6日目②

 腹ごなしにと徒歩で町はずれの川辺に向かい、二人は川べりに腰をおろした。もちろん、下にはハンカチを敷いている。

 川のせせらぎを聞いていると、少し心が落ち着いた。息を吐いたアニーに、エリオットが様子を見つつ声をかけた。


「先ほどの店で、何が?」

「……オーナーが、ナダロア嫌いだったのですって。それで、ノアの料理が通常より少なくされていたのです。だから私が抗議を」


 アニーの言葉に、エリオットは目を丸くした。


「この国では、人種差別は禁じられているはずですが」

「そうですわ。だというのに、偏見の目というのは残っているものなのですね」

「そうか……。気づけずに申し訳なかった」


 エリオットが痛ましい目でノアを見たが、ノアは平然として答えた。


「いえ。慣れておりますし、あの程度は差別というほどのことはありません」

「だが」

「かつて褐色の肌をしている者は、店に入ることもできなかったそうです。それを思えば、今私は普通に食事も買い物もすることができます。生粋のアミールド国民と同じ扱いが受けられないことは、血筋が違うのですから当然です」

「それは違うわ!」


 声を荒げたアニーに、他三人の目が一斉に向いた。

 そのことに一瞬怯むも、アニーは意見を述べた。


「ノアは、あの店に入る資格があって、きちんと対価を払ったのよ。なら、その対価の分だけは正当なサービスを受けられるべきよ」

「……少々、意外ですね。昨日のあなたの意見を思えば、人の扱いは平等ではない、と言い出すかと」


 エリオットの言葉に、アニーは眉を寄せた。


「エリオット様、それは本気でおっしゃってますの?」


 アニーの勢いに気圧されたように、エリオットは体を引いた。


「良いですか。確かに身分の高い者や美しい者が優遇されることはあります。ですが、それは逆の者を虐げていい理由にはなりません」


 説教モードに入ったアニーに、エリオットは眉を下げている。しかし、昨日の経験からこれが主人への害となる行為でないと判断したのか、今日は伯爵家の護衛は動かなかった。


「店というのは、最低限提示した金額を支払えば、それと同等のサービスを提供する義務があります。100払えば100返る、それが絶対の基準です。優遇されるというのは、100払った時に150返ってくる場合がある、ということです」


 エリオットはおとなしく話を聞く体勢だ。アニーはそのまま続けた。


「例えば、先ほどの店で私は料金外の料理をサービスされましたね。これは、ウェイターに下心があったからです。美人とお近づきになりたい、身分ある人に気に入られたい。そういった思惑のもと、個人の裁量で可能な範囲のサービスを行う分には構わないのです。向こうは自分に利があるかもと期待して、自分の身を削っているのですから。利がない相手に同じサービスを与える義務はありません」


 下心、ときっぱり言ってのけたアニーにエリオットは少々たじろいだが、アニーはそれを無視した。


「ですが、料理を減らすということは、得るはずの正当なサービスに満たない、ということです。100払ったのに50しか返らない。では残りの50はどこへ? それは搾取です。怠慢です。対価と同等のサービスを提供できないなら、利用する側だって支払う義務はありません。50払えばいいのです」


 ふん、と息を漏らしたアニーに、エリオットは顎に手を当てて考えた。


「理屈はわかりました。金銭のやり取りが発生する場合なら、確かにそうでしょう。ですが、数字の絡まない日常で、人が人を差別するのは仕方のないことでしょうか」


 まっすぐな視線に、アニーは一瞬言葉を詰まらせた。胸がずくずくと痛む。


「……人の感情までは、制御できるものではありません。心中で何を思うかは、個人の自由です。ですがその行いは、法や意識によって変えていけるものだと思っております」


 立ち上がったアニーは、川のすぐ手前に立った。アニーの表情は、三人には見えない。


「例えば、私がこの川に転げ落ちたとして。ほとんどの方は助けてくださるでしょう。それは親切心からです」


 あるいはそれも下心かもしれない。美しい女性から感謝されたい。身なりの良い者から謝礼を受け取りたい。どのような思惑であれ、ソフィアなら、当たり前のように手を貸してもらえる。でも、それがアニーだったら。


「けれど、ひどく醜い、薄汚れた者だったら、触れることをためらうでしょう。溺れて死ぬような深さでもない。見て見ぬふりをしてしまうことは、責められないと思います。悲しいことですが」


 美しいものには触れたい。醜いものには触れたくない。それは人として当然持ち得る感情だ。程度の差はあれど、誰にでもある物差しの一つだ。そのこと自体を否定しても、何にもならない。


「親切は義務ではありません。強制もできません。けれど、加害は違います。もし川へ突き落としたら、それは明確な悪意をもって虐げています。差別をされるものは、その悪意に、加害に、憤っているのです。全く同じ扱いを求めているのではありません。足蹴にされることに、傷ついているのです」


 爪が食い込むほどに、アニーは手を握りしめた。その痛みで、はっと我にかえる。いけない。これ以上は、ソフィアの枠をこえる。


「ですから、加害を見かけた時は、どうか声を上げてくださいませ。それは加害なのだと周囲が言い続けることで、内心では気に入らなくても表に出す者は減ります。それがまず第一歩だと、思っておりますのよ」


 アニーは振り返って微笑み、そう締めくくった。これで、アニーの主張はおしまい。ゆっくりと歩いてエリオットの前に立ち、腰をかがめて顔を合わせた。


「暗い話になってしまいましたわね! もっと楽しいお話をしましょう。そうです、麦畑を見に行きませんか? 今頃が一番きれいな黄金色をしていますのよ」


 ね、と笑顔を作ったアニーに、エリオットは何かを堪えるような顔をして微笑んだ。




 日が暮れる前に、伯爵家一行は領地に戻ることになった。明日は伯爵邸でパーティーがあるからだ。エリオットはフィリップに挨拶をした後、共に見送りに立つアニーの前に来て、優しく微笑んだ。


「ソフィア嬢。二日間、ありがとうございました」

「こちらこそ、楽しい時間をありがとうございました」

「私は、あなたと話すと自分の視野が広がっていくように感じました。とても有意義な時間を過ごせたと思っています」


 エリオットの台詞に、アニーは内心ほっと息を吐いた。色々やらかした気もするが、概ね好感触のようだ。この調子なら、お断りはないだろう。


「明日のダンスパーティー、楽しみにしています」

「ええ。私も、楽しみにしていますわ」


 暫く見つめ合って、エリオットは名残惜しそうに馬車に乗り込んだ。

 馬車が見えなくなるまで見送ると、アニーはようやく深いため息を吐いた。


「うまくいっているようじゃないか!」

「……ええ、まあ、なんとか」

「怪しげな術に頼った甲斐があった。いよいよ明日は大詰めだ、よろしく頼むぞ」

「……謹んでお受けいたします」


 上機嫌のフィリップに、アニーは早くもげっそりとした気分だった。


 部屋に戻ると、疲れ切ったアニーを労わるように、サラが紅茶を淹れてくれた。


「お疲れ様でございました」

「本当に……疲れたわ」

「あと一日の辛抱です。頑張ってください」

「……そうね」


 あと一日。明日のダンスパーティーで、全てが終わる。結果がどうなったとしても、アニーはソフィアから自分の体に戻る。


「あなたたちとこうして話すのも、明日が最後なのね」


 しみじみと言ったアニーに、サラとノアは僅かに目を瞠った。

 二人はソフィアの使用人だ。フィリップも、エリオットも、関わった人たち皆。ソフィアでいた間の人間関係は、全てが白紙に戻る。そのことが、少しだけ寂しかった。


「二度と会えないということも、ないでしょう」

「アニーはただの町娘だもの。男爵家の使用人、それも令嬢の側近なら、あなたたちの方が身分は上よ。気軽に会えないわ」


 それに。会う気も、ない。アニーの姿では。


「……不躾なことを聞くようですが」


 珍しく、ノアが言いにくそうにしている。アニーは仕草で構わない、と促した。


「もしかして、あなたもナダロアの血を引いていたり、するのでしょうか」


 ノアの言葉に、アニーは目を瞬かせた。


「……どうして?」

「あなたの、言葉が。差別を受けていた側の言葉に、聞こえたものですから」


 アニーは目を伏せた。なんと答えたものか。

 自分のことを話して何になる。そう思う気持ちと、この二人には聞いてほしい、という気持ちがない交ぜになる。

 どうせ明日までの関係だ。なら、言ってしまってもいいかもしれない。


「私は、ナダロアとは無関係よ」


 アニーの返答に、ノアは少しだけ気落ちして見えた。


「でも、生粋のアミールド国民でもないわ」


 驚いた二人が、アニーを見る。何となく目は合わせられなくて、アニーは紅茶に視線を落とした。


「私の曾祖母はね、ナダロアよりもっとずっと東の国から来たの。旅芸人の一座で踊り子をしていた曾祖母に曾祖父が一目惚れして、生まれたのが私の祖父。祖父も、その息子である父も、見た目はアミールドの人たちと何ら変わりないのだけど……私には、曾祖母の血が濃く出てしまって。女だからかしら?」


 曾祖母には一度も会ったことがない。アニーが生まれる前に死んでしまった。だから、アニーの特徴が曾祖母譲りであることは、祖父から話を聞いただけだ。できることなら、曾祖母に会いたかった。異国の容姿で、今より差別意識が強い時代に、いったいどんな気持ちで暮らしていたのか。


「肌の色は黄味がかっていて、なんだかまだらに見えるの。髪と目は黒くて、ゴミを漁るカラスのようだって。鼻は低くて丸いし、唇も薄くて、平面みたいな顔をしているのよ。体も丸太みたいだって言われたし、全体的に凸凹がないのね。きっと、神様が彫るのに失敗したんだわ」


 自分の特徴をあげつらっていくと、泣きそうになる。周りの誰も、こんなじゃない。どうして、自分だけ。


「幼い頃からずっと不細工、醜いって言われ続けてきたの。父なんかは、私に店に立つなって言うのよ。パンが売れなくなるからって」


 父は、不器量な娘が恥ずかしくて仕方なかった。できるだけ隠しておきたかったのだろう。厨房での作業は手伝わせても、接客をやらせたがらなかった。


「そんなに、皆から嫌われるなら。いるだけで、不快にさせるなら。私なんて、いない方がいいんじゃないかって、何度も思ったわ。でも、母が」


 目を閉じて、思い出す。泣いてばかりのアニーを抱きしめて、唯一人の温もりを教えてくれた人。


「曾祖母を、曾祖父が見つけたように。きっと、私に価値を見出してくれる人が現れるからと。その時まで、決して諦めてはだめだと、言ったの」


 その言葉を思い出して、アニーは苦笑した。十七年間、誰一人としてアニーに好意を抱いた者はいなかった。もう嫁に行くのは諦めた方がいいだろう。母は結婚こそ女の幸せだと思っているが、アニーはそうは思わない。


「今はもう、そんな言葉を信じてはいないわ。居もしない王子様を夢見るほど子どもではないもの。でも逆に、バネにはなったわ。誰も私を救ったりしない。誰も私を好きになったりしない。なら、他人なんてあてにせず、私が私に価値を見つけるしかないんだって。身分が低くても、醜くても、最低限一人の人間としての尊厳は持っていていいはずよ。だってこの地に生まれ、育って、働いて、領民としての義務はきちんと果たしているのだもの。だから不当に扱われたら、当然怒るわ。それは私の権利よ」


 言い切って二人の顔を見れば、何とも言えない顔でアニーを見ていた。およそ、想像していた姿とは違っていたのだろう。そんな容姿の癖に大きな口を叩いて、と思っただろうか。それとも。


「……お辛いことを話させてしまって、すみません」


 きっかけを作ったノアが、落ち込んだ様子で頭を下げた。つきりと、胸が痛んだ。やめてほしい。まるでアニーが、憐みの対象であるかのようじゃないか。


「あなたの思いは、私にはわかりません。ですが、出自が異なっていて尚胸を張って生きようとする姿勢は、誇るべきものだと思います」


 アニーは目を丸くして、鳶色の瞳を見た。相変わらずあまり表情は変わらないが、その視線は柔らかく温かい。


「わたしも、容姿にはコンプレックスがありますから、気持ちはわからないでもないです」


 サラの声は、僅かに揺れていた。


「でも、あなたが言ったんですよ。容姿は頭脳や体力と同じ、才能だって。それなら、容姿が劣っていても、それは誰もが持つ欠点の一つでしかないはずです。他にいくらだって、長所が持てるはずです」


 そっけないと思っていたサラが、真剣な瞳で訴えかけてくれている。たったの数日間だったが、これほど親身になって考えてくれたことに、アニーは目が熱くなるのを感じながら微笑んだ。


「ありがとう、二人とも。二人に話せて、良かったわ。アニーに戻っても、忘れないわね」


 アニーの穏やかな笑みに、サラとノアは黙って礼をした。

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