仇を愛した女
亜逸
リゲル
王国では、〝ベリアル〟という名のドラッグが横行していた。
瘴気に満ちた土地でしか取れない植物を調合し、造られた白銀の粉は、一舐めするだけで天にも昇るほどの多幸感をもたらした。
しかし、ドラッグゆえに当然副作用があり、一定量を超えた〝ベリアル〟を服用した人間は、他者に対して異常なまでに攻撃的になり、やがては文字どおりの意味で人でなくなる。
〝ベリアル〟を服用し続けた人間は、
その現象は
今、リゲルの眼下で起きている状況と同じように。
「やめてぇえぇッ!! 誰か助けてぇえぇッ!!」
崖下に見える村から、女性の悲鳴がこだまする。
元は男なのか女なのか、かつては村人だった悪魔に襲われているのだ。
悪魔化した村人は女性を襲っている一体だけではなく、村のそこかしこで、かつては家族だった者を、友人だった者を、恋人だった者を、貪り殺していた。
「いつ見ても、ひどい光景だな」
聖職者の平服――カソックに身を包むリゲルは、深々と嘆息する。
その傍にいた、見るからに堅気には見えない男が楽しげに「くっくっくっ」と喉を鳴らした。
「そのひどい光景をつくり出した張本人のくせに、よくそんなことが言えやすね。リゲルの旦那」
男の指摘に、リゲルは何の反論もしなかった。
なぜなら、事実だから。
リゲルはイザークという偽名を使い、巡回牧師を装って村を訪れ、御利益があるだの何だのと偽って村に〝ベリアル〟を流行らせ、この惨状をつくり上げた。
聖職者失格どころか、人として失格と言っても過言ではない所業。
そんなことをしている時点で、リゲルが見た目どおりの聖職者ではないことは言に及ばない。
リゲルは聖職者に扮している裏社会の組織に属する人間だった。
そして、この地に別荘を建てたいと
もっとも、外道であることに疲れている節があるところを見るに、〝根っからの〟というわけではないのかもしれないが。
「旦那の気分はともかく、悪魔になった人間はその力を保つためにバカみたいに生命力を吸い取られるから、大抵の場合は半日かそこらで燃え尽きやす。それまでは巻き込まれないよう、ぼちぼち村から離れた方がいいと思いやすが」
聖職者に扮しているだけあって、リゲルは治癒魔法や、悪魔にも効果がある浄化魔法を扱うことができる。
とはいえ、あの数の悪魔をどうにかできるほどの腕前ではないので、男の言葉に素直に従うことにした。
そうして、村は滅んだ。
悪魔化した者も、しなかった者も等しく死滅した。
少なくとも、リゲルはそう思っていた。
リゲルも、組織の人間も、気づいていなかった。
村人の中でたった一人、この地獄から逃げおおせた人間がいることに……。
◇ ◇ ◇
それから三年の月日が流れ、リゲルは裏社会から足を洗った――と言えば聞こえはいいが、リゲルがたまたま遠出していた時に所属していた組織が潰滅したため、裏社会における拠り所がなくなっただけの話だった。
汚い仕事ばかりをしていたおかげで報酬をたんまりともらっていた上に、仕事用の〝ベリアル〟もそれなりの量を保管しているため、その気になれば一生遊んで暮らせる程度には金に困っていなかった。
その金を使い、閑静な町の外れに建てられた、一人で暮らすには少々広めの家を買い、酒を呑むか娼館で女を抱くかの自堕落な生活を送るようになった。
そんな生活が二年ほど続いた頃だった。
リゲルが〝彼女〟と出会ったのは。
今日も今日とて馴染みの娼館を訪れたリゲルを、館主は満面の笑顔で歓待する。
「新しく入った娘が、これまたお客さん好みでねぇ。是非とも味わってほしいんですよ」
今やすっかり常連になってしまったせいか、館主はリゲルの性的嗜好を把握しきっている。
そういった意味では、リゲルも館主のことを信頼していたので、
「ああ。頼む」
と、二つ返事をかえした。
そうして案内された部屋に、〝彼女〟がいた。
透き通るような銀髪に、憂いを帯びた碧い瞳。
顔立ちがやや幼いことが気になるが、掛け値なしの美貌の前では些末な問題にすぎない。
扇情的なドレスから曝け出された胸元は見事な肉付きで、なるほど館主の言うとおり、俺好みの女だとリゲルは思う。
「お待ちしておりました、リゲル様。私はマリアと――きゃっ!?」
有無を言わさず、ベッドの上に押し倒す。
事を急ぐのは、マリアと名乗った娼婦に欲情したからでも、早く肉欲に溺れたいからというわけでもなかった。
リゲルは裏社会から足を洗ってなお、心に虚無を抱えていた。
欲情している
だから今日も、好みを女を抱くことで、虚無をごまか――
「おかわいそうに……」
ベッドの上で仰向けになっていたマリアが、こちらに向かって手を伸ばしてくる。
そして、慈しむように、リゲルの頬を優しく撫でた。
「
つい今し方会ったばかりの女に
「……なぜ、そう思う?」
絞り出すような声で問うと、マリアは聖母を思わせるほどに優しい笑みを浮かべてから答えた。
「なぜも何も、貴方様の顔にはっきりと書かれているじゃありませんか」
口ごもる。
内心の虚無について隠しているつもりはなかったが、だからといって誰かに悟られるとも思っていなかった。
事実、目の前にいる娼婦を除き、指摘されたことは一度もなかった。
「……興が削がれた」
マリアを押し倒していた体勢をやめ、ベッドに腰を下ろす。
「でしょうね。貴方様が求めているのは心の充足。肉体的な快楽ではありませんもの」
先程から彼女が口にする言葉は、リゲルの心に土足で踏み入るようなものばかり。
なのに、不思議と悪い気がしなかった。心地良いくらいだった。
あるいは、そうされることを求めて、自分は娼館に通い詰めていたのかもしれないと思えるほどに。
「……なぜ、君のような女が
「家族も、頼れる人間もいないから、体を売る以外に生きる道がなかった……よくある話ですよ」
聖母のような笑みに、自嘲めいた陰が落ちる。
それを目の当たりにした瞬間、心が痛みにも似た疼きを発したことに、リゲルは内心驚く。
虚無に満たされていた心に、感情らしい感情が宿った――そんな痛みだった。
結局その日、リゲルはマリアを抱くことはなかった。
だが、今まで何度女を抱いても満足という感情を抱かなかった心が、その日初めて満たされた。
以降、リゲルは娼館を訪れる度にマリアを指名するようになった。
その度に、体の代わりに言葉を重ねた。
彼女が口を開くと、常にリゲルが求めていた
他愛ない話をしているだけで、心を満たしていた虚無が消え失せていった。
代わりに心を満たしたのは、暖かい何か――ではなかった。
リゲルの心を満たしたのは、罪悪感だった。
裏社会から足を洗うまで、リゲルは非道の限りを尽くしてきた。
気乗りしなかったことは事実だが、さりとて非道をやめようとはしなかったこともまた事実。
そんな話、マリアに聞かせられるわけがなかった。
だから、どうしても、罪悪感を抱かずにはいられなかった。
自分を偽ってマリアと接していることに。
これまで自分が行なってきた非道の数々に。
そうして、陰も陽も関係なく心が満ちる日々が、三ヶ月ほど続いた頃のことだった。
町で日用品の買い出しをしていた時に、同じように買い出しに来ていたマリアと偶然出会ったのは。
娼館で着ている華美で扇情的なドレスとは違い、今着ているものは粗末な
「リ、リゲル様……あまりジロジロ見ないでください。さすがに、ちょっと恥ずかしいので……」
彼女の羞恥を感じるポイントがズレているのか、それとも娼館でのリゲルの視線がそんなにも素っ気なかったのか、珍しくもマリアは頬を赤らめながらも照れたように笑った。
そのせいでますます目が離せなくなったが、さすがに彼女が嫌がりそうだったので、意志の力で無理矢理視線を引き剥がした。
「すまない。普段と違う格好をしているが、その……珍しくてな」
「いつもは、もっと恥ずかしい格好で会ってますものね」
微妙に赤い顔をごまかすように笑いながら、少々ズレた返事をかえしてくる。
「……
「はい。恥ずかしいと思っていたら仕事になりませ――」
唐突に、彼女の笑顔が
直後、
「リゲル様っ!!」
逼迫した声を上げる彼女の視線が、こちらの後方に向けられていることに気づいたリゲルはすぐさま身を翻す。が、その時にはもう何もかもが遅すぎた。
「クスリをよこせぇえぇえええぇええぇええッ!!」
いやに血走った目をした男が、握り締めたナイフを突き出しながらリゲルの眼前まで迫っていた。
よけきれない――と覚悟を決めたその時、リゲルと男の間にマリアが割って入ってきたことに瞠目する。
リゲルが身を翻した際、彼女もまた二人の間に割って入るために動き出していたのだ。
「マリアッ!!」
悲鳴じみた声で名前を叫ぶのと、男の凶刃がマリアの脇腹を貫いたのは、全く同時のことだった。
「クソ……!」
裏社会から足を洗って五年。
危機対応力が致命的なまでに
ほとんど同時に、一部の勇敢な町人が数人がかりで男を取り押さえる。
男は地面に這いつくばらされながらも、リゲルに向かって叫び散らした。
「なぁ、あんたッ!! クスリ持ってんだろッ!? その女に売ろうとしてたんだろッ!? だったら俺にくれよッ!! さっさとくれよぉぉおぉおおぉぉッ!!」
クスリという言葉に、あまりにも心当たりがありすぎたリゲルは、一瞬たじろぎそうになる。
しかし、ここで否定しなければ、いつの間にやら遠巻きに事態を見守っていた野次馬どもに、いらぬ話題をくれてやるハメになるので、
「ヤク中がッ!! そんな勘違いでマリアを刺しやがってッ!! 後でクスリの代わりに俺の拳をたらふくくれてやるから覚悟しとけッ!!」
激昂している風を装いながらも、しれっと男の勘違いであることを野次馬どもに刷り込んだ。
そしてすぐに、マリアのもとに駆け寄った。
「リ、リゲル様……お怪我は……」
「喋るな。今、治癒魔法をかける」
言いながらも腰を落とし、血で真っ赤に染まった彼女の脇腹に掌をかざし、治癒魔法を施す。
「治癒魔法……使えるなんて……すごいですね……」
「だから喋るな。……牧師をしていた時期があってな。その時に修得しただけの話だ」
応じながらも、必死になってマリアに治癒魔法を施す。
こんなにも必死になったことは、裏社会にいた頃も、足を洗った後も、なかったような気がすると頭の片隅で思いながら。
◇ ◇ ◇
必死に治癒魔法を施した甲斐もあって、マリアは一命を取り留めた。
男は衛兵によって捕らえられたが、その男の発言のせいでリゲルはクスリの売人である嫌疑をかけられた。
しかし、リゲルとマリアを調べてもクスリらしいクスリが出てこなかった上に、リゲルの馴染みであり、マリアの働き口であり、薬物売買の温床になりがちな娼館からクスリのクの字も出てこなかったことから、嫌疑はすぐに晴れた。
家に帰れば、床下にかなりの量の〝ベリアル〟が保管されている手前、家を調べるという流れにならなかったことには、正直心の底から安堵した。
そして――
マリアが入院している病室を訪れたリゲルは、あらためて彼女に礼と謝罪をする。
「危ないところを助けてくれてありがとう。それから……すまない。俺を庇ったせいでこんなことに……」
「そ、そんな! お顔を上げてください、リゲルさま!」
ベッドの上で上体を起こしていたマリアが、あたふたと懇願してくる。
この程度の礼と謝罪で終わらせるのは本意ではないが、彼女を困らせるのはもっと本意ではないので、言われたとおりに頭を上げて礼も謝罪も切り上げた。
「しかし、どうしてあんな無茶な真似を? 下手をしたら、君は死んでいたかもしれないんだぞ」
「どうしてって言われましても、咄嗟に体が動いたとしか。それにリゲル様は……こんなことをお客様に言うのは失礼かもしれませんが、ほっとけないというか、目が離せないというか……」
言っている内に恥ずかしくなってきたのか、彼女の頬に朱が差し込み始める。
(大抵の男なら、ここで勘違いしているところだろうな)
と、心の中で独りごちることで、リゲルは勘違いしそうになる心を押さえつける。
相手は、男を惚れさせる手練手管に長けた娼婦。
勘違いしたが最後、骨の髄までしゃぶり尽くされるハメになる――と、自分に言い聞かせる。
自分でも驚くほどの労を要して。
マリア自身、先程の言葉はなかったことにしたいのか、パタパタと両手で火照った顔を扇いでから、露骨に話題を切り替えてくる。
「それはそうと、私、明後日にはもう退院できるみたいなんですよ」
思いのほか早い退院に、リゲルは片眉を上げた。
「あれほどの重傷だったのに、随分早いじゃないか」
「リゲル様の治癒魔法のおかげですね」
笑顔で直球でそんなことを言われ、照れくさくなったリゲルは思わず視線を逸らし、こんなことを口走ってしまう。
「客としては、お気に入りの娘の復帰が早まった方が嬉しいからな」
途端、マリアの表情が曇るのを見て、リゲルは眉をひそめた。
「どうした?」
「いえ……これは別に、リゲル様が悪いという話ではないのですが……」
そう断ってから、マリアは上衣の裾を捲り上げる。
露わになった脇腹には、痛々しい刺し傷の痕が残っていた。
「このお腹では、まず間違いなく娼館では働かさせてもらえないと思います……」
知らず、リゲルの表情が悲痛に歪む。
治癒魔法は、あくまでも人間が生まれつき有している自己治癒力を高めるもの。
それゆえか、今のマリアのように、重い傷を治癒した際は傷痕が残ることもそう珍しい話ではなかった。
「娼館をやめることになった場合は、どうするつもりだ?」
「個人で、娼婦をやるしかありませんね」
「後ろ盾もなしに娼婦を続けるのは危険だ。抱くだけ抱いて金を踏み倒すようなクズ客をとってしまったら、目も当てられないぞ」
「ですが……私はこの生き方しか知りませんから……」
全てを諦めたように、マリアは言う。
娼婦である以上、リゲルが指摘するまでもなく危険は承知しているはず。
それでもなお、後ろ盾がなくなっても娼婦を続けるのは、まさしく彼女が今言ったとおり、そんな生き方しか知らないせいに他ならない。
そんな彼女のことが見ていられなかったせいか。
それとも、自分を庇ったせいでこんなことになってしまった罪悪感からか。
気がつけば、こんな言葉をかけていた。
「なら、
「……え?」
言っている言葉の意味が理解できなかったのか、マリアは呆けた声を漏らす。
言った当人も思考を介することなく出てきた言葉だったせいか、彼女と同じように「え?」と漏らしかけるも、喉元から出る直前でかろうじて飲み込んだ。
「リ、リゲル様……今のはどういう意味……ですか……?」
確かめるように、恐る恐る訊ねてくる。
おいそれと撤回できるような言葉ではない以上、覚悟を決めたリゲルは、よりわかりやすい言葉で言い切った。
「君のことを身請けする……そう言っているのだ」
マリアは感極まったように、両手で口元を覆う。
その反応を見て、「君さえよければだが」と続けようとしていた口を噤む。
ここまでわかりやすく感激してもらえたことを、
「いいのですか? 私で?」
再び、確かめるように、恐る恐る訊ねてくるマリアに、決然と首肯を返す。
「君だから、だよ」
マリアが、心底嬉しそうな笑みを浮かべる。
目尻からは
そんな彼女の反応が、どうしようもないほどにリゲルの心を満たしていく。
最早
(あるいは、こういう感情を〝幸せ〟と呼ぶのかもしれないな)
内心の言葉どおりに〝幸せ〟を感じているのか、知らず知らずの内に、リゲルの頬にも笑みが浮かんでいた。
後日、リゲルは娼館の主とマリアを身請けする件について話し合った。
相場よりも多めの金額を提示したため、館主は二つ返事で了承してくれた。
そうして、二人は夫婦になった。
◇ ◇ ◇
朝、窓から差し込んでくる日の光を受け、リゲルは目を覚ます。
いつもどおり起き上がろうとして、ふと気づく。
同じベッドに、自分以外の人間――マリアが入っていることに。
いまだ夢の中にいるマリアの髪を、愛おしげに撫でる。
もっとも、リゲルはリゲルで今の状況そのものが、夢の中にいるような心地だった。
しかし――
やはり、どうしても、今まで散々非道の限りを尽くしてきた自分が、こんな夢のような生活を送っていていいのかと、思ってしまう。
それだけではない。
今リゲルとマリアが寝ているベッド下の床板を外し、少し地面を掘れば、文字どおりの意味で悪魔のクスリ――〝ベリアル〟を詰め込んだ木箱を確認することができる。
クスリの売人の嫌疑をかけられた手前、すぐにでも処分したいところだが、嫌疑をかけられたからこそ、今は下手な動きを見せるわけにはいかない。
しくじれば最後、晴れたはずの嫌疑を再びかけられるのは避けられない。
ほとぼりが冷めてから、マリアに内緒で処分する――それがベストだろう。
「ん……」
そうこうしている内に、マリアが目を覚ます。
数瞬ボンヤリとした後、弾かれたように起き上がる。
「そ、そうでした! 昨日から私はリゲル様の家に――す、すぐに朝ごはんの用意をしますね!」
服を着て、バタバタと部屋から出ていく。
唐突に騒がしくなった朝に苦笑しながらも、リゲルは思う。
こういうのも、悪くはないな――と。
ややあって、朝食が出来上がり、リゲルはマリアと一緒に食卓を囲う。
卓上には、昨日のうちに買っていたパンと、キノコのスープが並んでいた。
「すみません。急いで作ったから、こんなものしか……」
「気にすることはない。もともと朝食は、適当に済ませることがほとんどだったからな。普段よりも豪勢なくらいだ」
「それならいいのですが……」
どこまでも申し訳なさそうにしているマリアに、リゲルは再び苦笑する。
思えば、初めて会った時は、虚無に満ちていた心を言い当てられた手前、彼女に対して神秘性すら感じていた。
けれど、こうして一つ屋根の下で暮らし始めた途端に、神秘性の欠片もなくなっているところを見るに、今の状態こそが彼女の素なのかもしれないとリゲルは思う。
「ところで、そろそろいただいてもいいか?」
「あ、はい。どうぞ」
許しを得たところで、早速スプーンを手に取り、キノコのスープを口に運んだ。
直後、口から「ほう」と感心の吐息が漏れた。
「旨いじゃないか。町のレストランでも、このレベルのスープはなかなか出てこないぞ」
「そ、そうですか?」
照れているのか、マリアは少しだけ火照った頬をごまかすように、スプーンでスープを啜り始める。
そんな彼女と、ただ一緒に食事をしているだけなのに、心の中が〝幸せ〟で満たされていく。
心を満たした〝幸せ〟が、これまで行なってきた非道に対する罪悪感を薄れさせていく。
〝幸せ〟は、彼女とともに過ごす日々が続けば続くほどに、大きくなっていった。
そしてそれは、彼女も同じだったらしく、
「ふふ……」
嬉しげに楽しげに、家の軒先に洗濯物を干すマリアの手伝いをしていたリゲルは、知らず笑みを漏らしながらも訊ねた。
「楽しそうだな? マリア」
「リゲル様こそ」
「……あぁ……その呼び方なんだが、そろそろやめてくれないか? 大切な伴侶に『様』付けで呼ばれるのは、さすがに落ち着かない」
〝大切な伴侶〟という言葉のせいか、マリアの顔が瞬く間に真っ赤になる。
「そ、そうですね。さすがにいつまでも『様』付けは他人行儀ですよね」
と、赤くなった顔をごまかすように早口で言ってから、おずおずと名前を呼んだ。
「リゲル…………さん」
耐えきれないとばかりに付いた『さん』に、リゲルは思わず噴き出してしまう。
「わ、笑わなくたっていいじゃないですかぁ!」
ふくれっ面で抗議してはいるものの、マリアもどこか楽しげだった。
〝幸せ〟な日々は続いた。
続けば続くほどに、マリアの存在はリゲルにとって〝大切な伴侶〟という言葉以上に大切な存在になっていった。
しかし、だからこそ、ベッドの床下に隠している〝ベリアル〟の存在が、リゲルの心に棘で刺されるような痛みをもたらした。
自分が行なってきた非道への罪悪感は薄れても、〝ベリアル〟という懸念だけは、抜けなくなった棘のように刺さり続けていた。
そして、マリアとともに暮らすようになってから半年が過ぎた頃。
リゲルはついに、〝ベリアル〟を処分する決心を固める。
マリアが夕飯の買い出しに家を出たのを確認してから、ベッドを動かし、床板を外して、地面に埋められた木箱を取り出す。
念のため中身を確認しようと思い、木箱の蓋を開けたリゲルは、思わず瞠目してしまう。
減っているのだ。
木箱に詰め込んでいた、〝ベリアル〟を包装した袋の数が、目に見えて減っているのだ。
裏社会に身を置いていたせいか、その瞬間、考えてはいけない発想が脳裏をよぎってしまう。
マリアが幸せそうにしているのは、もしかしたら〝ベリアル〟を服用しているせいなのではないのか――と。
今買い出しに出ているマリアのように、リゲルも何かしらの用事で長時間家を空けることは少なくない。
その間に、隠れて〝ベリアル〟を服用することもできなくはない――と。
そんな、彼女への侮辱に等しい考えが一瞬でも脳裏をかすめたことを恥じるように、何度も何度もかぶりを振る。
結局その日は、〝ベリアル〟の袋の数を確認するだけに留め、処分は保留にした。
木箱に付いていた土埃を払い、きっちりと掃除してから床板を閉め、ベッドを元の位置に戻す。
今度は、ベッドの足の位置や、床板のズレなど、細部に至るまでしっかり記憶に留めながら。
(万が一――いや億が一、マリアが〝ベリアル〟を服用していた場合、あれだけの量が減っているとなると、副作用が出るほどにまで中毒症状が進んでいる恐れがある。そして、副作用が出た時点で、悪魔化する未来は避けられない。だが……)
確率としては、マリアが〝ベリアル〟を服用している可能性の方が余程低い。はず。
少し様子を見て、後日木箱の中にある〝ベリアル〟の数が減っていないことを確認してからでも遅くはない。はず。
心の奥底で、愛する女性のことを信じ切れていない自分に嫌悪する。
結局のところ自分は、骨の髄まで裏社会の人間だったのかと絶望的な気分になる。
(……マリアの身の潔白を確認するためだ)
そんな言い訳が自然と出てくる自分に、心底嫌気が差す思いだった。
そうしてリゲルは内心の疑心と焦燥を隠し、表面上は今までどおりにマリアと幸せな日々を送った。
しかし、半月後。
再びマリアが買い出しに行ったタイミングで〝ベリアル〟の数を確認したリゲルは、最悪の現実と直面することとなる。
「減っている……」
ベッドの足の位置も、床板のズレも、何事もなかったと断言したくなるほどに変わりはないのに、木箱の中にある〝ベリアル〟の数だけが減っていた。
最早、疑う余地はなかった。
どうして〝ベリアル〟の隠し場所に気づけたのかはわからないが、
マリアは、俺に隠れて〝ベリアル〟を服用している!
確たる証拠など求めずに、先日の時点で〝ベリアル〟を処分すべきだったと後悔しながらも、地面に埋まっている木箱を掘り返す。
その
「リゲルさん」
背後から、感情が失せたマリアの声が聞こえてきて、思わずビクリと震え上がる。
恐る恐る振り返ると、寝室の入口で立ち尽くしている、表情が失せたマリアの姿がそこにあった。
「それ、どうするつもりですか?」
半ばまで掘り返された木箱を指差しながら、マリアは訊ねる。
喉が一干上がり、心胆が凍りついたリゲルは、返事をかえすことができなかった。
「まさか、捨てようとしているのですか?」
かろうじて……本当にかろうじて、あるかなきかの、ひどく曖昧な首肯を返した――直後だった。
「どうしてそんなことをするんですかッ!!」
初めて聞く怒号がリゲルの心身を束の間、硬直させる。
その隙にマリアはリゲルを押し倒し、両手を首に回すと、力の限りに締め上げ始めた。
「よ……せ……マ……リア……」
「よせ? よすのは貴方の方ですっ!! どうして私から〝それ〟を取り上げようとするんですかっ!? リゲルさんは私のことを愛してないんですかっ!?」
制止を求めて、怒号によってかき消される。
怒り狂った形相には、普段の彼女の面影すら残っていなかった。
(まさか……俺の半端な判断せいで、副作用が出るほどにまで中毒症状が進行してしまったとでもいうのか!?)
他者に対して異常なまでに攻撃的になる――この症状が出てしまったらもう、
(悪魔になる? マリアが?)
それだけは……それだけは耐えられなかった。
だからリゲルは覚悟を決めた。
愛する
「すま……ない……!」
マリアの両手を掴むと、腕力差に物を言わせて引き剥がし、強引に突き飛ばした。
「……っ!?」
マリアが、突き飛ばした先にあった戸棚に背中からぶつかる。
その衝撃で戸棚が開き、中に入っていた予備の羽根ペンとペーパーナイフがボロボロと落ちてくる。
まずい――と思った時にはもう、マリアは予想に違うことなく、ペーパーナイフを掴み取っていた。
リゲルはすぐさまベッド脇の机に手を伸ばし、常備のペーパーナイフを掴み取る。
マリアが、ペーパーナイフを両手で握り締め、突貫してくる。
切っ先は、寸分も違うことなくリゲルの心臓に向けられていた。
事ここに至って、裏社会で生きてきた体が半ば反射的に動き、突進の刺突を半身になってかわす。と同時に、手にしたペーパーナイフで、
「かは……っ」
血を吐き、倒れようとするマリアを抱き止める。
完全なる致命傷。
ゆえに、治癒魔法を施したところで助かる見込みはなく、だからこそ、自然と、謝罪の言葉が口から漏れた。
「すまない……」
「いいのですよ……リゲルさん……」
死を間際に正気を取り戻したのか、マリアは聖母のような笑みを浮かべながら、こちらに手を伸ばしてくる。
そして、紡いだ。
話の流れを無視した、決定的すぎるほどに決定的な言葉を。
「私……クスリなんて……やっていませんもの……」
「……は?」
ひどく間の抜けた声が漏れる。
そんなリゲルを嘲笑うように、マリアは続ける。
「リゲルさん……貴方は……私が本当にクスリをやっているのかを……確かめもせずに……私を殺した……。本当は……クスリなんて……一舐めもしたことがないのに……」
言っている言葉の意味がわからなかった。
わかったとしても、マリアがやっていること意味がわからなかった。
「私は……貴方のことを……愛している……なのに……殺した……ねぇ……今どんな気分ですか……? 聞かせてくださいよ……? ねぇ……?」
本当に、意味がわからなかった。
マリアは俺のことを愛している?
なのに、どうして俺に刺されるような真似をした?
そもそも俺はどうなんだ?
俺は心の底からマリアを愛していたのか?
愛していないから、こんなにも簡単に彼女を殺すことができたんじゃないのか?
じゃあ、虚無の代わりに俺の心を満たしていたものはなんだったんだ?
虚無よりも
わからない。
わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからな――……
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