7日目①
「……吐きそうだわ」
「大丈夫ですか? 少し馬車を止めましょうか」
「いいえ、大丈夫よ。別に酔ったわけじゃないから」
馬車の中で、アニーはげっそりとした様子でサラに答えた。吐きそうなのは、緊張からだ。
ソフィアとアニーが入れ替わって七日目。今日は入れ替わりの最終日であり、エリオットとの見合い最終日でもある。
ダグラス伯爵邸までは少なからず距離がある。パーティーは日が落ちてから行われるが、馬車は昼過ぎにはオズボーン男爵邸を出発していた。馬車の中にはアニーとサラ、それにフィリップが、外には警護のためノアと数名の護衛が同行している。
「なに、気負うことなどない。昨日のエリオット殿の様子を見れば、なかなか好感触だったではないか。あとは今日のソフィアの美しさを見れば、ダンスに誘わぬ男などいまい」
うんうん、と誇らしげに頷きながら、フィリップはまるで自分が作り上げた傑作を見る目でアニーを見た。
今日のパーティーは夜会であるため、ソフィアの美しい肌を惜しげもなく晒すように肩も背中も大きく開いた艶やかな赤のドレスを纏っていた。髪は綺麗にまとめ上げ、エリオットから贈られたバラの髪飾りをつけている。町の露店で買ったそれは夜会の装いには少々安物かもしれないが、贈り物を身につけていくことはマナーの範疇だろう。初日につけていたものよりも豪奢なダイヤとルビーのネックレスに、揃いのイヤリング。結構な重さがある、とアニーはどうでもいい知見を得た。丁寧にサラに化粧をされた顔は違和感があるが、崩さないように決して触れるわけにはいかない。
「そうだ、出席する顔ぶれの紹介もしておくか」
「今言われても、覚えられませんよ。とにかくエリオット様と踊ることしか」
「本命は見合いとはいえ、パーティーは社交の場だ。できるなら他の家とも繋がりをつくっておきたい」
「無理言わないでください」
「聞き流してもいいから、聞くだけ聞いておいてくれ。まず外せないのがウォートン侯爵家。嫡男のギリアム殿が……」
結局、ダグラス伯爵領に入るまで、延々とフィリップの貴族紹介は続いた。アニーはそれを取り繕うことすらできず、終始うんざりとした顔で聞いていた。
ダグラス伯爵家の敷地に入ると、他にも馬車がいくつも見えた。あれは全て、パーティーに参加する家のものだろう。アニーの緊張が増していく。
馬車に乗ったまま門を潜り、エントランス前の開けた場所まで進み、そこで案内されるままに馬車を降りた。高いヒールをかつりと鳴らして、フィリップのエスコートの手をとる。
(……大きい)
見上げたダグラス伯爵邸は、オズボーン男爵邸の五倍はあろうかという広さだった。E字型のオーソドックスな屋敷だが、壁面の彫刻やランタンタワーなど、各所に意匠がこらされている。
サラとノアとは、ここまでだ。今日はこのまま伯爵邸に宿泊するため、二人も待機はしているが、ホールの中までは入れない。そのことに不安を抱きながらも、ここから先は一人で頑張らねば、とアニーは意識して胸を張った。
ダグラス伯爵家の紋章が掲げられたエントランスを潜り抜け、ホールへと歩を進める。意を決して足を踏み入れると、にわかに周囲がざわついた。そのことにアニーは怯みそうになったが、その視線が自分に向けられていること、頬を紅潮させた男性の様子に、すぐに合点がいった。できるだけ余裕があるように、ゆったりと微笑んでみせる。どこからか、ほぅと恍惚の溜息が聞こえた。
ホールの中は、別世界だった。少なくとも、アニーにとっては。眩いほどのシャンデリア。その光を反射する真っ白なダマスク柄の壁紙。ベルベットのカーテン。奥には生演奏用の楽団。会場には色とりどりのドレスを着た貴族女性たちが、テールコートの貴族男性にエスコートされている。
その目も眩むような景色の中で、ひときわ輝いているのが自分だということに、眩暈がした。パートナーの目を奪われた女性の嫉妬の眼差しが突き刺さる。これだけの貴族女性を前にしても尚、段違いの美貌で圧倒できるのがソフィアという女性なのだ。
ここまできたらもう、本当に性格などどうでもいいのでは。ダグラス伯爵家に拘らずとも、侯爵だろうが公爵だろうが、魅了された男性から適当に選べばいいのに。
アニーは役目を放棄したい衝動に駆られたが、フィリップがすぐ横にいるのにそういうわけにもいくまい。胸中で吐き出すにとどめた。
「ソフィア嬢!」
誰が最初に声をかけるか。周囲が牽制し合う中、真っ先に声をかけてきたのはエリオットだった。
「エリオット様。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
優雅に礼をしてみせたアニーに、エリオットは嬉しそうに微笑んだ。
「こちらこそ。今日はまた一段と美しい」
すっとエリオットの手がアニーの髪に触れた。
「……髪飾り、つけてきてくださったのですね」
「ええ、もちろん。エリオット様からの贈り物ですもの」
アニーの模範解答に、エリオットは少年のように頬をほころばせた。
(なんて素直な人)
アニーは余計なお世話ながら心配になった。明日には、この体にソフィアが戻る。この人は、果たして熟練の手練手管を持つソフィアに転がされずにやっていけるのだろうか。
アニーとエリオットが話していると、楽団が演奏を始めた。周囲がぱらぱらと踊りはじめる。それを見て、エリオットがすっと手を差し出した。
「ソフィア嬢。よろしければ、一曲お相手願えませんか?」
アニーは目を丸くした。事前に聞いていた話では、ダンスを申し込まれたら婚約成立、だったはずだ。だからてっきり、このパーティーでのアニーの振る舞いを見て判断し、申し込まれるなら終盤だとばかり思っていた。
「……よろしいのですか?」
戸惑いから、思わず確認してしまった。聞き返すなんて失礼だっただろうか、と動揺するも、エリオットは気にした風もなく頷いた。
「もちろんです。私は、昨日の時点で既に心は決めていました。今日は家族への紹介も兼ねて、純粋にパーティーを楽しんでいただけたらと。それに……」
照れたように眉を下げて、エリオットは続けた。
「あなたの一番最初のお相手を、他の誰にも譲りたくないのです」
アニーは、胸がぎゅうっと締めつけられるのを感じた。この感情は、なんだろう。絆されたのか、罪悪感か、それともこの美しい人に恋をしたとでもいうのだろうか。
「……喜んで」
全ての感情を隠して、アニーは微笑んで手を取った。
ホールの真ん中に歩み出て踊り出した美男美女に、周囲が注目する。これだけの視線の中で、ミスは許されない。アニーは頭の中で繰り返し練習のステップを思い出した。
――『私を見てください』
ふっと耳に蘇る声に、アニーの視線がエリオットへ向く。そう。そうだ。相手を、見なくては。
アニーがエリオットに身を委ねるようにすると、彼は難なくエスコートしてみせた。二人の微笑みが交わされる。自分の姿を客観視することはできないが、周囲の反応を見れば成功しているのだろう。額縁に飾られた絵画でも見るような視線だ。
無事一曲踊り終えてお辞儀をすると、周囲から拍手が巻き起こった。内心はやり切った気持ちでいっぱいだったが、おくびにも出さずにアニーは笑顔で答えた。
ダンスが終わると、エリオットはアニーとフィリップに家族を紹介した。そこでの会話内容は正直ろくに覚えていない。家族間のことや今後のことについては、アニーは口を挟めない。そこからはソフィアの管轄だ。会話の主導はフィリップに任せて、アニーは控えめに振る舞った。
暫く歓談した後、伯爵たちは他のゲストにも挨拶をするためアニーたちから離れた。それを見計らったかのように、アニーへ次々とダンスのお誘いがかかる。正直役目は果たしたのだし、あとは断ってしまいたかったが、フィリップからはできるだけ顔を売るように言われている。笑顔の仮面を貼りつけて、アニーは貴族たちの相手をした。
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