第4章 空海の大蛇封じと、裏高野の七口結界
裏高野
なんだか久しぶり、というよりはきっぱりとまだ2回目だ。「bar 暦」のカウンター席に着くのは。
なので白いシャツにネクタイ、そしてウエストコートというバーテンダー姿のユラさんを見るのも、これが2回目。
まったくあたり前のことなのだけど、初めて彼女に会ったときのこの衣装への印象がすごく強くて、なんともいえない感慨のようなものを感じてしまう。
「あかり先生、なに飲まはる?」
「うーん、何かさっぱりしたのがいいです」
「ほいたらモスコ・ミュール…のバリエは?」
「お願いします!」
長身に長い黒髪をきりりと束ねたユラさんが、くるくるとお酒を調えてくれる。
ハンサムな顔にほのかな笑みを浮かべていて、すごく楽しそうだ。
「どうぞ。モスコ・ミュールのバリエーション、"キイ・ミュール"です」
"モスクワのラバ"という意味を持つオリジナルは、ウォッカとライムジュース、そしてジンジャーエールをステアするのが一般的なレシピだ。
でもユラさんが出してくれたこのキイ・ミュールは、ひと口含むとさっぱりしつつもふくよかな風味が広がっていく。
「ウォッカならモスコ・ミュール、テキーラならメキシカン・ミュール。バーボンだとケンタッキー・ミュールで、和歌山の地酒やとキイ・ミュールやね」
わたしはユラさんの説明に思わず笑いながら、同じものをもう一杯つくった彼女と乾杯した。
瀬乃神宮が経営しているこのお店は、普段は「cafe 暦」の看板を出して喫茶店をしている。
けれど、あやかしが絡むお話や紀伊の結界に関わる相談事を受ける時だけ、バーとしてひっそりとオープンするのだった。
わたしがグラスにもう一度口をつけようとした時、かりんこりんっ、とドアベルがレトロな音を立てた。
入ってきたのは年季の入ったスラックスに腕まくりしたシャツ、赤いネクタイ姿の中年男性だった。
「おう。梅雨時近いんかして、なんやよう冷えらなあ」
地元の言葉全開で元気よく席に着いたのは、わたしにここのことを教えてくれた歴史課の大先輩、岩代先生だ。
「いらっしゃいませ。岩代先生、いつものでええやんな?」
ユラさんが親しげに声をかけ、カウンター下の冷凍庫からきんきんに冷えたウイスキーの瓶を取り出した。
それをストレートでショットグラスになみなみ受けた先生は、きゅーっと冷酒でもあおるように飲み干してしまう。
"うわばみ"という言葉を思い出して、わたしはひとり忍び笑いをもらした。
かなり無頼な感じのこの人は中世史の専門家で、近隣の古文書解読などを一手に引き受ける研究者でもある。
瀬乃神宮との関わりも古く、結界守の秘密を知る数少ない人物の一人だ。
けれど、わたしが陵山古墳や妖刀の件で危険な目に遭ったことを知って、いたく気にかけてくれていたのだった。
「せやけど、こないなった以上は確かにオサカベさんの言う通りじょ。ユラさんらと一緒におったしか、なんぼか安心やして」
そう言って、わたしのことをよくよく頼んでくれたのも岩代先生だったそうだ。
見た目はバンカラだけれども、ものすごく面倒見がよくて在学生ばかりか卒業生からもいまだに慕われているのだ。
「ほんでねえ、今日寄せてもろたんはほかでもないんよ。ユラさん、ちょっと高野山へいてってくれへんか」
「いてって」が「行ってきて」の意味だと遅れて気付いたわたしにもわかるように、岩代先生がゆっくり語ったところによるとこうだ。
山と海に囲まれた紀伊の国には名だたる霊場があり、常時結界が張り巡らされている。
もちろんそこには、ユラさんのような
しかし今、紀伊の各所で同時にいくつかの結界が力を弱め、あやかしの引き起こす怪異な事件が県下で多発しているのだという。
先日の陵山古墳に出現した鬼たちや、妖刀となった南紀重國の封印が簡単に解かれたのも、どうやら結界の弱体化が関係しているらしい。
「裏高野の七口でも突然結界が破れたとこがあって、ほれ、
それを聞いたユラさんは、カウンター下から一冊の和綴じ本を取り出した。
わたしが初めてここに来たとき見せてもらった、「完全な暦」だ。
ユラさんの細い指が頁の上をすうっと滑って、文字列をなぞっていく。
「杣山入吉日……。甲辰…丙午…丙子…丙辰…丙寅…丙戌…丁未…戊寅…戊申…己酉…庚辰…庚戌…辛酉…壬申…壬寅…癸未…癸丑…癸巳……」
なにやら呪文にしか聞こえないけれど、おそらく日ごとに割り振られた十干十二支の組み合わせだ。
"
本来は陰陽道で日々の吉凶や行動を占うために用いられ、現在では詳しいカレンダーにその痕跡が残っている。
そういえば子どもの頃、おばあちゃんちにあった日めくりカレンダーにはそんなことが載っていたような気がする。
よくわからずに眺めていたけれど、ユラさんが結界守の仕事を行う際には本来の暦である"旧暦"から日取りを決める必要があるとのことだ。
このお店の「
綴じ本の頁の一点でユラさんの指がぴたりと止まり、ゆっくり円を描いた。
「あかり先生。次の週末、あいてはる?」
地名とか固有名詞とかほとんどわからないことばかりだったのだけれど、かくしてわたしはユラさんにくっついて高野山を訪れることになったのだった――。
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