぎて毎日毎日吐き気を催すほどの無力感に押し潰されそうになっても、手の施しようがなくてそれでも死にたくないって泣きながら私の手を必死で握る兵士を前にしても私は聖女だって、弱音を吐くことも挫けることも泣くことさえも絶対許されないって。だからっ! だから私はッ!!」
突然強い力に体を引かれ、気づけばジェミニ侯爵の胸の中にユアはいた。
「なに……を……?」
「お前は馬鹿だ。弱音を吐いも挫けてもいい。泣きたいときは泣けばいい。他人が押し付けたつまらない肩書に囚われる必要がどこにある。お前はありのままのお前でいいんだ」
キングスレイヤーと畏怖される男の口から出たものとは思えないほど慈愛に満ちた温かい声が、石のように固くなっていたユアの琴線に優しく触れる。
厚い胸板の奥から聞こえてくる力強い鼓動が、今のユアには不思議と心地よく感じられた。
「今までよく頑張った。それと礼を言うのが大分遅くなったが俺の弟の命を救ってくれたこと、心から感謝する」
返す言葉は出てこない。
代わりに瞳からとめどなく流れ落ちる大粒の涙が、ジェミニ侯爵の胸をいつまでも濡らし続けた。
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