2日目
「おはようございます。起きてくださいませ、ソフィア様」
カーテンが開けられ、朝の光が差し込む。その眩しさと人の声に、アニーはがばりと身を起こした。
「……おはよう、サラ」
「おはようございます」
ばくばくとうるさい心臓を悟られないよう、努めて落ち着いた挨拶をする。サラは気づいているのかいないのか、平然と返した。
普段人に起こされることなどないものだから、他人の存在に過剰に反応してしまった。心拍数を下げようと、長く息を吐く。
サラに渡された水で顔を洗うと、幾分か気分がさっぱりとした。そのまま朝の身支度を整えてもらう。自分でやりたい、というむずむずとした気持ちを何とか堪えて準備を終えると、ドアの外には既にノアが待機していた。
「おはようございます、ソフィア様」
「おはよう、ノア」
二人とも、本当に朝から晩までつきっきりなのだな、とアニーは感心した。さすがにノアは護衛といっても、寝ずに部屋の番をするようなことはなかった。二人とも、夜間はきちんと休んでいるようだ。しかし、交代要員がいないことは気がかりである。休日は取れているのだろうか。
つい余計なことまで考えてしまい、頭を振る。よその労働環境に口を出せるような立場ではない。今は中身がアニーだから、混乱しないように二人に固定しているだけで、普段は代理もきちんといるのかもしれない。妙な詮索はしない方がいい。二人とは、ソフィアでいる間だけの付き合いなのだから。
「これからご朝食となりますが……既に、家庭教師がいらしています。お覚悟を」
覚悟。その言葉の意味を、アニーはすぐに知ることとなる。
「食器の音を立てない! スープを飲む時は、手前から奥!」
朝から叱責が飛び、アニーは眉を顰めた。
別にスープなんて、手前から掬おうが奥から掬おうがいいじゃないか、と思いながらも、教えられたとおりに手前から奥へとスプーンを動かす。
フィリップから前日に聞いてはいたが、早朝から既に家庭教師が来ていた。覚悟とはこういうことか、と内心溜息を吐く。朝食からすぐにマナーレッスン。普段なら口にすることのないシェフの作った高級料理だというのに、味わう余裕もなかった。
家庭教師の女性は厳しい物言いをする人で、吊り上がった目元にきつさが滲み出ている。しかし理不尽な要求や人格の否定をされているわけではない。三日で覚えようと思えば、こういうタイプの方が合っているのだろう。アニーは前向きに捉えることにした。
「昼にまた行いますので、しっかり復習しておくように」
そう言われても。前向きな気持ちが、さっそく折れそうになる。
「午前中は歴史の勉強です」
どさどさ、と目の前に詰まれた書籍に眩暈がする。これで、いつ復習する時間があるというのか。
アミールドでは最低限の教育は受けられるため、平民の識字率は高い。アニーも文字の読み書きは問題なく行える。だが、高度な教育は受けていない。歴史など、ぼんやりと伝え聞いた程度しか知らない。
家庭教師の言葉が右から左へ流れていく中、アニーは必死で文字を目で追った。
「おや、もう昼食の時間ですね。残りは明日までに読んでおくように」
(だ、か、ら!)
「こぼさない! きちんとフォークの背に乗せて、美しく!」
「ウォーキングは基礎中の基礎です! 背筋を伸ばして、真っすぐ!」
「ダンスは淑女の嗜み! 音とずれていますよ!」
(いつ読むんだっつーの!)
隙間なく詰め込まれるレッスンに、空き時間など全くない。教わったことを反復する間もないまま、最後のディナーのレッスンを終えて、へろへろになったアニーは自室のベッドに倒れ込んだ。
「無理……死ぬ……死んでしまう……」
生気のない顔で弱音をこぼすアニー。朝から晩まで働き詰め、なんてことは実家のパン屋でもあったが、疲労の内容が違う。慣れないことをするのは、慣れている作業をたくさんするよりもずっと負担がかかる。もうこのまま泥のように眠ってしまいたい。でも。
「はあーーーー」
大きく長い溜息を吐いてベッドから身を起こすと、アニーは本を持って椅子に座った。
明日までに読んでおくように、と言われた歴史書。使える時間は夜しかない。睡眠時間を削ればソフィアの玉の肌に影響が出るだろうが、致し方ない。
やる気はしないが、領地の未来がかかっていると思えば。アニーは不機嫌な顔をしながらも、本を開いた。
どれだけの時間が経ったか。ふいに、部屋のドアをノックする音に意識が引き戻される。ずいぶん集中していた、と一つ伸びをして、アニーは立ち上がった。
「はーい」
間延びした返事をして、ドアを開ける。目の前に立っていたのは、ノアだった。やや驚いた顔をしていることに、アニーは首を傾げた。
「何か御用ですか?」
言ってしまってから、おっと、と口を押さえた。脳が疲労困憊しているせいで、つい普段の口調で話してしまった。
しかしノアはそのことについては特に言及することもなく、口を開いた。
「夜分に失礼しました。ずいぶん遅くまで明かりが灯っていたもので、何かあったのかと」
「ああ……出された課題が、終わらなくて」
苦笑したアニーに、ノアは室内へ視線をやった。積まれた本が目に入ったのだろう。僅かに眉を顰めた。
「あの量を、今まで?」
「それが驚くことに、まだ読み終わってないのよ」
冗談めかして肩をすくめたアニーに、ノアはますます眉間の皺を深めた。
「あなたがそこまでする必要はありません」
「でも、私が無教養なままだと、ソフィア様が馬鹿にされてしまうわ」
「ソフィア様は、もともとそれほど勉学を得意としておりません」
アニーは目を瞬かせた。それは、自分が聞いてしまって良かったのだろうか。
「女は馬鹿な方が可愛いという人もいるけれど、知識がある上で馬鹿なふりをすることはできても、その逆はできないのよ。エリオット様の好みは教養のある女性かもしれないわ」
アニーの行動は全て、エリオットに気に入られるためだ。ひいてはこの町のため。ソフィアのためではない。今後の自分の暮らしがかかっているとなれば、多少の無茶くらいはする。
アニーの顔をじっと見て、ノアは溜息を吐いた。
「わかりました。ですが、今日のところはもうお休みください。あまり夜更かしが過ぎては、ソフィア様の一番の美点が損なわれます」
「ええ、わかっているわ」
つまり、ソフィアの一番の売りは顔なんだから、隈を作ったり肌を荒らしたりするなと。言いたいことはわかるが、この従者もなかなかなことを言う。
「それと、今後ノックが聞こえても、軽率にドアを開けないでください」
「え?」
「ドアの向こうに誰がいるかわからないでしょう。まして、こんな夜分に姿を見せるものではありません」
最初にノアが驚いた顔をしていた理由がわかった。確かに、軽率だったかもしれない。時間の感覚がなかったこともあるし、自室がノックされて家族以外がいる、という状況に馴染めていなかったこともある。
「わかったわ。相手が誰か、確かめてからドアを開けようにするわね」
「……いえ、相手がわかっても、迂闊にドアを開けるのは」
「だって私の部屋にくるのなんて、あなたかサラか、フィリップ様くらいでしょう。あなたたちとドア越しに会話なんてしたくないし、フィリップ様にはそんな失礼なことできないわ」
アニーの台詞に、ノアは黙った。理由がわからなくて、アニーは不安げにノアを窺った。
「あなたは、そうなのですね」
「なにか、まずかったかしら」
「いえ、そうではありません。もうお休みください。良い夢を」
「ええ、ありがとう。あなたも」
当たり障りのない挨拶で、ノアはその場から立ち去った。
気分を害したわけではなさそうだったが、何だったのだろうか。アニーは首を捻りながらも、部屋の明かりを落として、ベッドに潜るのだった。
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