3日目
アニーがソフィアと入れ替わって三日目。昨日よりは世話をされることにも慣れた。サラに身支度をされ、ノアにエスコートされ、家庭教師のレッスンを受ける。
何度も何度も頭の中でイメージしたテーブルマナーは、間違いこそなかったものの、やはりまだ慣れが必要だ。食器の扱いに慣れず大きな音を立ててしまい、アニーは顔を歪めた。
勉強も一通り目を通したとはいえ、頭に入っているかといえばそうでもない。やはり家庭教師の言葉は右から左へ。脳が理解する前に話が進んでしまう。もうこのあたりは付け焼き刃でいいのでは、とアニーは半ば諦めている。というか、ほとんど全てのことが付け焼き刃である。本物の目から見れば、そんなことはすぐにわかるだろう。であれば、あとはもう学ぶ気はある、という姿勢を見せるしかない。今まで十七年間何をしていたのか、と思われる可能性はあるが、そこはうまいこと誤魔化すしかない。
「今日のダンスレッスンは、実際にパートナーと組んでいただきます。ノア、相手を」
「かしこまりました」
内心で、えっと声を上げるものの、ノアは至って普通だ。今までも何度か相手役を務めたことがあるのかもしれない。
「失礼します」
手を取られ、背中に手を添えられ、アニーとノアの距離がぐっと近くなる。アニーは顔に血が上りそうになるのを必死で隠した。
いくら見た目がソフィアでも、アニーには男性経験がほとんどない。異性とこれほどまでに近づいたことなど、一度もなかった。ましてや、ノアのような美丈夫とは。
「ソフィア様! 腰が引けてますよ!」
家庭教師に指摘され、声にならない悲鳴を上げる。アニーのその様子をどう取ったのか、ノアは少しだけ目を伏せた。
「申し訳ありません。私がお相手では不愉快かもしれませんが、少しの間我慢いただけると」
アニーは、はっとして顔を上げた。鳶色の瞳と視線が交わる。
そうだ、この人は。ソフィアから、醜いと言われていたのだった。自分でも出自を気にしている風だった。引け目を感じているのかもしれない。
そうではない。そんなことを、気にしているのではない。
アニーは気を引き締めて、しゃんと立った。そしてまっすぐにノアを見つめたまま告げる。
「ごめんなさい。ノアみたいな素敵な人と踊ったことなんてないのよ。だから少し緊張してるの。でも、もう大丈夫」
自分の台詞に、じわじわと顔が熱を持つ。それでも、ノアが悪いなどと思ってほしくなかった。これは自分の問題だ。アニーがこなさなければならない課題だ。ノアは協力してくれているのだ。恥ずかしさは、消えない。消えないが、何とかする。大丈夫だ。
アニーの言葉を受けて、ノアは大きく表情を変えることはなかったが、心なしか呆けているようにも見えた。それを不思議に思う間もなく、家庭教師の声が飛ぶ。
「ではいきますよ! ワン、ツー、スリー」
カウントに合わせて、必死で足を運ぶ。いっぱいいっぱいなアニーに対して、ノアの方は慣れている様子だった。おぼつかないアニーをリードしてくれている。しかし、いくらノアの方が上手くてもアニーはド素人である。案の定、ノアの足を踏んだ。
「ご、ごめんなさい!」
「お気になさらず」
表情一つ変えないが、普通に考えてヒールで踏まれたら痛いに決まっている。アニーはソフィアの仮面も忘れて、半泣きに顔が崩れていた。
「ソフィア様」
アニーの様子を見兼ねたのか、家庭教師に気づかれない角度で耳元に口を寄せ、ノアが囁く。
「私は大丈夫です。何度踏んでも構いませんから、どうか堂々となさってください」
ただの気遣いの言葉だというのに、心地の良い低音に体がぞくりと震える。それを隠すように、アニーはきっと眼差しを強くした。
(照れてる場合じゃない。これはレッスン、レッスン!)
結局、何度足を踏んだかは覚えていない。
ダンスレッスンが終わり部屋を出たところで、アニーは青い顔をしてノアに詰め寄った。
「足! 手当てしないと」
「このくらい、何ということはありません」
「そんなわけないでしょ! 早くしないと、腫れるかも」
すぐにでもその場に膝をついて足を確認してしまいそうなアニーに、ノアは僅かに困った様子を見せながら、肩に手を置いて体を離した。
「わかりました、自分でやりますから。ソフィア様はサラのところへ」
「でも」
「次のレッスンに遅れてしまいますよ」
しぶしぶ、アニーは自室で待つサラのところへ向かった。
その後ろ姿を、ノアは戸惑ったような表情で見つめていた。
ダンスレッスンのドレスから別のドレスへと着替えながら、アニーはサラに先ほどの出来事を半ば愚痴のように話して聞かせていた。
「本当にもう、全然踊れるようになる気がしないわ。そもそも、お見合いはたったの三日でしょう? 踊る機会なんてあるのかしら」
「ソフィア様、もしかして旦那様からお聞きになりませんでしたか?」
「……何を?」
嫌な予感がしながら、アニーはおそるおそるサラに尋ねた。
「お見合いの最終日は、ダグラス伯爵家の邸宅でダンスパーティーが行われるのですよ」
アニーは目が点になった。
「はあああ!?」
令嬢らしからぬ大声を上げてしまったが、口を塞ぐことも忘れるほどに混乱していた。アニーの様子に、サラは哀れむような視線を向けた。
「本当にお聞きになっていらっしゃらなかったのですね。一日目、二日目はこちらで交流を深めることが目的ですが、三日目は伯爵家の方々へのご挨拶も兼ねて、パーティーに出席することになっているんですよ。そこでエリオット様からダンスを申し込まれれば縁談が成立、申し込まれなければ単なる社交場での挨拶回りで終了です」
「聞いてないわ……」
アニーは絶望した。どうりでダンスレッスンが熱心なはずだ。てっきりエリオットの相手さえ何とかなればいいと思っていたのに、まさかパーティーへの出席など。自分の失態はソフィアの失態として、その場の貴族たち全員に刻まれてしまう。責任が重すぎる。
アニーは舌打ちしたい気分だった。このことを知ったらアニーが断るとわかっていて、フィリップは黙っていたのだろう。存外抜け目のない男だ。
事前にわかっていたら断ることもできたが、ここまで話が進んでしまっては今更どうにもできない。腹をくくるしかない、とアニーは気合いを入れ直した。
全てのレッスンが終了し、自室でアニーはステップを踏んでいた。あんなことを聞いてしまっては、やはりダンスが一番気になる。少なくとも、明日のレッスンでは絶対にノアの足を踏まないようにしなくては。
「ワン、ツー、スリー」
小さく呟いて足を動かす。しかし、やはり一人で動くのと二人で動くのでは勝手が違う。
アニーは目を閉じて、相手役がいるとイメージすることにした。ノアの手が、ここに、触れて。
思い返して、ぶわっと顔に血が上った。熱を冷まそうと、無意味に顔を手で扇ぐ。
いけない。ソフィアだったら、絶対にこんな反応をしない。ダンスは貴族の嗜みだ。組んだ時に照れていたら変に思われる。練習に付き合ってくれているノアにも悪い。
どうしても、ノアのことが浮かんでしまう。間近で見たノアの瞳は、穏やかで優しい色をしていた。サラはソフィアに対して多少の敵意を持っていたようだが、ノアからは一度も感じなかった。出さないように徹底しているのか、それともソフィアを悪く思ってはいなかったのか。
(ま、ノアも男だし……こんな美女の側にいられて、悪い気はしないのかな)
自嘲気味に笑って、ベッドに転がった。ノアは、自分が元の姿でも、あんな風に手を取ってくれただろうか。
アニーの姿でも、ためらいなく、触れてくれただろうか。
嫌な考えに、アニーはぎゅっと目を瞑った。そんな仮定は、無意味だ。ノアとこうして接していられるのは、ソフィアでいる間だけ。アニーに戻れば、彼とは会うことも言葉を交わすことも二度とない。
考えようによっては、自分は人生で二度と得られないだろう貴重な体験をしているのだ。目を瞠るような美女の姿で、従者にかしずかれて、貴族の暮らしをしている。少しくらい楽しんだって罰はあたらないだろう。
無理やり楽しい方に考えることで、暗い気持ちを振り払った。
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