第1章 陵山古墳と蛇行剣の王

零神宮と麗人の酒家

夜の神社に来るのは初めてかもしれない。


4月とはいえ空気はしっとりと肌寒く、短い参道沿いの桜は故郷の雪と見紛う白さだ。


和歌山、といえば南国のイメージが強かったけど、山間のこの街は意外と気温が低い。


石灯籠には本物の蝋燭が点され、灯芯がチヂッと揺らめくたび周囲の闇が形を変える。


「神さんに挨拶だけ、しといたしかええわ」


ここを教えてくれた先輩先生のアドバイスに従って拝殿に立ち、そっと鈴の緒を引いた。

思いのほか大きく響いた鈴音に、自分で鳴らしておいて首をすくめてしまう。


柏手を打って拝礼し、ランプの薄明りに浮かぶ扁額を見上げると「瀬乃神宮」とかすれた文字がどうにか読めた。


「ゼロ神宮、か」


こんな小さな神社で"神宮"というのも珍しいけど、地元のこども達が瀬乃をゼロともじって呼ぶのは、「一の宮より古い」ことに因むそうだ。


拝殿に背を向けて参道を戻り、樹々に覆われた薄暗い石段を踏みはずさないよう、慎重に降りていく。

こつり、こつり、とあぶなげな音が響き、もう少し低いヒールにすればよかったと後悔してしまう。


石造りの鳥居を抜けて道路に出ると、眼前いっぱいに街の灯が広がっている。

100万ドルとはいえないにしろ、暗がりから降りてきた身には眩しいくらいだ。


そして坂道の上に目をやると、そこには小さなネオンサインが不規則に明滅していて、「bar こよみ」の名が見てとれた。


教えてもらった場所はここだ。

昼間は神社が経営しているカフェだそうだけど、夜にはこうしてバーもしているという。


でもネオンサインと入口のランプ以外は真っ暗で、なかなかあやしい雰囲気たっぷりだ。


気後れしつつも意を決して扉を推すと、カリンコリンっと古い喫茶店によくあるドアベルが音を立てた。

なんだかさっきの拝殿みたいだ。


「いらっしゃいませ」


カウンターの向こうから、ロングの黒髪をきりりと結い上げた長身の女性が声をかけてきた。

白いシャツにネクタイ、そしてウエストコート。伝統的なバーテンダーの衣装がとてもよく似合う人だ。


「あっ、あの……わたし、岩代先生にご紹介いただいて……」

雑賀さいかあかり先生、でございますね。岩代さまより伺っておりました。どうぞ、こちらへ」


すっと差し伸べられた手に導かれて、私はカウンター席に腰掛けた。

小さなバーチェアにおしりがうまく収まると、存外な居心地よさにはやくもリラックスしてしまう。

わたしの他に、お客さんは誰もいない。


「お飲み物はいかがですか」


女性マスターが、クールな佇まいそのままなイメージの声でそう聞いてくる。

愛想笑いもなにもなく、近くで見るととてもハンサムな顔立ちの人だ。


「わたし、実はあんまり詳しくなくって……」


バーに連れて行ってもらったことはあっても、一人で入るのは初めてだ。


「ではお任せでいかがでしょう。日本酒ベースのオリジナルがあるのですが、お作りしても?」


おすすめに頷くと、マスターは初めて少し微笑んで流れるような手さばきでくるくるとお酒を調えた。

種類の違う液体がグラスに注がれ、混じり合っていく様子は何かの儀式のように神秘的だった。


「どうぞ」


目の前に供されたカクテルグラスの中身は透明だけど、縁にはうっすらと白い粉が積もりカットしたバナナが飾られている。


「おいしい…!」


ひと口含んだ瞬間、フルーティーなバナナの香りが広がって、緊張の糸が一気に緩むのがわかった。

あまく、やわらかな余韻がやさしい。

塩かと思った白いものは、粉砂糖のようだ。


「宵庚申、といいます」

「よい…こうしん?」

「はい。60日に一度おとずれる、庚申かのえさる。人が眠っている間に体から三尸の虫が抜け出し、日頃の行いを天帝に告げに行く日。なのでかつてこの日には、眠らずに夜を明かす庚申講が行われました」


彼女の話に、わたしは思わずぎくりとした。

まさしく今夜ここを訪れた目的に通ずることだ。

何もかも見透かされているような感覚に浸りながら、わたしはことの次第を語りだした。


――わたしは今年の初めに、高校の歴史科の非常勤講師としてこちらに赴任してきました。

出身は北海道ですけどご先祖は紀州の人で、「雑賀さいか」の苗字はそれに由来しています。


教師として祖先の地を踏むのは感慨深くて、非常勤ながら生徒たちもすごく可愛くって、すっかり和歌山が好きになっちゃいました。


何校かを掛け持ちしているのですが、そのうち公立の一校で事件があったんです。

あの大きな古墳が隣にある……そう、「陵山みささぎやま古墳」ですね。

そこでその、通学路に猿が出て生徒を襲う、と言われてて……。


危ないので教職員にも周知されて、生徒にもなるべく遅くならないうちに集団で下校するよう注意していました。


ところが、わたしが遅くなったときに古墳のある公園を通ると、女生徒のひとりがじっとそこに佇んでいたんです。


驚いて声をかけると、彼女はなにやら不思議なことを言いました。


"雑賀先生、猿とちゃうと思います。

まっとおとろしい何かが、いてるんです。"

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