あの夏の初恋はクロラミンの匂いがした

リウクス

過去と未来

 蝉の鳴く季節。

 雲一つない快晴。

 彼方まで広がる青色を見れば爽やかな印象を覚えるが、気温は優に30度を超えている。

 プールサイドを照りつける日差しが眩しく、外したゴーグルに反射する光がすれ違いざまに紫苑しおんの濡れたスクール水着を照らした。

 楕円形の光を浮かべた腹の方に目を遣って彼女が言う。


「何」


「いや、ごめん」


「そ」


 素気ない。

 それもそのはずだ。

 最近の俺たちは少し気まずい。

 原因は彼女の方にあると言えるし、俺の方にあるとも言える。


 先週、夏休みが始まる前のことだ。

 部活もすでに引退して、放課後暇だった俺たちは、久々に家で一緒にゲームをしながら時間を潰していた。


「もう夏休みだな」


「ねー。秋冬は受験勉強だろうし、もう中学生活終わったも同然だねー」


 無表情でボタンを連打しながら俺のキャラクターをボコボコにする紫苑は、扇風機の風に髪を揺らして涼しげだった。


「あ、そうそう。秋と言えばさ……」


 ゲームセット。

 彼女はコントローラーを置いて、少しだけ言い淀んだ。


「……私、3学期から神奈川だから」


「は?」


 寝耳に水だった。

 幼稚園の頃からの幼馴染である俺でさえそんな話は聞いていなかった。


「いや、先々週くらいに言われたんだけど、お父さんが転勤でね。私も向こうで受験とか色々あるし、めちゃめちゃ中途半端な時期だけど転校することになってさ」


 そう説明する紫苑の表情は、どこか無関心を装っているような気がした。


「……引っ越しはいつ」


「……再来週。お盆休みあたり」


 平坦な声音で彼女が告げる。


「……だから、もうすぐお別れだね」


 俺は何も言えなかった。

 静止した空間を繋ぎ止めるように回る扇風機の音だけが、この狭い部屋を支配していた。


「……寂しい?」


 それは、もちろん。

 だってもう10年近く一緒にいるんだ。

 だけど、無駄な自尊心が邪魔をして、俺はそれを言うことができなかった。


「……いや、別に」


「……え」


「……別にお前だけが友達ってわけでもねえし。むしろ最近はあんまこうやって遊んでもねえだろ」


 心にもないことを。

 ただ、長い付き合いがあるからこそ、お互いを特別視するというのも何か不愉快な心地がするのだ。


 当然、彼女はそれを快く思わなかった。


「何。すねてんの」


「はあ?」


「幼馴染なのにすぐ転校のこと教えてもらえなかったのが嫌だった?」


「は。んなわけねえだろ」


「じゃあなんで怒ってんの」


「怒ってねえよ。そっちこそ何だよ。いきなり突っかかってきて」


「別に。見風みかぜがなんか機嫌悪そうだったから」


「機嫌悪くなんてねえよ。お前がいつまでも俺の友達がお前しかいないみたいに思ってんのがムカついただけだよ」


「ほら、怒ってんじゃん」


「だからさあ――」


 結局俺たちはそのままお互いを罵り合って、その日は日も沈まないうちに解散した。


 それ以降、俺たちが会うことは2度とないだろうと、そう思っていた。

 しかし――


「よし。花咲、枯芝。次はクロールで25m行ってみるか」


 水泳の授業の出席日数が足りなかった俺たちは、夏休みの補習に駆り出されていた。

 しかも、生徒は俺たち二人だけだ。


「――な、なあ」


「何」


「あ、いや」


 当然、紫苑は機嫌を損ねたままだった。

 俺はこの機会に後ろめたさを取り除くことができたならと考えていたが、彼女の方は微塵もそんな気がないようだった。


 先生の笛が鳴ると同時に、俺たちは水に浸かった。

 目の前で揺れる水面が視界を歪めて、焦燥感を募らせる。

 結局喧嘩別れになってしまうのだろうか。


「おーい、枯芝。もうスタートしていいぞ」


 俺が一人不安を抱えて水に浮かんでいると、紫苑はすでに5mほど先を泳いでいた。


 俺は慌てて壁を蹴った。

 ゴーグルをつけ忘れていたから、目が開かない。

 開けようと思えば開けられるが、お世辞にも清潔とは言えない水に目を晒すのが嫌なのだ。

 とにかく目を瞑りながら25m泳ぎ切るしかない。

 俺はひたすらに、紫苑のバタ足が聞こえる方に向かって泳いだ。

 すると――


「いだあ」


 彼女の踵が俺の鼻先を蹴った。

 同時に水を飲んでしまって、鼻の奥が痛い。


 プールの真ん中で俺たちは立ち止まる。


「あ、大丈夫?」


「ああ、うん。平気平気」


 流石に人の顔を蹴っておいて無視するなんてことはしないみたいだ。

 彼女が申し訳なさそうに俺の顔を覗き込む。


「おーい。花咲、枯芝、大丈夫かー」


 先生がプールサイドから呼びかけると、俺たちは二人揃って「大丈夫です」と返事をした。

 あまりにも息ぴったりだったものだから、俺は苦笑いを浮かべながら彼女を見遣る。

 向こうは不服だというような仏頂面だ。


 なんとなく、険悪なムードは取り払われたような気がする。


 それから背泳ぎや平泳ぎの練習があって、フリーで25mタイム測定を終えると、余った10分は自由時間だと言われた。

 10分といえど、何もないプールで二人きり。特にすることもないから、俺たちはプールサイドで膝から下を水に浸けながらぼーっとしていた。


「あのさ」


「何」


「いや、なんというか……」


 彼女の小さな足がパシャリと水面を弾く。


 俺は気づかれないように深呼吸をした。


「この前は……ごめん」


 俺は紫苑の顔が見られなくて、俯きながら言った。


「……何が」


 彼女が問い返す。

 その声に棘はない。


「その……お前がいなくても別に寂しくないとか……」


 決まりが悪くなって空を見上げると、燃え盛る太陽に目が眩んだ。


「……じゃあ、寂しいんだ」


「え」


「あれが嘘なら、寂しいってことでしょ」


「……えっと……まあ」


 俺は素直になれなくて頭を掻いた。


 一瞬の静寂。


 彼女は水泳帽を外して、髪を解くと、徐に身体を近づけて、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「……少なくとも、私は……寂しい、よ。見風がいないと」


 紫苑の長い黒髪を伝ってこぼれ落ちた水滴が、俺の右手を濡らす。


 覗き込むような彼女の双眸が、俺の体温を熱くする。


「……実はさ。補習っていうのも嘘なんだよね」


「……え?」


「本当は、見風にまた会う口実が欲しかったから。転校することを理由に先生に頼んで、今日の補習参加させてもらうことになったの」


 ……驚いた。

 数十分前までの紫苑は、俺たちの再会を不幸だと思っているような顔をしていたから。


 案外、気まずいだけで同じことを考えていたのかもしれない。

 それもそうだ。わだかまりを残して別れるだなんて、誰だろうと気持ちが悪い。


 でも、今の彼女は、そんな凡庸な理由ではなくて、何か明確な未練を残しているように感じられた。


「……俺の家に居候とか、できないのか」


 我ながら大胆なことを言ったなと思う。


「それも考えたんだけどね。やっぱり、難しいみたい。大人の事情ってやつ」


「そっか……」


 俺は落胆するように水泳帽を脱いで、前髪を上げた。

 力なく折れる腕は無気力で、水面に浮かぶ小さな虫に親近感が湧いた。


 プール特有のクロラミンの臭いが鼻腔に充満する。


「……でも、神奈川は確かに遠いけどさ。今どきスマホもあるし、いつでも連絡は取れるよな」


 俺は空元気で笑ってみせた。


「お前が転校しても、また電話とかすればお互い声も聞けるし、顔も見れる。直接会えないのは確かに……寂しい、かもしれないけど」


 俺がそう言うと、紫苑は物憂げに微笑んだ。


「……そう、だよね。うん。それに、見風が関東に行く用事さえあれば会えることだってあるしさ。それに、私絶対、またこっちに遊びにくるし」


 飛行機が遥か上空を架ける音がする。

 伝わってしまいそうな感情を、包み消すように。


「……うん。俺も遊びに行くよ、お前んとこ。絶対に」


「絶対?」


「絶対」


「絶対の絶対?」


「絶対の絶対」


 俺を問い詰める紫苑は、小学生みたいで。刹那、色々な思い出が頭をよぎった。

 幼稚園の遠足で、二人手を繋いで歩いた遊園地。先生に仲良しさんねって言われて嬉しかった。

 小学3年の運動会で、センターを争った応援ダンス。結局二人でセンターを飾って、MVPに選ばれた。

 小学5年の自然教室で、一緒に作った不味いカレー。お前と暮らすなら料理はデリバリー一択だなって笑いあった。

 小学6年の卒業式。こいつとはこの先中学も高校も大学も同じなんだろうなって思った。


 そして、今。


「ねえ。見風……」


 紫苑の顔が紅潮する。

 肩をつけて顔を寄せていく。


 心臓が深く沈んで、跳ね上がる音がした。


 先生は用具室の整理に行って、完全な二人きり。


 今なら何をしてもいいのではないか。今なら何をしても許されるのではないか。

 そんな雰囲気を纏わせた彼女の蕩けるような表情が、俺の理性を外しかける。


 ジリジリと、熱が、込み上げる。

 ドーパミンの分泌を感じている。


 しかし――


 ――これが最後ではない。


 ふとそう思って、俺は怖気づいてしまった。


「……もう10分経ったんじゃないか」


「…………うん。そうだね」


 蝉の声が耳に入ると、夢から覚めたような感覚がした。


「さっさと着替えて、帰ろうぜ」


「……うん」


 多分、あの瞬間、やりたいことはなんでもできた。そういう流れだった。

 しかし、今までが大切だったからこそ、その一歩先に踏み出してしまうのが怖かった。

 一線を越えれば、過去はもう取り戻すことができないのかもしれないのだ。

 そうだとしたら、これからもずっと今まで通りでいるために、前に進んではならないのだと、そう考えた。


 更衣室に入って、一人になると、安堵と後悔が同時に押し寄せてきた。


 座り込んだすのこが軋む。


 俺は本当に、あれでよかったのだろうか。


 結局、俺たちは何事もなく帰路につき、先生からもらった2本入りのアイスを分け合いながら、どこまでも純粋な青空の下を歩いていった。


 クロラミンの匂いが、長く、長く、あとを引いていく。



◆◆◆◆◆



 あれから4年以上経って、俺は大学生になった。

 紫苑と離れ離れになってからは、どうにも改まって連絡を取るのが気恥ずかしくて、明日明日と引き伸ばしていたら、あっという間に時が経っていた。

 俺はどこへ行っても彼女の影を追いかけていたし、もしかしたらどこかですれ違っているのではないかと思っていた。


 再会する勇気がないから、偶然に身を任せて。

 俺の時間はずっと止まったままだった。


 しかし、大学1年になった直後のことだ。

 ふとSNSのフォロー通知を見ると、何やら見覚えのある名前があった。


 『しおん』


 もちろん、名前が同じなだけで、赤の他人だろうと思った。

 しかし、アイコンを見れば彼女が花咲紫苑であることは明らかだった。

 幼稚園の遠足の写真。

 まだ小さい彼女が、男の子と手を繋いで歩いている写真だ。


 俺はそのアカウントが紫苑であるとわかるや否や、すぐにフォローを返して、承認を待った。

 そして、彼女の投稿が見られるようになると、空白の時間を埋めていくように、俺の知らない彼女の写真を眺めていった。


 文化祭。

 体育祭。

 修学旅行。

 卒業旅行。


 写真から判断する限り、彼女は高校生活を満喫できていたらしい。

 過去に囚われ、パッとしない3年間を過ごした俺とは違って。


 それから、俺たちはお互いが何か新しく投稿するたびに、いいねをしあうような、そんな関係になった。

 今思えば、ただタイムラインの一番上に表示された投稿を何も考えずにいいねしていただけだったのかもしれないが。

 けれど、あの時の俺は、彼女からいいねをもらうともう一度関わりをもつことができたような気がして、嬉しかったのだ。


 そして、3ヶ月ほど経った頃のことだ。

 紫苑の投稿には、基本的に家族以外の男は写っていない。しかしある日、どこかの高級レストランでのディナーの写真がアップされていて、彼女の反対側には彼氏と思わしき男が写っていた。

 所謂匂わせというやつだ。

 顔は見切れて見えないが、小綺麗な格好をした細身の男だった。


 俺はその投稿を見て、相当なショックを受けたと思う。

 4年以上引きずった恋が、こんなにもあっさりと。音も立てずに崩れていく。

 俺はなんだか全身の力が抜けて、何もかもどうでもよくなってしまったような気がした。


 とりあえず体裁を保つためにいいねだけを押した。いいねがハートマークであることを愛情表現のように捉えていたから、少し躊躇われた。


 もう二度と彼女と再会することはない。

 今まで通りが続くのではなく、ただ現在が過去に固定されるだけ。


 そう気づいた俺は、半ばヤケになってサークルの適当な女の子に声をかけ、恋人ごっこのようなことをした。


 ただ一方的に紫苑への復讐のようなものがしたかっただけなのかもしれない。

 彼女を一途に想い続けた俺を捨てて未来へ進んでしまったことへの復讐。


 俺は新しい恋人とのツーショット写真をSNSにアップした。


 それから、紫苑は俺の投稿にいいねをつけなくなってしまっていて、気がついたら俺はフォローを外されていた。


 お互い新しい人生を歩み始めて、わだかまりも後悔も何もかも消え去ったはずなのに、一体何が後ろめたくてフォローを外したのか。



 ――もうクロラミンの匂いを思い出せない今の俺には、分からない。

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