ロマンチック・バース・イデオロギー

#10

「子ども、欲しくないかい」


 彼氏からそう提案されたのは、二十歳のクリスマスイブ。横浜のホテル最上階の中華レストランでデザートの杏仁豆腐を食べてる時だった。


「どういう意味」


 元々はティラミスが有名なイタリアンに行く予定だったのが予約ミスで急遽中華になったものだから、ちょっとばかし不機嫌になっていた私はぶっきらぼうに返してしまった。


「あ、もちろんノゾミに産んでほしいって言ってるわけじゃないよ。義胎妊娠で作らないかって話」


 私の粗雑な返しも気にせず、微笑を浮かべたままの彼。


 作らないか、って言い方は嫌だな、と思った。


「どうやって育てるの。私たちまだ学生なのに」


 彼は驚いたと言わんばかりに身をのけぞらせた。


「来年から国が養育施設を作ってくれるってニュース見てないのかい」


「知らないけど」


「パレンス・パトリエ制度だったかな。カップルが希望しさえすれば、義胎妊娠もタダでその後も引き取るまで養育してくれるんだって」


 彼の言うことが信じられなくて、覆現でビューを開いて調べてみたら本当だった。


 パレンス・パトリエというのはラテン語で国親思想を意味する言葉らしい。

 相応しい親の保護を受けることのできない子どもたちのために国家が親としての役割を果たすことで子どもたちの更生、ひいては社会の安定を果たすことが必要であるという思想。


 パレンス・パトリエ制度はこの思想の発展で、子どもを欲するけれど、身体的・精神的・社会的理由から子どもを養育する能力を満たさない成人のために、義胎妊娠の費用を負担したり、生まれた後の子育てを支援するための制度。

 元々国や都道府県、市町村がバラバラに実施していた様々な子育て支援を一本化し、使いやすい支援制度を整備するというのも目的だけれど、それとは別に特に目玉としてニュースで取り上げられていたのは、特別養護施設、通称パトリエで、各都道府県、政令指定都市に設置されたこの施設では、両親が十分な養育能力を身に着けるまで子どもを代わりに養育してくれる。

 必要なのは親となる成人の意思表示だけ。さまざまなニュース記事が現時点で子育てする基盤を持たない人々にも子どもを持つ道を開く政策だと称賛していた。


「パトリエは最大一八歳までの養育を想定している、ってそんなの成人しちゃうじゃん」


「すごいだろ」


 呆れて思わず飛び出した言葉だったのだけれど、彼は驚きの言葉だと受け取ったらしい。


「なんで産みたいの」


 まるで男女逆の質問だなって、尋ねながら苦笑いする。


「なんでって。学生の間でいられるのは後二年しかないんだから暇なうちに子どもを持っていれば、一番かわいい時間を一緒に過ごせるだろ」


 彼の顔には、そんなの当たり前の事だろと書いてあるようだった。


 たしかにそれもありかもしれないと一瞬考える。


 働き出してから産むとして、育休はどれくらい取るものなんだろう。


 その分だけキャリアは遅れるだろうし、その後も色々と子どもの都合に合わせないといけない場面は多く出てくるに違いない。


「私はあんまり乗り気じゃないかな」


 けれど私はその気にはなれなかった。

 明確な理由があったわけじゃない。でも説明できないけれども、なんとなくそれは筋を違えているような、そんな嫌悪感を覚えた。


「そうかぁ」


 私が乗り気でないのを見て彼は露骨に残念そうな態度になったけれども、それ以上なにか言ってくることはなかった。


 その晩のセックスは気持ちよくなかった。


 いつもに増して早かった彼は自分が気持ちよくなったらそれっきり。

 私も中に入れられる感覚はあまり好きじゃないからそれはそれでいいのだけれど。相手の肌触りが伝わるキスや抱擁をもっとしてほしかったのに、出すものを出した彼は事が済むとさっさと背を向けて寝てしまった。

 文句のひとつも言えなかった私はすっかり寝付いた彼の背に指を添わせて「バカ」と伝わらない指文字を描いた。


 それから一月後、私は振られた。


 振り文句は「君とこれから先も一緒にいる未来が見えない」ってありふれたもの。

 振られたのは初めての経験でちょっと衝撃的だったけれど、クリスマス以降相手の気持ちが離れつつあるのは察していたし、価値観の違いで別れてしまうのは仕方ないなとも思った。


 けれども春を迎えた頃、SNSで元カレと新しい彼氏が一緒に義胎の前で映っているムービーを見た時には、ふさがりかけていた傷跡をめくられたような気持になって、反射的に目を開き覆現を切ってしまった。


 喪失感は失ってしまったものを美化してしまう。


 もし私があのクリスマスの提案を受け入れていればこのムービーに映っていたのは幸せな私と彼だったのかもしれないと思うと、なぜ彼の誘いを断ってしまったのか、自分の判断がまったくの間違いだったんじゃないかと疑いの気持ちを振り切ることができなかった。


 それから数日。いつまで経っても曇る気分を晴らそうと、講義の後、日の沈んだ街に繰り出して、ダンスホールへと赴いたのだけれども完全に失敗だった。


 かつてワルツは男女が抱擁し合うことからお上品な人々から顰蹙を買ってしばしば禁止されたと聞くけれど、覆現ダンスに比べれば社交ダンスなんて清楚極まりない交流だと思ってしまう。


 ダンスホールの隅っこで椅子に座って、ホールを眺める。

 ゲーミングカラーに輝く踊り場では、互いに抱き合った男女がまるで操り人形のようなぎこちないタップで踊り狂っている。

 いや、操り人形のような、という表現は正しくない、比喩表現抜きのマリオネットダンスだ。


 非侵襲性思考操作の応用で、自分の身体の操作権限を互いに渡し合い、相手の体で自分と踊る覆現ダンス。

 覆現の多知覚モデリングを介して双方の体性感覚が一度に自分のものとして混じり合う感覚は、互いに体の垣根なく交流するための賢いやり方なのだろう。覆現ダンスの相性がいい相手はセックスの相性もいいって俗説もあって、ダンスで意気投合した勢いのままホールを抜け出していくカップルの姿を何組も見た。


 こういう場なら、失恋をこじらせてる私でも勢いに身を任せれると思って誘われるがままに何人もの男と踊ったのだけれども、残念ながら五臓六腑に手を突っ込まれて引き出されるような気分が悪くなるだけの悪趣味にしか感じなかった。

 ホールに来てから三〇分も経ってないけれど、完全に気分は家のベッドに向いている。

 さっさと帰って、あったかいお風呂に入って、ベッドの中で、破局の勢いで買ってしまったエーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読破してみようか。


 うん、そっちの方がいいに違いない。


 決意し、入場料代わりのレモンサワーを飲み干したら帰ろうとグラスを傾けたタイミングで、相席にだれか座った気配がした。


「男難の相が出てるね」


 グラスから口を離し、断りの言葉を告げる前にそう言われた。

 元カレへのもやもやで荒れている内心を読まれたようでドキリとしてしまう。


「彼氏に振られたんでしょ」


 思わず、テーブルの向こう側の男を見つめる。


 几帳面そう、ってのが初印象。


 しっかりとスキンケアが施されてニキビひとつない顔の印象もそうなんだけれど、センターパートの髪型も淡いピンクの襟付きシャツも黒スキニーも、それが好きだからそうしているんじゃなくて、相手に好印象を与えることができるからそうしているような、そつのない身だしなみ試験があったら一〇〇点満点を取りそうな装いは内面の几帳面さを表しているようだった。


 今どき珍しい眼鏡型の覆現グラスの奥の眼と視線が合う。

 丸眼鏡の奥の瞳はどこかで見たことがあるようで記憶をめぐらせると、SNSで見た元カレの彼氏に似ている気がして心がかすかにざわついた。


「お、正解だ」


 彼はそう言って、自慢げに顎をのけぞらせる。


「なんで」


「こんな場に来て、不服そうにサワーをあおってるのは失恋がらみに決まってるさ」


 まったくもってその通りだった。ぐうの根も出ない様を彼は笑い、「俺はフウマ」と自己紹介した。


「ノゾミです」


「じゃあノゾミ。そのクソ男とはいつ別れたの」


 まるで洪水のように言葉が溢れ出した。

 フウマは私のするまとまりのない話をうんうんとうなずきながら最後まで聞いて、


「ノゾミはロマンチック・バース・イデオロギーを信じていたんだね」

 と言った。


「ロマンチック・バース・イデオロギー」


 聞きなれない言葉を繰り返す。


「知らなくて当然。俺が作った言葉なんだから。社会学の言葉にさ、ロマンチック・バース・イデオロギーっていうのがあるんだ。恋愛、性愛、結婚。これらを三位一体の分かち難い存在と見なすイデオロギー」


「エッチしたら責任を取れってやつのこと。昔の考えよね」


「まあ二〇世紀の考えだよ。けれど、もっと昔は違った。結婚は家と家の結びつきで、個人的で自由な恋愛の延長線上に存在するものではなかったし、本妻の他にも側室や妾なんて存在が公に認められていた。男が多くの女性を囲うのは、せいぜい眉を顰められる程度でスキャンダルではなかったし、女性の方だって后と君主に仕える騎士の不倫関係が騎士道精神に基づくロマンチックな恋愛、ミンネとして宮廷詩人に謡われていた」


「源氏物語みたいな」


 受験の時に古典で読んだのを思い出す。なんでこんな浮気性の男が理想的な男として描かれているのかさっぱり理解できなかった。


「そうだね。時代によって、場所によって、さまざまな恋愛の形があり、さまざまな結婚の形があった」


 フウマは笑って私に同意して、


「けれど子どもの産み方はひとつだった」

 と言った。


「かつて性愛の結果として子どもが出来るのは当たり前だった。だってコンドームもピルもミレーナもなかったから。そして子どもを授かるにはセックスしなきゃいけないのも当たり前だった。シュメール人以外にとっては。イデオロギーを持ち出さずとも性愛と妊娠は分かち難く結びついていた。愛なき結婚、結婚を前提としない愛はあっても、性愛と妊娠が切り離されることはなかった」


「けれどもテクノロジーの進歩は両者を別々のものに分けてしまった」


 数か月前の破局を思い出しながら、つぶやくとフウマは肯定する様にうなずいた。


「今では適切な避妊を行えば妊娠の可能性のないセックスを楽しめるし、義胎によって互いに指一本触れ合うこともなく子どもを授かることができる。愛し合う夫婦の性愛によって子どもを授かるべきだなんて素朴な気持ちは、義胎妊娠が普及した現実とは乖離したイデオロギーに成り下がった」


「まあ、そうなんでしょうね」


 現代ではセックスをしなくても子どもを授かることができる。当然中の当然の事実を述べただけなのに、なんだか面白くなかった。


「膣外射精を試みたオナンは神の罰を浴びたけれども、現代ではむしろ避妊は好ましいもの、養育体制の整わない両親のもとに生まれる不幸な子どもを減らす望ましいものと見なされ、義胎妊娠は女性の健康を損なわないただしい産み方として称賛されるようになった」


 ただしい産み方。


 その言葉を聞くと、学生出産の提案を断ったときの元カレの表情を思い出してしまった。

 どう考えても自分の提案が賢いのに、なんで断るのかなあと困惑した失望の表情。


「フウマもさ、義胎妊娠がただしい産み方だと思う」


 グラスを指ではじきながら、思わずそんな質問をしてしまった。


「言葉には主語が必要だ。その元カレがただしいと思ったものとノゾミがただしいと思うものが違っても当然さ」


 彼はジョッキに半分ほど残ったシャンディガフを飲みほし、私を真正面から見つめる。

 目は据わっていて、なのにはっきりとした口調のまま、まるで講義をする先生のように言葉を続けた。


「義胎妊娠の誕生によって性の在り方を問うフェミニズムは必然的に変化した。かつてリベラル・フェミニズムが社会改革によって法的に男女平等を目指したように、テクノ・フェミニズムは科学技術によって身体的な男女平等を目指している。けれどそれは本来女性のみが有していた妊娠という神秘的な能力を国家に売り渡すことを意味する。持続可能な社会の実現のため、より早く親になるのがただしい生き方だと押し付けられたことにノゾミは嫌悪感を覚えたんだよ」


 フウマのその説明は私の胸の奥、細く深く穿たれた空洞にすっと染み渡った。雲のようにとらえどころのない感情の理由が分かった気がしたのだ。


「義胎妊娠が世に現れてから既に四半世紀。義胎で産むことがただしいとされる風潮の中でも、ノゾミや俺のように義胎が隠し持つ危険性を感じ取った人々は徐々に増えつつある」


 こんなナンパの場で、哲学者たちが云々してそうな小難しい話に耳を傾けるという体験が倒錯的だったのかもしれない。

 口説き言葉のひとつもなかったのにフウマのことをもっと知りたいと、そんな気持ちが湧きあがる。


「貴方は活動家なの」


 その質問にフウマはわざとらしく指を顎に当てて、

「単に女の子をひっかけに来ただけのナンパ師さ」

 と嘘くさいくらいに気障な答えでけむに巻いた。


「ナンパ師にしてはする話がむつかし過ぎるわ」


「違いない」


 彼は勢いよく席を立ち、掌を私に差し出す。


「せっかくダンスホールにいるんだからさ。一緒に踊らないかい」


 彼の白く多少骨ばった手をじっと見つめ、無言でうなずき、彼の掌に私の掌を重ねる。


 彼となら楽しいダンスが踊れる。そんな気がした。

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