共振

西川東

共振

 仕事終わりのEさんが、くたくたになって電車に乗ったときのこと。


 梅雨に入りかけた五月の下旬。

 その日の気候は、暑いといえば暑いが、涼しいといえば涼しい。なんとも微妙なものだった。


 座っているだけで肌にぬたっ・・・と張り付くような空気に、電車内のシートからする特有の黴臭さが混じり、Eさんは胸糞悪くなっていた。といっても、連日の激務からくる疲労には勝てず、シート席の端、そこにある手すりに体を預け、うつらうつらとしていた。


 その状態でどれほどの時間が経ったのか。突如、体ががったん・・・とゆっくりながらも、大きく上下に揺れた。


(地震か!?)と、一瞬で体が強張り、目が覚めてしまった。


 周りを見回すが、いびきをかいて寝ている中年男性、手元のスマホをいじる若者、談笑している学生ら、そして、いくつかの空席があるだけ。到底、地震が起きた雰囲気ではない。


 窓ガラスの向こうには、いくつもの明かりが横に滑って消えていく。いつも乗っている快速電車。急カーブなどない平坦な路線であり、電車になんらかのトラブルがあった様子もない。


 安堵すると同時に、あの質量を持った黴臭さが鼻にまとわりつく。

 せっかくの微睡みが途切れてしまい、晴れ渡った脳裏には今日あった嫌なことばかりが浮かんでくる。

 そんな状態で、いま電車はどのあたりにいるのか、もう一度周囲を確認する。


 すると、自分と向かい側の席、腕を組んだまま俯いている女に目がいく。


 暗い深紅色のカーディガンに、これまた暗めの紺色のチノパン。

 微かに船を漕いでいる女の顔は、黒のミディアムヘアーで隠れていた。そして、その挙動に合わせて髪が小刻みに揺れている。


 この女は全体的に地味な色合いなのだが、空席の隣、ライトグリーンのシートのうえに座る彼女はいやに目立つ。そして、ゆらゆらとしている黒い頭部に、Eさんは自然と目を引き付けられた。


(自分は起きてしまったのに、気持ちよさそうに眠っているなあ)と、Eさんは嫉妬の目を彼女に向けていた。


 しかし、見つめるだけで、眠っている彼女がなにか反応することはない。

 電車の振動で左右に揺らされ、もうひと眠りしてみようかと考えているEさんをよそに、女の頭は少し大きく、こっくり、こっくりと、上下に揺れ始めた。


 そのとき、Eさんは見ているものに不安を覚えた。


 なにか目の前の光景に違和感がある。


 その正体に気づけないまま、揺れる女を見つめ続ける。


 なんともない、ありふれた光景のはずなのに、うすら寒いものを感じる。


 やがて女の挙動は、鹿威しのように、ゆっくりだが大きなものになった。


 かっくん・・・。かっくん・・・。かっくん・・・。


 なんどもその軌跡を目で追っているうちに、ひとつの答えが脳裏に落ちてきた。


(この女、上下に揺れるだけで、左右には全く揺らされていない・・・!)


 気づいたときは、女の挙動は「船を漕ぐ」などというものではなく、ひざ元から天井へと、勢いよく振り乱すものになっていた。なのに、その顔は黒髪で隠れているのか、黒い線状になってみることができない。


 そんなモノから目を離したいのに離せない。


 Eさんは、そのままガクガクと体をふるわせていた。ソレが振り乱す髪で風が舞うわけではない。なぜだかとても寒いのだ。


 ソレは、明らかになんらかの悪意を持ってこちらにアピールしている。そして、Eさんの頭のなかは恐怖心でいっぱいだった。それは、先ほどまで覚えていた違和感や、ソレの異様な挙動自体から来るものではない。


 いくら振り乱しても顔の見えないこの女。


 動きが止まったとき、いったいコイツはどんな顔でこちらを覗いてくるのか。


 そんなEさんの考えをソレは読み取ったというのか、一段と激しく髪を振り回し続ける。


 ばっさ、ばっさ、ばっさ、ばっさ、ばっさ、・・・と絶え間なく乱れる髪の嫌な音が、心臓の高鳴りすらも打ち消して、鼓膜に響き続ける。




 もう気が狂いそうで叫び声を上げそうになったそのとき


「ねえ。すごいでしょう。あれ」


 耳元で若い男のいたずらっぽい囁き声がした。


 思わず隣に体が向いたが、そこは空席だった。


 一つ座席を飛ばして、スマホをいじる女性が座っている。


 はっ、と目の前をみると、向こうのシート席には誰座っていなかった。

 そして、暗闇が広がる窓に、青白い顔をしてガクガク震えているEさんと、他の乗客の姿が映っているだけだったという。

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共振 西川東 @tosen_nishimoto

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