私の身体が消えるとき

マフユフミ

私の身体が消えるとき

それは同僚とのランチの途中。突然の出来事だった。

「えっ…」

麻智子は、自分の左手の小指がなくなっているのに気付いた。


「…なんで?」

親指から薬指までは普通にある。

小指の部分だけが根元からばっさり切り取られたかのようになくなっているのだ。

もちろん切り取られた痛みなどないし、血が流れているわけでもない。それなのに、小指は確実に「ない」のだ。


何がどうなっているのか分からず、まばたきを繰り返す。

それでも、失われた小指が再び現れることはなかった。

「マチ?どうかした?」

様子のおかしい麻智子に、同僚の久美が声をかける。

「んーん、ちょっと目にゴミが入っただけ」

なんとなく、隠した方がいいと思った。

こんなこと、どう言えばいいのかさっぱり分からないし、「小指がなくなったの」なんて聞かされても久美だって困るだろう。


それに、どうにも不思議なことに、久美は麻智子の小指のことに気がついていないようなのだ。

シェアしているサラダを取ろうとしたとき、店員が持ってきたドリンクを受け取ったとき、久美の目の前に麻智子の手はあったはずなのだ。それなのに、久美は小指のことにいっさい触れようとしない。

ということはきっと、小指がなくなったことに気づいているのは麻智子だけなのだろう。


もしくは、自分だけが小指がなくなったように感じているのか。


そこから麻智子は、ひたすらいつも通りを装った。

幸い、久美は人の様子を伺うよりも自分が積極的に話したいタイプだ。

限られた昼休みという時間。自身の彼氏を語ることに終始した久美の注意はこちらへ向けられることがなく、麻智子はそつなくその場を切り抜けることができたのだった。


それでも、午後からの仕事は散々だった。

何をどうしても、そこにあるはずの、実際にはない小指が気にかかる。

なぜか何も言ってこない同僚たち。それなのに自分には見えない小指。

これはいったいどういう状況なのか。

「笹本くん、体調でも悪いのか?顔色が悪いようだが」

ついには斜め向かいの席の上司に声を掛けられた。

「いや、あの、少し貧血気味のようで…」

咄嗟に適当なことを言った麻智子だが、内心はおだやかではない。

顔色より何より、私の小指はどう見えているんだろう。

「無理しない方がいいよ」

「今日暇だし、帰っちゃえば?」

周りの同僚たちにまで心配され、複雑な思いのまま頷いた麻智子は早退するべく席を立ったのだった。




その日の夜19時過ぎ、麻智子は自宅のソファにダイブした。

帰ったばかり、通常なら手洗いうがいは欠かさず、アルコールを両手に吹きかけ手首まで擦り込むことを忘れない麻智子には珍しい行為だ。

「はぁー…」

ソファにぐったりとうつぶせたまま、麻智子は大きなため息をつく。


早退してまず向かったのは、自宅近くの整形外科だった。

「大丈夫、なんの問題もないですよ」

自分には見えない小指を診断し、医者は笑った。

小指がなくなったとはさすがに言えず、どうにも調子が悪い、動かない、と濁した結果だった。

「パソコン業務などによる使い傷みかもしれませんね。事務をされているかたには案外多いんですよ」

にこやかな医者に、麻智子も表面だけの笑顔を返す。

そうか、事務仕事で手指を酷使したら、小指が見えなくなるのか。

麻智子の思考はだんだんずれていく。


念のために、と出してもらった湿布薬を鞄に詰め込み、麻智子が次にむかったのはメンタルクリニックだった。

なかなかに敷居が高そうなそこに迷わず入れたのは、やはりどうにも自分の認識がおかしいのだと感じたからで。


「私の小指がないんです!」

必死に訴える麻智子に、医者は包容力を絵に描いたような笑みをうかべる。

あ、これはまともに取り合ってくれていない。

瞬時に察した麻智子は、それでもなんとか信じてもらえるようにと訴える。

整形外科を受診し、医師には確実に小指は見えていたこと。それでも自分には一切見えないし、感覚もないこと。


「そういうことは、実はよくある話なんですよ」

本気かどうか分からない調子で医者は言う。

「知らない間に溜まっているストレスが原因だと思います」

医者はさらさらとカルテに記載していく。

ストレスなのか、それならゆっくり休めば戻るのだろうか。

ほんの少し希望を持った麻智子を嘲笑うかのように小指が現れることはなく、なんとなく睡眠導入剤と気分安定剤を出され、そのまま自宅へと帰されたのだった。


「はぁー…」

もう一度深く息をつく。

突然なくなった小指。何事もなかったかのような周囲。自分にだけはどうしても見えないという事実。

「…私、疲れてるんだ」

結論とも言えないような結論を導き出し、麻智子は無理やり自分を納得させる。

そう、ただ疲れているだけ。

しっかり眠って明日になれば、きっと小指も問題なく戻っているはず。

麻智子はもらったばかりの睡眠導入剤を鞄に入れっぱなしになっていた水で飲みこむと、そのままソファで眠りについたのだった。




次の日、ソファの上で目覚めた麻智子は、部屋の乱雑さに愕然とした。

こんな何もかもやりっぱなしで寝てしまうなんて、しかもソファなんかで寝るなんてこと、考えられない。


凝り固まった体をぐいっと伸ばして見上げた視界に自分の手が入り、全ての記憶がよみがえってきた。

「私の小指っ…!」

はっとして、すぐ左手を見つめる。

「…なんで?」

そこには、何もなかった。

正確には、左手の手首から先が失くなっていたのだ。

「どうなってるの?」

もう、何も分からない。

小指を失って混乱していた昨日が懐かしいほどに、今のこの状況は信じがたいものだった。


まだ許せたのだ。今だから言えることかもしれないけれど。

小指だけならまだ許せたのだ。

昨日取り乱して医者にかかったとしても、何をする気力も失ってしまったとしても、それでも。

左手全部を失うなんてこと、あってはならないはずなのだ。

しかも、自らの認識の範囲内のみで。


やっぱり、私の頭がおかしくなってしまったのかもしれない。


散々いろいろなことを考え、泣き、叫び、麻智子が導きだした結論はそこだった。

だってきっと、誰にも分かってもらえない。

今の自分に、左手がないということを。

そこまで思考を巡らせたあと、麻智子はのろのろと動き出した。

意志の伴っていない行動はあまりにも鈍い。亀よりも遅い進行速度。それでも麻智子には精一杯だ。

かすかに震える指で職場へと電話をかける。

体調不良、という本当のような嘘のような理由で休みを伝えると、善良な同僚は非常に気遣ってくれた。

その優しささえ上の空で、麻智子は考えた。

明日、電話をかけるための右手の指は残っているのだろうか、と。





麻智子の考えは杞憂に終わった。

翌日も麻智子は無事欠勤の連絡を電話することができた。

失われたのが左足首から先だったからだ。


ソファの上に転がりながら、麻智子はぼーっと考える。

どんどん失くなっていく左側。

それでも、病院でもストレスで片付けられたものを、誰に言ったところで信じてはもらえないだろう。

なぜこうなったのか。

この消失は止めることができるのだろうか。

明日はさらに、事態が進行しているかもしれない。明後日は、そしてその先は?

もう仕事なんてしてはいられない。

こんな状態でパソコンにも書類も触れないし、電車にも乗れない。

何より自分の状況が恐ろしくて恐ろしくて仕方ないのだ。

「私、本当にどうなってるの?」

何度目かも分からない呟きをこぼして、麻智子は天井を見上げた。

救いを求めるように手を伸ばす。

伸ばした左の肘から先がぼんやりと輪郭を失っているのが見えて、全てを遮断するかのように目を閉じた。




次の日は昨日少し見えたとおり左の肘から先。

その次の日は膝から下。

そんな状況に慣れてしまったのか、自身の消失を嘆くことも少なくなっていった。

ああ、また消えた。

感覚が麻痺するというのは恐ろしい。

それでもその翌日、ついに右腕が消えてしまったのを知ったときはさすがに動揺した。

右側にも浸食が始まってしまったというのもあるが、何より消失のスピードが速まっているのだ。

「最初は小指一本だったのに」

たった一日で腕が一本すべて消えてしまうなんて、速度が上がっているとしか思えない。

これは、本気で失われてしまうのかもしれない。私という存在が、丸ごと。


この頃にはもう、欠勤の連絡さえも入れなくなっていた。

スマホを触れないという現実的な理由もあったが、何もかもがどうでも良くなっていたのだ。

どうせ、消えてしまうのだから。

徐々に訪れるその日を待つというのは、ひどく残酷なものだ。

たくさんの着信や通知音を聞き流しながら、麻智子は感情がどんどん鈍くなっていくのを感じていた。



あれから何回目の朝を迎えたのか、もうすでに分からなくなっていた。

ついに胸から下のすべてを失った麻智子はただ時計が時を刻む音だけを聞いていた。

なんとなく意識がぼんやりする。

ああ、ついに失くなるんだな。

消えてしまうのと眠りにつくのと、何がどう違うんだろう。

全てを受け入れるように、麻智子は目を閉じた。


そして、笹本麻智子という存在は、静かに静かに消えていった。










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