潮騒を聞きながら、あなたのことを想い出す
藤原あみ
第1話 馬上の王子
人口3000人余りの温暖な気候の地で、両親、姉、妹、祖母での6人暮らしだ。美波は地元の高校に通う17歳。乗馬部に所属し、学校以外でも、用事の合間をみては常に馬と接する日常を送っていた。
両親は自宅の1階で海鮮料理を中心とした食堂を経営。店は観光客や地元の人間で常に賑わっていたので、24歳になる姉、中学生の妹も積極的に手伝ったが、引っ込み思案で人見知りの美波だけは接客はせず、調理場の洗い場を担当していた。カウンター席10人、お座敷約20人程の小さな店は、朝7時から開店し、3時から5時まで休憩。それから夜の10時まで営業している。休日は不定休で、1年のうち、たった5日しか休まなかった年もある。
「なんでそんなに働くの?」
12歳の妹は末っ子ということもあり、甘えたがりで夢見がち。家族でディズニーランドに行きたがっているが、未だに叶っていないのを不服としている。
「うちは子供が3人もいるのよ、いっぱい働いて、いっぱい稼いで貯金して、あなたたちの学費にしないといけないのよ」
母の
「学費っていうけどさ、お姉ちゃんは大学も卒業して帰って来たじゃない。わたしは大学行かないよ」
妹の
「大学に行かなかったら行かないでいいけど、嫁入り支度もあるでしょう」
「お嫁にも行かないもん」
「そうか美月、美月はずっとこの家にいて、お父ちゃんと結婚するか」
父親の
「お父ちゃんとは結婚しないよ。だってお母さんと結婚してるじゃない」
「寂しいことをいうなよ、小さな頃は、お父ちゃんのお嫁さんになるっていってたじゃない」
「でも、お母さんがさ、お父さんはお母さんと結婚してるから、美月ちゃんとは結婚できないのよっていったし」
「ほらね、お母さん」
尊は仕込みの手を止め、冗談ぽい目を嫁に向けた。美浜は無視して店内の掃除をしている。
「お母さんがそういうことをいうから、娘たちは離れて行っちゃうんだよ」
「はいはい」
美浜はテーブルを拭くのをやめ、腰に手を置いて身体を仰けそらした。
「わたしは離れないよお父ちゃん」
そういったのは美波である。洗い物が終わり、前掛けで手を拭いている。
「美波」
尊は嬉しそうだ。涙を拭く芝居をし、娘の両肩に手を置いた。
「乗馬に行くのか?」
「うん、夕方の開店時間までには戻るね」
「店のことは心配しなくていいよ。お姉ちゃんも美月も、お祖母ちゃんだっているんだから。それより怪我しないようにな」
「わかってる。少し走るだけだから」
そういって美波は二階にある自宅の部屋に駆け上がって行った。
「大丈夫かね、あの子は」
腕を組んで、尊は娘が去った方を眺めていた。
「ただいま」
「あらっどこ行ってたの?」
祖母と出掛けていた長女の
「GREENストア」
GREENストアとは、近所のスーパーである。
「お祖母ちゃんが買いたい物があるから車で連れて行った」
「お祖母ちゃんは?」
母が聞いた。
「家の玄関から入ったよ。そっちの方が自分の部屋に近いでしょう」
「そっかそっか」
美浜はお疲れ様といって美海の背中をたたいた。
「美波は?」
「二階じゃない。乗馬に行くっていってたし、支度しているんでしょう」
「ふーん、好きだね乗馬」
「お姉ちゃん、お土産ないの」
美月は仰向けで横になっている。
「ないわよ、そんなの。それより、いつまでゴロゴロしてるの。ろくに手伝いもしないで」
「冷たいお茶でも飲むか?」
尊はそうそういうのと同時に麦茶を入れたグラスを4っ、カウンターテーブルに置いた。
「お父さんは良く気が利くね」
カウンターの椅子に座った美海は麦茶を一気に飲み干した。季節は12月だったが、この島は一年中温暖で、真冬といわれる時期でも汗ばむほど暑い日がある。
「なーにいってんのよ。本当はあんたが入れなきゃ駄目なんだよ」
「お母さんいいじゃない、実家に帰ってきたばかりなんだし、やさしくしてよ」
美海は今年の秋に突然会社を辞め、帰郷していた。
「それでいつまでここにいるの?」
美浜は立ったままで麦茶を飲み、手にグラスを握っていた。尊もふたりの会話に入りたそうだ。
「いいじゃなの。いつまででもいても」
「お父さんに聞いてないの」
「はいはい。すみませんね」
「会社を辞めた理由も言わないし、急に帰って来て、これからのことを何もいわないんじゃ困るのよ」
「困ることなんかないんだよ。いつまででもいたらいい」
「お父さん!お父さんが甘やかすから、こんなことになるのよ」
カウンターテーブルを叩いた美浜は、ズレた眼鏡を片手で直した。
「心配しないで、ちゃんと考えてるし、辞めた理由は単純な人間関係だし、詳しい事は時期が来たら話すから。それと、これ」
ポケットから財布を取り出した美海は五万円を抜き取り、テーブルに置いた。
「これ、生活費。だから少しの間でいいから、ここに置いて」
「いいんだよ、そんな金。お前はうちの娘なんだから、気にしないでいたらいい。お母さんだって金が欲しくていってるんじゃないんだ」
「ありがとう。ありがたく頂いておく」
「おいおい」
「生活費よ」
いいながら、美浜は五万円をエプロンの前掛けに仕舞った。
「社会に出るまで育てたでしょう」
「なんだかなあ」
尊は不満そうだ。
「ところでお父さん、美波のことなんだけど」
「ん、どうした?」
美海はカウンターテーブルに肘を置いて、重ねた手の甲に顎を乗せた。
「乗馬、大丈夫?」
「大丈夫だろう。うん、大丈夫だ」
親子は自宅へと続く厨房脇の廊下の奥を見つめた。
その頃、美波は一階にある居間の仏壇に向かって手を合わせていた。神妙に、何かを口ずさんでいる。
「行ってくるね、お兄ちゃん」
お兄ちゃんとは、1年前に事故で失くした長男慎一郎のことである。彼は真新しい遺影の中でにこやかに微笑んでいる。享年26歳。突然の不幸に見舞われた一家は、この1年、苦悩を耐え忍びながら生きて来た。
「行ってきまーす」
玄関を出た美波は、自転車に乗って乗馬クラブへ向かった。自宅から自転車で片道10分。運動が得意な美波はいつも立ちこぎをして行くので、早い時は5分足らずで到着した。彼女の自宅は海岸通りにあり、乗馬クラブは海とは反対側の陸地にある。観光客の来るフェリー乗り場や、繁華街といわれる町とは島の反対側にあるので、こちら側は家屋が点々としているだけだ。もちろん鉄道は通ってなく、ヘリポートはあるが民間の空港はない。バスは1時間1本。フェリー乗り場までは1時間かかるが景色がいいので苦ではない。
ちなみに高校まではフェリーで通っているので、バスとフェリーを合わせて3時間の通学時間。毎朝5時起きだ。
美波の兄と姉は、他の島の生徒同様、高校に上がると内地にある学校の寮に入り、週末は長期の休み期間だけ帰省した。人見知りで内向的な美波は、どれだけ時間がかかろうが、自宅からの通学を望んだのだが。
「さあ、着いたね~」
美波が通う乗馬クラブは小規模で、主に観光客相手である。地元の人間で乗馬を習いに通ってるとしたら、兄の慎一郎だけだっただろう。
「きょうは少し遅くなっちゃったけど、20分くらい走れるかな」
休日ということもあり、店が忙しく、後片付けに手間取り、いつもより遅くなってしまったのだ。そのせいか馬場には人の気配がなかった。
「乗馬ツアーに出てるのかな?もうすぐ帰って来るねきっと」
美波は更衣室にいた。馬の世話をすることが条件で、会費を免除され専用のロッカーも与えられている。この優遇には理由があり、ここは慎一郎の友人、照之の親が経営していて、照之がこの会社の責任者だったからだ。美波とも幼い頃から親交があり、いわゆる彼らは幼馴染である。
着替えを終え、美波は馬場に出た。
「あれっ」
先程までは誰もいなかった筈なのに、ひとりの男性が馬に乗り、颯爽と駆けていた。その姿は夕日に溶けて、とても美しく幻想的に映った。
「あの人、だれだろう」
美波はその姿に見とれていた。遠い昔に憧れていた、そんな人に出会えた様な不思議な感覚と、胸の奥から込み上げてくる感動は、彼の可憐な馬術からなのだろうか。しかし上級者用の障害を軽々と飛び越えて行く姿は、見ているこちらが冷や汗をかいた。
「ああ、怖いな。怖いな」
美波の兄、慎一郎は、この競技の最中、事故で亡くなっている。家族全員の見てる前での出来事だった。障害物の前で突然、馬が竿立ちとなり、振り落とされた慎一郎の頭を蹴り上げた。即死だった。
「あの人、大丈夫かな。油断してないかな」
胸の前で手を組み、祈る様にして美波は見ていた。
あの日の朝、大会に出掛ける兄に父、尊は心配そうにいった。
「今回は難しいのに挑戦するんだろう。大丈夫なのか、未だ早いんじゃないのか。馬術をはじめて4年しか経ってないんだぞ」
「大丈夫、大丈夫。安心して。僕はそんなに弱くないよ」
「弱いとか強いとかの問題じゃないんだよ。油断や驕りのことを…」
最後まで聞かずに、兄は先に家を出て行ってしまった。とても明るい笑顔で、
片手を大きく振り上げていた。
「お兄ちゃん、守って。わたし、なんか怖いんだ」
美波が目を瞑った時、馬がいなないた。
「はっ!」
目を開けると、乗馬の男性が地面に打ち付けられていた。
「えっ、どうしよう、どうしよう」
美波はいいながら、周囲を見渡したが、人の姿がない。ここのスタッフは多い日でも5,6人。その全てがホーストレッキングに出ている。
「だれか、だれか救急車」
スマホを探したが、ユニフォームに着替えてしまっているので、スマホはロッカーの中だ。美波は走り出していた。馬場に入り、反対側の柵の近くに倒れている男の元まで駆けて行った。
「大丈夫ですか」
傍に寄り、うつ伏せになっている身体に顔を近づけ呼吸を確認した。
「あの、大丈夫ですか」
返事はない。意識を失っているようだ。美波は彼の身体をそっと仰向けにした。目立った外傷はないが危険だと思った。
「わかりますか、わかりますか。大丈夫ですからね」
美波はもう一度、呼吸を確認した。呼吸が不規則になっている。
「どうしよう、息が……」
もう一度、顔を近づけた。
「息、してない」
男の呼吸は止まっていた。
「死んだ、死んでしまった。ちがう…人工呼吸」
人工呼吸は最近、公民館で消防署の人に習ったばかりだ。美波は勇気を出して、不慣れな人工呼吸をはじめた。
息継ぎをするたびに、「大丈夫、大丈夫」そう囁いた。
何分かそうしていたら、男が息を吹き返した。
「ああ、ああ、大丈夫ですか!」
大きな声で男に問いかけた。男は薄っすら目を開けた。
「はっはっ……」
小さくだが息をしている。
「わかります。わかりますよね、ちょっと待っていて下さいね。もう大丈夫ですから」
美波は先に男の馬を繋いだ。馬に負傷した様子はない。そして救急車に連絡する為、事務所に向かって走り出した。全速力で走ったので、途中で大きく転んでしまったが、それでも気にせず、事務所の電話を使って救急車を呼んだ。
「良かった、良かった…」
息継ぎをする間もなく、男の元へ戻ろうとして屋外に出ると、ホーストレッキングに出ていた一行が戻って来ていた。倒れている男に気づいた照之が男に駆け寄る姿が確認できた。
「ああ、みんな帰ってっきてくれたんだ」
安心した途端、美波は膝から崩れ落ちた。
「美波ちゃん、美波ちゃん、どうしたの?」
二階のシャワー室から降りて来たのは同級生の優子だった。
「大丈夫?すっごい怪我してるじゃん」
「ああ、本当だ」
見ると掌の皮が剥けて血が出ていた。膝も痛い。転んだ時に怪我をしたのだろう。
「どうしたのよ、落馬したんじゃないよね」
「ううん、走ってたら転んだの」
「なーんだ良かった。でもさ、乗馬クラブで自分でつまずいて転ぶなんて、なんか美波ちゃんらしいね」
「そうかな」
「あれ、なんか表、騒がしくない?」
しゃがんでいた優子は立ち上がり、窓外を見た。
「だれか怪我したみたいだよ」
「うん、そっか」
美波も立ち上がり、窓の外を見ると、男の周囲に人が群がり、大変なことになっている。そのうち救急車のサイレンが聞こえてきた。
「なんだろう、わたし、ちょっと外に行ってみるね。バイバイ美波」
「うん、バイバイ」
美波は弱々しく、手を振った。
「これで大丈夫だよね。ああーでも痛いな」
傷だらけの手を広げ、美波は肩を落とした。血や傷には滅法弱い。少し前の美波ならシクシク泣き出しただろう。
「いま何時だろう?」
事務所の時計を見ると、16時半を過ぎていた。
「あー、困ったなあ。早く帰らないと。お店が開いちゃう」
傷の手当をして、急いで着替えを済ませた美波は、救急車を横目で見ながら、自転車を漕いで自宅へと向かった。
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