#26
「水族館楽しかったね」
ホテルに戻って、新しいシーツのベッドに飛び込む。
結局、午後のお出かけ先には私が前から行きたがっていた水族館が選ばれた。
廃線になった地下鉄路線を再利用した水族館で、線路の上を泳ぐ亀や駅員室の中を群れて泳ぐ鯉、透明な改札の中に浮かぶクラゲ。
ちょっとシュールで非現実的な光景を前にすると、今日の出来事も悪い夢として忘れられそうな気がした。
「まだこれだけで満足してもらっちゃ困るわ」
となりで同じようにゴロゴロしているカエデがふふっと笑い、
「今夜の晩御飯ここだから」
と、あるレストランの位置情報が覆現で送られてくる。
「高いから諦めたところじゃない」
カエデが送ってきたレストランは、近くの高級フレンチだった。
「宿泊キャンセルしたからお金に余裕はあるわ。今日明日とパーッと使って帰りましょ」
「でも」
「残念だけどもう予約しちゃったから。キャンセルしてもいいけどそしたらキャンセル料はアイ持ちね」
思い切りのいい決断だったけれど、落ち込んでいた私に配慮して勝手に決めてくれたのだろう。
「ありがとう」
「予約の時間までまだ間あるから、それまで明日の予定決めましょう」
明日の遊園地をどう回るか、ふたりであーだこーだと言い合っていると、カエデが身を震わせ、急に苦々しい顔をした。
覆現に連絡が来たのだろう。
「相手はあの男」
私が尋ねるとカエデは首を振り、「お母さんもいる」と言って耳元を触り、コールを切ってしまった。
「いいの」
私の質問に答える前に、もう一度かかってきた。
カエデはもう一度、切ろうとしてから、
「アイちゃん一緒に出てくれない」
と尋ねた。
「いいよ」
カエデが私を覆現の仮想空間に招待する。
「カエデちゃん」
そう呼びかけたのはカエデの母親。
何度か見かけたことがあるけれど、いつもはスーツでぴっしりと決めていたのに、今回は気軽に着れそうなワンピースに髪を簡単に後ろで纏めただけで印象が違った。
「アイと一緒でいいなら話だけは聞いてあげる」
カエデ精一杯の冷たい声。
「ありがとうね。ほら、フウマ」
母親に促され、
「俺が悪かった。」
とフウマが謝罪する。
カエデは黙ったまま。
「本当はちゃんと会うつもりだった。けれど長年追っかけていた疑惑を暴く切っ掛けが入りそうだと思ったら、」
娘が取り付く島もないを見て、フウマが焦って色々と謝罪を並べるけれど聞いてられなかった。
「アイちゃんが悪いってこと」
「そうじゃないんだが」
下手な言い訳を続ける彼に自分までイライラしてきた。
「カエデ。こんな奴の話を聞く価値なんてないんじゃない」
私の言葉にカエデはうなずきつつ、
「最後にこれだけ聞いておきたいわ」
と、フウマを見据え尋ねた。
「私の名前に理由はあるの」
その問いかけを聞いて私の心臓がキュッと痛んだ。
デジャブだ。
意味のない一六桁のランダムに選ばれた文字列から、ダジャレで決められた私の名前。
「俺が名付けた」
カエデの問いかけに、フウマは静かにそう答えた。
「俺とノゾミが大きくしたもみじの会の名から取ったんだ。モミジだと老いているようなイメージになるかと思って、カエデにしたんだ」
「じゃあなんでIDにCAEDEって入ってるの」
「当時は妊娠で生まれた子のIDは出産後に割り当てられていて、下の六桁は自分たちで決めれたんだ。カエデという名前にしようと決めた後、その名称がちょうど十六進法のAからFで表せることに気付いて、面白いと思ってIDにもCAEDEと入れたんだ」
「そうなんだ」
自分の名前の由来を聞かされて、カエデの表情が柔らくなったように思えた。
「長い間、カエデのことを省みなかったのはまったくもって俺が悪かった。厚かましい願いかもしれないが、一度だけでもいいから家族三人で夕食でも食べに行かないか」
フウマが手を差し伸べる。
その薬指にきらりと光る指輪。
覆現の仮想空間では、あらかじめスキャンされた3Dグラフィックスは距離でほやけることもなくどこまでも精細に描写される。
その銀の指輪にもみじの意匠が彫られていることも、彼の脇で心配そうにふたりの会話の行方を見つめるカエデの母親の薬指にも同じ指輪が輝いているのもはっきりと私の角膜に焼き付いた。
私は胸の痛みに耐えながら、ああこれが家族というものなんだろう、とぼんやりと思った。
祝福された出生は幸せな幼年期を約束しない。
ふたりがどのような思いでカエデを産んだにせよ、カエデにとってふたりはいい親ではなかった。
カエデの物心がつく頃には、ノゾミはカエデを連れて福岡に。フウマはかつての成功を忘れられず東京に執着し、ノゾミもカエデが望むほどには彼女に愛を注がなくなった。
けれど、今回のカエデの向こう見ずな東京旅行が彼らに再びカエデへの関心を引き起こした。
子はかすがい。
彼らにはつながりがある。カエデを中心とした血の繋がりが。
私と違って。
カエデはまだやり直せるのだ。
フウマはひどい奴だ。
娘との約束よりも、自分のやりたい事を優先する親失格の男。
カエデが一緒に食事をしたって親子の関係を取り戻せるかは怪しい。
けれどチャンスはある。
スタートラインに立つ可能性すらない私が彼女の邪魔をしてはいけない。
「行ったらどう」
カエデの背を押すように、私はそう言った。
「いいの」
まるで悪いことかのように、恐る恐る伺いを立てるカエデに、私は優しい笑みで肯定の意を示す。
今、私はちゃんと笑顔を浮かべているだろうか。損なわれた家族の絆を取り繕おうと試みる友人に向けるべき、優しく思慮深い微笑みを作れているだろうか。
いくら望めど、永遠に手に入らぬ宝を見せつけられ、嫉妬に狂う醜い餓鬼の表情になっていないだろうか。
「明日の遊園地は全部カエデのおごりね」
私が茶化して言うと、カエデは屈託のない笑みを浮かべた。
「もちろん。明日はちゃんと埋め合わせするからね」
「じゃあ私はご飯前にシャワー浴びたいから先抜けるわ」
礼を言うカエデの母親に会釈を返し、覆現から抜ける。
ポーチから化粧水だけを取り出し、バスルームのドアを勢いよく閉める。
しわくちゃになるのもかまわず服を全部脱ぎ捨て、シャワーの蛇口を全開に。湯の溜まってない空っぽの湯船の中、体操座りでただ放心してシャワーの雨粒を浴びるがままに任せる。
「アイちゃん」
湯舟にお湯が半分ぐらい溜まるほどの時間が経った後、すりガラスのドアの向こう側からカエデに声を掛けられた。
「ん、なに」
「ありがとうね」
「何度も言わなくてもいいわよ」
「うん」
「嫌なことあったらすぐ戻ってくるのよ」
口からその言葉が離れたその瞬間、自分の言葉の裏に隠れた醜い願望に恥ずかしくなる。
やっぱり私は心の裏では食事会が失敗すればいいと思っている。
醜い心が隠れている。
「それは心強いね」
カエデは素直に受け取ってくれたようだった。短い笑い声の後、「じゃあ行ってくるね」とすりガラスの向こう側でカエデのシルエットが手を振る。
扉が閉まり、電気錠が閉まる音が部屋に響く。
「やっぱり血は水より濃いのかしら」
無意識に覆現で動画を開こうとし、もうあの動画は全部消してしまったことを思い出す。
「バカみたい」
シャワーの蛇口を閉める。
何も考えまいと念じながら目を閉じ、湯船の中に頭を沈めていく。
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