異界人②

 程なくして背後から聞こえてきたのは、一定のリズムに刻まれた足音と幻想的な音を奏でる鈴の音色。

 音は平伏するユアの横を通り過ぎると壇上の前で鳴り止み、そして──。


(え!?)


 明らかに壇上を上がっている足音にユアは驚きを隠せなかった。

 壇上に上がることが許されているのは、ブリュンガルデ王国を統べる王自身と近衛兵の一部のみ。王宮で働く者であれば誰もが知っていることだ。

 その制限をいとも容易く越えた音の主は、レガード王にとって特別な存在だということを暗に知らしめるものだった。

 

 ユアが顔を上げるよう宰相から命じられたのはそれから間もなくのことだった。


「こちらがブリュンガルデ王国の新たなる聖女だ」


 新たな聖女という異界人の容姿は、切れ長の目と長いまつ毛で聡明そうな印象を受けた。古文書の記録にあった通りの黒い瞳で、黒い髪は腰のところまで伸びている。


 なによりユアの目を引いたのは異界人が身に着けている衣装だった。壺のような形をしたスカートを履いていて、赤一色に染まっている。上半身も白に白を重ねた独特な仕立ての装束で、左右の袖を覆う布地が膝の付近まで垂れ下がっている。

 作りこそ聖衣とは全く異なるが、聖衣と同じく神聖な衣服であることをユアは確信した。


「灰被りの聖女ユアさん、お初にお目にかかります。ただいま偉大なるレガード王のご紹介に与りましたサンゼンイン三千院シズカと申します」


 サンゼンイン・シズカと名乗った異界人は両手をお腹の前で重ねると、サラサラと音が聞こえてきそうな輝く黒髪を頬に滑らせながらゆっくり頭を下げた。


 見たこともないその仕草は異界人の挨拶であることは想像つくが、これほど綺麗な挨拶をユアは見たことがない。


 顔を上げたサンゼンイン・シズカは、春の陽だまりのような柔らかい笑みをユアに向けてきた。


(ただ笑んでいるだけなのに……)


 この世界の住人とは全く違う美しさと気品を併せ持つサンゼンイン・シズカに、ユアはただただ圧倒されてしまった。


「シズカ殿は八百万もの神が住まう古い歴史を持つ国から来た。それだけではなくシズカ殿の家は1500年の長きに渡り神に仕えている由緒正しく格式高い家柄だそうだ。聖女の名を継ぐのにこれほど素晴らしい者がほかにいるだろうか」


 レガード王が高らかに告げると、謁見の間内から割れんばかりの拍手が巻き起こった。

 その様子を機嫌よく眺めるレガード王は、拍手が鳴りやむタイミングで宰相の名を呼ぶ。宰相は壁際に控える近衛兵に向けて顎をしゃくった。


 近衛兵たちは六人がかりで厚い布に覆われた大きな箱らしきものを中央に置く。すぐに近衛兵の一人が布を勢いよく引くと、目に飛び込んできたのは鉄格子の中で横たわる血に濡れたサーベルフォックスの姿だった。

 

「見てわかる通りこのサーベルフォックスは今や瀕死の状態。放っておけば間もなく死ぬだろう」


 レガード王の言葉に嘘偽りがないことは、死が日常だった戦場を生き抜いてきたユアにはわかり過ぎるくらいにわかる。


 ユアが視線を異界人に戻すのとレガード王の口が再び開かれたのはほぼ同時だった。


「シズカ殿、真なる聖女の御業みわざをここにいる者たちにも見せてやってくれ」


 頷き壇上をゆっくり降りていくサンゼンイン・シズカ。やがて鉄格子の右隣に立ったサンゼンイン・シズカは優雅な所作で片膝を落とす。

 格子の隙間に腕を差し入れると、浅い呼吸を繰り返しているサーベルフォックスの額に透けるような白い手を当てがった。


 少しの間を置いて、サンゼンイン・シズカの左手から黄金の光がほとばしる。ユアはあまりの眩しさに直視することができなかった。


「──終わりました」


 サンゼンイン・シズカが立ち上がるのと呼応して、サーベルフォックスの両目が二度三度と重く開かれる。その後緩慢な動きで立ち上がったサーベルフォックスは、固唾を飲んで見守っている者たちを威嚇するように低い唸り声を上げると、名前の由来となった長く鋭い二本の牙を格子に叩きつけた。


(これは私と一緒の癒しの力!?……ううん、同じなんかじゃない。私なんかよりも遥かに強力な癒しの力をサンゼンイン・シズカさんは持っている)


 力が衰えている今は言うに及ばず、たとえ戦場を駆け巡っていた頃のユアであっても、瀕死状態のサーベルフォックスを癒すには相当な時間を要するだろうことは想像に難くない。

 それを彼女は一瞬で癒してしまったのだ。


「瀕死のサーベルフォックスがまるで何事もなかったかのように……」


「素晴らしい! これこそが真の癒しの力だ!」


 サンゼンイン・シズカが再び頭を下げると、先程を上回る拍手と喝采が謁見の間内を席巻していく。

 鳴り止まない拍手を軽く手を上げることで沈めたレガード王は、ユアに色のない視線を戻して言う。


「灰被りの元聖女ユアにはこれまでの多大な功績を鑑み、ブリュンガルデ王国の直轄領たるタイニアを領地として与える。そこで静かに余生を過ごすのがよかろう」


 レガード王の言葉に続く形で宰相が口を開く。


「慈悲に溢れた王の言葉にこのベルナーゼ・ドルフ、感動のほかございません。──灰被りの元聖女ユア、偉大なるレガード王に感謝の言葉を述べることを特別に許可する」


 感謝なんかしたくない。

 感謝するようなことなんて何一つない。


 それでもユアにはこう言うよりほか仕方がなかった。


「ありがとうございます。偉大なるレガード王のお慈悲にユアは感謝の言葉しかございません……」


 ユアが小さく拳を固めながら言えば、レガード王は鷹揚に頷く。

 時を経ずして失笑の声が次々と上がった。


 レガード王がユアに下賜かしするというタイニアは瘴気が漂う地として知られている。直轄領といえば聞こえはいいが、領民がいるわけでもなく草木もまともに生えない。どこまでいっても荒涼とした風景が広がる不毛の地だ。


(どんなに身を粉にして国に尽くしても、結局彼らにとって私はどこまでいっても灰が降り積もる街出身の下賤げせんな女。決して相容れることのない存在だということがよくわかった。それでも私にはあの人がいる)


 ユアはすがる思いで恋人のアルフォンスをひたと見つめる。アルフォンスはユアが灰被りの街の孤児であることを知っても関係なく愛してくれた。


 だが、ここで思いもよらない光景がユアを襲う。

 アルフォンスはユアの視線に気づくとまるで逃げるように顔を逸らしたのだ。


(どうして……⁉)


 人目を忍んで何度も愛の言葉を交わした。

 人目を忍んで何度も口づけを交わした。

 たとえどんなことがあろうとも、アルフォンスだけは自分の味方であると信じていた。


 激しく動揺するユアにレガード王は一両日中に王宮から出ていくよう告げてくる。それだけでは終わらず、さらにレガード王は驚愕の言葉を口にした。


「かねてから申し伝えていた通り、アルフォンス卿にはシズカ殿の護衛を命じる」


「ははっ! 喜んでその大任をお受けいたします!」


 一切の淀みなく命令を受諾するアルフォンス。

 混乱を極めるユアを嘲笑うかのように、サンゼンイン・シズカはアルフォンスの前に歩を進めた。


「アルフォンス様、この世界に私は未だ不慣れです。これから色々と教えてくださいね」


「お任せください。このアルフォンス・レイズナー、これよりは命を賭してサンゼンイン・シズカ様をお守りいたします」


 シズカの手に口づけするアルフォンスを見て、ユアは自分の中で何かが砕ける音をはっきりと聞いた。


「灰被りの元聖女ユアよ。用件はこれにて終わりだ。この場から早々に立ち去るがよい」


(もうどうでもいい。もうどうでも……)


 ノロノロと立ち上がったユアは黒い視線と笑みを一身に浴びながら出口に向かって歩いていく。

 そんな彼女の足を止めさせたのは、謁見の間を切り裂くような鋭い声だった。

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