1ー④

「お疲れさまっす」

「桐生君、お疲れ」

 年配の女性男性、皆に対して桐生は挨拶し、挨拶を返されていた。

「聞いてよ、また二十階のゴミ箱に吸い殻が捨ててあったんだよ」

「え? またぁ? 喫煙コーナーでしか吸っちゃいけないって、あれだけ通達出してるのになあ」

 桐生が呆れた声を出す。

「多分、ありゃサエキ部長だね。ひな壇の机の横のゴミ箱に、煙草の空き箱が捨ててあったから。桐生君、名指しで注意してやってよ」

「俺、ぺーぺーだからなあ」

「そうだよ、田中さん、桐生君、クビになっちゃうよ」

「さすがにそのくらいじゃ、クビにはならないと思うけど」

 話している間にも一階ずつエレベーターは停まり、新たな清掃の人たちが乗ってくる。

「どうしたの?」

「二十階のサエキ部長が吸い殻捨てたって話してたとこ」

「またかい? 火事になったらどうするつもりなんだろうねえ」

「ちょっとちょっと、狛江さん、サエキ部長が捨てたって証拠はないんだから」

 清掃員たちの決めつけを、桐生が慌てた様子で遮っている。

「証拠っていうならさ、防犯センターの木村さんに頼んで、二十階の防犯カメラの映像、見せてもらえばいいんじゃない?」

 今、乗ってきた女性がそう言うのを、

「あらあ、近藤さん、冴えてる」

 と狛江と呼ばれた清掃員が褒める。と、ようやくエレベーターは二十四階に到着し、扉が開いた。

「おりまーす、じゃ、皆さん、お疲れ」

「桐生君、お疲れー。頼んだよ」

「無理言っちゃかわいそうだよ。できる範囲でいいからね」

 清掃員たちに送られ、エレベーターを降りる。

「あ、やべえ。紹介すりゃよかった。まあ、明日もあるからいいか」

 ごめんね、と桐生が謝ってくる。

「いえ。清掃の皆さんと仲がいいんですね」

 名前も呼びかけられていたし、桐生もまた呼びかけていた。僕は新人なので胸に名札をしているが、桐生も清掃員たちも名札は身につけていない。

「毎日エレベーターで顔、合わせるからね。彼女たちお喋り好きだし、エレベーター乗ってる時間は長いしで、いつの間にか仲良しさんだよ」

「そうなんですね」

 やはり桐生は誰に対してもフレンドリーなようだ。カフェの店員に対しても清掃員に対しても、それに上司や同僚に対しても態度が変わることがない。根っからの人好きなんだろうなと思いながら僕は彼のあとに続き、秘書課へと向かっていった。

 役員フロアは廊下のカーペットも違った。ちょっとふかふかしていて、高級感が溢れている。エレベーターホールの突き当たりには役員専用の受付があり、制服姿の女性と共に警備員も座っていた。受付の横を取り抜け、数メートル進んだ先の扉の前で、リーダーに社員証をかざし、ドアを開く。

「失礼します。事務用品の補充です」

 桐生が丁寧な口調で声をかけ、中に入る。

「大丈夫、今、課長いないから」

 と、一番扉に近いところにいた制服姿の秘書が振り返り、桐生に笑いかけてきた。

「なんだ、言ってよ。緊張しちゃったよ」

 途端に桐生の口調が、いかにも彼らしいものになる。

「あれ? 新人さん?」

 見るからに秘書という雰囲気の、きりっとした美人の彼女が、僕に気づき笑顔を向けてくれた。

「は、はい。新人の宗正です」

 挨拶せねばという思いが先に立ち、声が上擦ってしまう。

「総務三課に新人が入ったって本当だったのね」

 と、彼女の向かいに座る、彼女よりは少し先輩と思しき女性が立ち上がり、桐生に話しかけた。室内には今、秘書が四人いたが、皆が席を立ち、桐生と僕を囲んでくる。

「そ。念願の後輩の宗正君。お手柔らかに頼むね」

「よろしくお願いします!」

 紹介され、焦って頭を下げる。

「田倉です。よろしくね」

「私は三宅。くさらないほうがいいわよ。必ず異動ってあるから」

 美人秘書たちの視線が同情的な気がする。総務三課配属というのはやはり、同情を引くということなんだろう。とはいえどういうリアクションをとればいいのかわからず、立ち尽くしていたが、不意に桐生に肩を組まれ、ぎょっとして彼を見やった。

「ちょっとちょっと、ウチの課がハズレみたいなこと、可愛い新人に吹き込まないでよ?」

 桐生は僕と秘書たちの間に入ってくれようとしたらしい。

「当たりとは言えないと思うけど」

「それより聞いたわよ。この間、物産の秘書部と合コンしたんだって? ウチの悪口、触れ回ったんじゃないでしょうね」

 じろ、と三宅と名乗った秘書が桐生を睨む。

「耳が早いなー。さすが秘書」

「おだてても何も出ないから。それよりどうだったのか、教えてほしいわ」

 ここでもまた、和気藹々と会話が続く。

「今日、昼一緒に食べない? 話はそのときに。それより、なんか足りないもん、ある?」

 話の切り上げ方も上手い、と感心して見ている中、桐生が秘書たちから事務用品の不足を聞く。

「今日のところは別に……あ、社長が社外用箋の紙質が悪くなったって文句言ってたわよ。万年筆でサインするのに、インクが滲むって」

「そうなんだ? おかしいな。別に業者が変わったとか、聞いてないけど」

「私も万年筆のインクの問題じゃないかと思ったんだけどね」

 肩を竦める三宅が、あ、と何かに気づいた顔になる。

「マズい。もうすぐ課長帰ってきちゃうから」

「わかった、それじゃまた、昼に」

 またね、とここでも桐生はウインクし、ワゴンを押して部屋を出る。慌てて彼に続いて僕も秘書課を出た。

「秘書課長がいないおやつ時には、取引先からの手土産のお菓子をもらえたりする。ただ、みんなストレス溜めてるからか、話が長いんだよね」

 荷物用エレベーターへと向かいながら、桐生が肩を竦める。

「さて一階下は総務部と人事部。人事は最近、雑談が多いって睨まれてるから、さくっと行こう」

「……はい」

 この調子でワンフロアずつ回っていたら、日が暮れるのではあるまいか。エレベーターが来るのに時間がかかるということだったが、それ以上に各フロアでのお喋りに時間が取られることを、その後僕は身を以て体験した。

 桐生が誰にも喋りかけずに作業をすることはまずなかった。近くにいる事務職や若手社員に「どうも」と笑顔で挨拶し、自然と雑談が始まる。

 僕に対しては、大抵の人が同情的だった。法務部で偶然顔を合わせた同期からも、

「大丈夫か?」

 と案じられたくらいだ。

「総務三課に配属があったって、部の人、皆驚いてたんだよ。その新人、何かやらかしたんじゃないかって。あとは、強力な縁故かとも聞かれたけど、親、確か教師だったよな?」

 桐生が事務職の女性と話している間、こそこそと話しかけてくれた同期の清永は大学が一緒だった。マンモス大学なので学生時代には面識はなかったが、研修中に仲良くなったのだ。

「うん。ウチの親、入社に反対してたくらいだし」

「それはウチもなんだけど、やっぱり縁故じゃないんだよな?」

 清永は納得しつつ、なぜ縁故と思われているか理由を教えてくれた。

「あの桐生って先輩が、強力なコネ入社だそうなんだ。あんな茶髪やチャラさじゃ使いものにならないから、取引先の目に触れない総務三課に配属になったって、もっぱらの評判だ。宗正は研修中も真面目だったし、どうして? と思ってたんだよ。確かインフラ部門を希望してたよな?」

「うん。そのはずだったんだけど……」

「何かの間違いかもしれないし、愚痴でもなんでも聞くから。同じコーポレートだしな」

 頑張れ、と背中を叩いてくれた清永に感謝しつつも、やはり総務三課配属というのは異例のことなんだなと、今更ながら思い知っていた。

 にしても、と、未だ、事務職の女性たちと楽しげに会話をしている桐生を見やる。

 強力なコネがあるというのは本当なんだろうか。確かに茶髪や態度のチャラさは浮いているようには見えるし、ああしてお喋りばかりして本来やらねばならない事務用品の補充はおざなりになっている。

 しかし、となるとますます、自分はなぜ総務三課に配属されたのだろうという疑問がむくむくと頭を擡げてきた。

「おっと、長くなっちゃった。それじゃ、今度メシでも行こう」

 ようやく雑談が終わったらしく、桐生が「行こうか」と声をかけてきた。

「事務用品のチェック、終わりました。ボールペンと付箋を補充しました」

「付箋ってよく補充するんだけどさ、絶対みんな、最後まで使い切ってないよね。机の中に使いかけのがゴロゴロあると思うんだよなー、俺は」

「そう……ですね」

 だから? 何が言いたいのかわからず、相槌を打ったあと、続く言葉を待つ。

「いや、別に何もないよ。そうだなあってだけで」

「そう……ですか」

 それだけ? 無駄が多いから経費削減のために、付箋は使い切りましょうと通達を出すとか、そういう話ではなかったのか。やはりこの人は、コミュニケーション能力が高いだけの縁故入社なんだろうか。そして総務三課はそうした人が集められた部署なのか。

 なぜにそんな部署に自分は配属されてしまったのだろう。あれほど堪えていた溜め息が、自然と口から零れていた。

「さて、じゃ、次のフロア、行くよ」

 幸い桐生には聞かれずに済んだらしい。にっこり笑った彼に促され、荷物用エレベーターへと向かいながら僕は、両親を始め周囲のアドバイスどおり就職先を考え直すべきだっただろうかと、今更過ぎる後悔に身を焼いていた。

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