君の心音を聞かせて

Garanhead

第1話 心音フェチな彼女とのプロローグ

「はい、息を大きく大きく吸ってー」


 俺の胸元で少女が囁きかける。

 言われた通りに肺を酸素で満たしていく。

 が、どうやらお気に召さなかったらしく、彼女はとんとんとんと俺の胸板を指でタップしてくる。


「そーじゃないんですよ、違うんです。違う違う違う」


 言葉は否定の連続であるが、色味は禍々しくない。彼女の声を色彩で現すのならばピンク色。品のないショッキングピンクではなく、梅の花のような薄色でもない。


「さては、透流那くん、しっかり息、吐いてませんね。どういうことですか、どういうことなんです? もう一度、呼吸法からやり直しますかあ?」


 俺、橘透流那(たちばなとるた)は連続してダメ出しを受けるも、不思議と嫌な気分にはならない。

 こちらの胸板に張り付くようにして耳を当てる少女。

 彼女からは何とも言えない甘い匂いがする。焼き菓子のような、果実のような、とにかく美味しそうな香りだ。

 加えてとてつもなく可愛らしい顔。

 学内でも有名で、一緒に隣を歩いていると、男女問わず視線が集まるのを感じていた。


 男子生徒からは「やばいあの子めちゃくちゃ可愛くない?」と話題にされ、女子生徒からは「やばいあの子ちょー可愛いんだけど」と騒がれる。

 そして、隣に俺がいると、決まって「誰あのオタクっぽい人」と聞こえるように呟かれるのだった。


 そういう時でも、俺は別に傷つかない。


 事実だし。


 俺は絞り出すように息を吐いてから、今度は胸いっぱいに空気を集めていく。


「あー、今の吐いた息はため息ですねー。ダメです。ダメダメダメ」


 ぴたりとこちらの胸板に耳を押し当てて、俺の呼吸を分析してくる。


「乱れてます。ひどく乱れました。心音の乱れは魂の乱れだと何度教えれば分かってもらえるんですか、透流那くん」


 彼女は呼吸を整えさせて、俺の心音……心臓の音を聞こうとしていたのだった。


「良いですか、透流那くん。今朝のことをもう一度思い出すのです。あの時の、小鳥の羽ばたきのように慎ましやかで、それでいてカブトムシの歩みのようにどっしりとしている、あの、あの時の胸の音!」


 パッと俺の胸元から耳を離すと、今度はずいっと小さな顔を寄せてくる。額と額が触れていた。彼女のまつ毛が、瞬きの度にこちらのまぶたを甘くくすぐる。


 色々な場所が触れ合って恥ずかしい。照れるしドキドキもする。でも、彼女との出会いを回想すると、どんな接触もままごとのように感じてしまうのだった。

 俺は記憶をたどる。

 彼女に言われた通り、今朝のことを。


 名前以外は平々凡々な高校生である、橘透流那。


 そんな俺と、学校でもその名を響かせる美少女。雑誌の読者モデルとして知られ、アイドルの事務所に所属し、時には声優としてアニメのエンディングにクレジットされ、ネットには隠し撮りされたプライベートの写真がごろごろしている、皆の憧れの存在……土岐野巳玖(ときのみく)。


 彼女との出会いと性癖について思い出してみる。今朝の記憶だ。呼吸がそれで整えば良いけれど。


…………。


 俺は高校までの道のりを地下鉄で通学していた。

 乗る駅から既に車内は満員。そこに自分の体をねじ込ませて、何とか高校の最寄り駅までを耐える。


 初日は学校に着くまでにヘロヘロになったが、今では軽い運動をこなした後の心地よい疲労感さえ覚えるくらいになっていた。


 今日はちょうどそんな生活を始めて一年が経過した日だった。


 三つ目の駅で珍しい顔が乗ってくる。


 クラスメートの土岐野だ。彼女はつい数日前から地下鉄通学を始めており、満員電車の中でもみくちゃにされていた。


「あーーーー」


 乗る時は後ろから続いてくる人に押しつぶされて。


「れーーーー」


 降りる際は一緒に出て行く人に弾き出されて流れて行く。

 何だか不憫だなとずっと思ってた。

 でも、悲しいけれどこれが首都圏なのよね。

 土岐野は同じクラスだ。しかも同じ時間帯に同じ電車の同じ車両に乗っているから、向こうも俺がいることに気がついているだろう。

 だからと言って言葉を交わすことはない。


 あちらからも声をかけてくる気配は無かった。

 俺も接点を作ろうとはしなかった。

 住む世界が違すぎて気軽に声をかけてはならない気がしていたのだ。


 が、ついに、今朝、きっかけが生まれてしまった。


「うわーーーー」


 いつものように土岐野は人の波に翻弄されていた。

 俺は座席の前の吊り革を手にしていたが、スペースの開いた扉前をキープしに動く。電車は揺れるので、体を預けられる場所があれば楽になる。狙うべきポイントだ。

 今日はそこに土岐野が流されて来るのを見た。

 とっさに俺は扉へと向かう足を止める。

 このまま行けば、土岐野はドアを背にした楽なスペースをゲットできるだろう。

 たまには譲ってやるか。


 そんな意図があったのだが、俺の隣りからおじさんが背中を越えて飛び出してベストポジションを確保しようとした。


 反射的に俺は横に移動した。通せんぼを疑われないようにさり気なくだ。

 そうなると、俺はドア前に向かってきた土岐野とぶつかることになり。


「おわーっとぉ」


 素っ頓狂な声を上げて土岐野は俺の胸へとヘッドバッドをかましてくるのだった。


「…………!」


 かくして俺は扉に叩きつけられるように吹き飛び、そのままの勢いで土岐野も突進してくる。

 結果、俺は「逆カベドン」のような形になって、扉を背に彼女と密着することになる。

 脱出を試みる。だが、車両の扉が閉まり、人の壁が飛びかかるように俺を今の位置に押し込めてきた。


「…………」


 俺と土岐野は超至近距離でくっついたまま、次の駅までこの体勢を保つ他なくなってしまった。


 まずい。

 まずい、まずい。

 これは本当にまずい。

 土岐野は体の前にリュックを抱えていた。なので、身体的な接触は避けられていた。

 だが、身長差が仇になる。

 彼女の小さくて整った顔が、俺の胸板に押し付けられていた。

 かなり強く密着している。

 最初は土岐野の額が面でぶつかっていたのだが、痛いと思ったのか姿勢をずらして片側の耳をくっつけるような格好になった。


 早く次の駅に着いてくれ。そんな思いで胸があふれる。

 おおよそ三分間か四分間、土岐野の横顔がべったりと俺の胸の中心にくっついていた。不快だろうな。不快に決まっている。

 これもまた不幸なアクシデントの一つと受け入れてくれ……。

 俺がそう願っているうちに電車は次の駅に止まり、少しずつ人が降りていく。土岐野も早く俺から離れた方が良いよ。そんな風に心のなかで思っていると、現実は全く違う展開を見せるのだった。


 彼女は俺の胸の中でくるりと顔の位置を変えて、こちらを下から見つめてくる。長いまつ毛で瞳が隠れそうになっていた。


「うっ……」


 まるで俺は蛇に睨まれた蛙。

 実際は美女に見つめられたオタク。


「あの、あなた、私と同じクラスの人でしたよね。名前は透流那さん、ですよね?」

「き、記憶力良いんですね」

「クラスメイトの顔くらい、覚えますよちゃんと。もしかしてからかってます?」

「いや、俺みたいなダンゴムシのこと、眼中にないと思ってた」

「心配になるくらい自己肯定力が低いですね……」


 悲しそうな顔で見つめられると、何故か嬉しくなってしまう。どうしてだろう。


「っと! 降りましょ! 透流那さんこの駅で」


 車外へと続く人の流れが弱まってきて、土岐野は慌てて俺の腕を掴んだ。


 しかし、ここは学校の最寄駅ではない。

 どういうつもりかと考えるが、熟考する必要さえなかった。明白ではないか。彼女は俺を駅員に突き出すのだ。痴漢か何かの罪で。

 素直に大人しく従った。

 ホームに出てしばらく人気が少なくなるのを待っていたのだろうか、それから土岐野は俺をしっかり捕まえたまま立ち尽くしていた。


「あの……?」

「伝えたいことがあります透流那さん」


 ホームを見回しながら土岐野は告げた。


「とても電車の中では言えない、大切なことでした。けれど、ここでもちょっと恥ずかしいですね。人が見ています」

「大切なこと? 俺を警察に引き渡して、それから学校で俺の非道を二時間映画の尺で話しまくるんじゃないのか」

「人生を悲観しすぎでは? 場所を変えましょう」


 俺の腕を再びすくい上げるように掴んで、土岐野は駅から外へ出ようとする。

 伝えたいことって何だ?

 それに、「人が見てる」って話してたけど、ホームに残ったのは十人くらいだった。それなら別に目立たなくて良いんじゃないかと思うけど、彼女はそれを嫌がったのだ。


 一体何を告げられるのか。

 それから駅前の公園に引っ張られてくる。

 立ち寄ったこともない場所だ。ベンチや茂みや湖のほとりやらをぐるりと回る。


「ダメですね。人が見ています」

「いやいや、誰ともすれ違わなかったよ?」

「それなら、人が見ている気配がします」


 過剰過ぎでは?


 さらに歩いて街中へ。繁華街から人気のない路地裏へと向かう。怪しい雰囲気の場所だ。人の多い通り少しだけ離れただけなのに、静けさを感じる。

 またしても土岐野は首を振った。


「ダメです。違います。ここでもありません。こんなところじゃ恥ずかしくて言えません」


 土岐野は顔を赤らめて涙目になっていた。


「それとも」


 スカートの端を掴んで息を荒くすると、一気に距離を詰めて俺を見つめてくる。


「本当にここで聞きたいと、どうしても言うのなら、恥ずかしくて心臓を吐き出してしまうかもしれませんが、お話ししますけれど……。その、我慢できませんか?」


「いや、学校に遅刻するよ?」


 と、冷静に指摘するけれど、胸中は穏やかではない。顔を近づけられるだけでこちらも心臓が飛び散りそうになるのだ。


「がっ」


 土岐野はよろけるように後ろへと下がり。


「こう????」


 そして、再び額をぶつけるくらいの勢いで、突撃してくる。


「学校? 学校と言いましたか透流那さん。この私の一世一代の告白よりも、学校が大切なのですか? だとしたら、私は悲しく思います。とても悲しく思います」

 怒涛の勢いで捲し立てられてしまった。


 それから、俺は逆らう気も起きずに、様々な場所を連れ回される。ビルの屋上やカラオケボックスの中、ネットカフェの個室……。しかし、どこに足を運んでも彼女は何も語り出さないのだった。

 そこまでして俺にだけ伝えたい事実がある。

 そのことに畏れ多さを感じていたが、いい加減面倒になってきた。

 やっとの思いで土岐野は理想の場所を見つけた。


 牧場だ。

 広い放牧地の真ん中。


 牛たちは牛舎にいて、留守になった草地だ。周囲は山に囲まれていて人の気配はない。まるで世界の中心に来たような気分だった。


 そんな場所で俺と土岐野は向かい合っていた。


「これから話すことは他言無用。あなたにしか話しません。だから、あなたしか知りません。もし、他の誰かがこのことを知っていたら……私はどうなるか分かりませんよ」

「恐ろしいことを言うね」


 やけに見晴らしのいいこの場所で、土岐野は覚悟を決めたようだった。何度か呼吸して俺の目線に、その澄んだ瞳を真っ直ぐに合わせる。

 な、何を告白されるんだ……?

 期待と不安が半分ずつ。

 そして、彼女の言葉を受け止めた後、俺はどうしたらいいのか。そんな恐れが加わってくる。

 だが、土岐野はこちらの心の準備などまるで考慮していないようだった。さんざん自分は俺を振り回してガチガチに準備したくせに。


 スッと息を吸う音が聞こえて。


 土岐野は告白する。


「実は私……心音フェチなんです!」



 何それ?


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