君の灰皿

藤野ゆくえ

君の灰皿

「煙草の煙、平気?」

「うん」

「じゃあさ、喫煙所行くから着いてきてよ」


 喫煙所はキャンパスの端の方にひっそりと建っていた。随分と狭い。足を踏み入れても誰もいなかった。もっと喫煙者がひしめいているイメージがあったのだけれど。

 アカリは奥の方へ歩いて行って、ポケットから煙草の箱とライターを取り出す。わたしは煙草の銘柄なんて詳しくないけれど、彼女が取り出した箱はコンビニで目にしたことのない茶色いものだった。その中から一本取り出された煙草は真っ黒で、これもまたそこら辺で喫煙者が吸ってるのを見たことのない煙草だった。

 彼女はそれを鉛筆みたいに持って、口に咥えて火を点ける。


「吸ってみる? この煙草、おいしいんだよ」


 差し出された吸いさしの煙草を受け取って、わたしもそれを鉛筆みたいに持ってみた。煙草の吸い方なんてよくわからなかったけれど、とりあえず咥えたまま吸い込んでみる。おいしいんだよ、と言われても、煙草の味なんてよくわからなかった。


「煙を口の中に溜めたまま煙草を口から離して、息を吸い込むんだよ」


 悪戯っぽく笑う彼女の言葉通りに息を吸い込んだら、盛大に噎せた。咳をしながら煙草を返すと、彼女はおかしそうに笑ってから、涼しい顔でそれをまた吸う。

 わたしは痛む喉をさすりながら、それでもなんとなく彼女と少し気持ちが近付いたような気がして、嬉しくなった。


「わたしも喫煙者になろうかな」

「やめときなよ」

「煙草勧めといて何言ってんの」

「吸っても噎せるだけでロクなことないよって教えてあげたかっただけだよ」

「でも慣れたらアカリみたいに普通に吸えるようになるんでしょ?」


 アカリは短くなった煙草を灰皿に押し付けて、笑った。


「行こっか、講義始まる」

「え、喫煙所に連れて来たのってわたしに吸わせるため?」


 わたしの問いに答えず、彼女はすたすたと歩き出した。それを追いかけながら腕時計に目を落とすと、講義が始まる時間をとっくに過ぎていた。喫煙所の中にはチャイムが聞こえないらしい。

 きっとアカリは講義に出るつもりなんて始めからなかったのだろう、と思いながらその背中を追いかける。案の定、彼女の足は講義のある部屋とは全く別の方向へと進んでいく。わたしも今更くだらない教授の声を聴く気にもなれず、その後を追った。

 結局二人でキャンパスを出て、交通量の少ない車道を歩きながらくだらない会話を途切れ途切れに続けて、そのうちわたしの下宿先に着いた。アカリはわたしの部屋にあがって、また煙草を取り出して火を点けた。


「ねえ、ワタシの灰皿になってよ」


 わたしが「え?」と訊き返す間もなく、アカリはわたしの腕に煙草の火を押しつけた。

 突然の熱の痛みに、声も出ない。けれど、なぜかわたしは彼女の手を振り払うことができず、その痛みに耐えようと歯を食いしばった。アカリはぎゅうっと火を押しつける。思っていたより早く火は消えたけれど、痛みは続く。


「なんで我慢しちゃうの」


 俯いたアカリの声は少し震えていて、なんだか涙が滲んでいるような気がした。わたしは笑みを浮かべて、どうか彼女に届いて欲しい、なんて思いながら呟いた。


「アカリが好きだから」


 彼女は顔をあげた。その顔にはいつもの笑顔が戻っていた。


「ほんと、変なヤツ」

「だよね」


 彼女はポケットから携帯灰皿を取り出し、ぐしゃっと折れた煙草を放り投げた。

 それからアカリとわたしは、たわいない話をした。


「そろそろ帰るね」


 数分の沈黙のあと、アカリは小さく呟いた。止めようかとも思ったけれど、結局わたしは黙って彼女を見送った。

 彼女が残していった腕の火傷をさすりながら、わたしはぼんやりと窓の外を見る。夕暮れはなんだか優しい色で、あの太陽で煙草に火を点けたら楽しそうだな、なんて、くだらないことを考えた。


 ——————————


 アカリは突然、大学へ来なくなった。体調でも崩したのだろうか、大丈夫だろうか。連絡を取ってみようとしたとき、わたしは初めて気付いた。わたしは彼女の連絡先を何一つ知らない。電話番号もメールアドレスも住所も知らない。共通の知り合いもいない。連絡の取りようがなかった。


 駄目元で多少は仲のいい教授のところへ言って彼女のことを訊ねてみたけれど、もちろん個人情報なんて教えてもらえなかった。ただ、彼女が退学したという事実だけを、こっそり教えてくれた。


 アカリがいなくなっても、誰もそんなこと気にしていないみたいだった。わたしも段々と彼女がいないことに慣れて、くだらないキャンパスライフを続けた。アカリ以外に話し相手のいなかったわたしは、勉強とバイトしかすることがなくなった。望んでもいないのに成績がうなぎ登りで教授に褒められ、望んでもいないのに生活費を上回って溜まっていく金を持て余した。


 欲しいものなんてなかったけれど、休日にはなんとなく財布を持って街へ出て、繁華街をふらふらと歩くようになった。何を見ても買う気にならないし、カフェや居酒屋を眺めても特に食べたいものも飲みたいものも思いつかない。娯楽施設を眺めていても、やりたいことはなかった。

 適当に角を曲がったとき、わたしの目に小さな煙草屋が映った。吸い寄せられるようにそちらへ向かって奥を覗き込む。脳裏に焼き付いていた茶色い箱を見つけて、それを指差しながら店主と思われる老婆に声をかけた。


「あの茶色いやつ、一箱ください」


 老婆は少し背伸びしてその箱を取ると、わたしから小銭を受け取ってその箱を手渡してくれた。ありがとうございます、と小さく呟いて、わたしは家に帰った。


 部屋に着いてすぐ、わたしは茶色い箱の周りのフィルムを剥がして、その箱を開けた。見間違う筈がない、アカリが吸っていた煙草のパッケージだ。中にはやっぱり、黒い煙草が詰まっていた。いつだったかアカリが床に放り投げて置き忘れていったライターを取り上げて、それで火を点ける。そしてアカリの言葉を思い出しながらその煙草を吸う。


 彼女の吸っていた煙草は、おいしくなかった。それが悲しかった。

 彼女がおいしいんだよと言って勧めてくれた煙草が、わたしにはおいしくなかった。


 わたしはその煙草を少しだけ吸って、その火を腕に押しつける。

 その熱の痛みにも慣れてしまった。立ち昇る煙が消えるのを眺めてから煙草を肌から離す。丸く貼り付いた黒い煤を指で払いのけて、もう一度その煙草に火を点ける。そして少しだけ吸って腕に押し付けて煤を払いのけて……。それを何度も何度も何度も、繰り返した。


 もっと、アカリの灰皿になりたかったな。これじゃわたしはわたしの灰皿でしかない。


 腕には水ぶくれも、治りかけた火傷のかさぶたも、治ってしまった火傷の痕も、たくさんある。いくら煙草の火を腕に押し付けても、アカリがくれた痛みと同じものはひとつも手に入らない。

 それでも、アカリが押し付けた火の痕がどれかだけは、ちゃんと覚えている。


 アカリがわたしの記憶から消えるまで、あとどのくらいだろう。


 わたしがアカリの記憶から消えるまで、あとどのくらいだろう。

 いや、もう消えているのかもしれない。あるいはその記憶の持ち主であるアカリは、もう生きていないのかもしれない。


 わたしはもう一度、随分と短くなった煙草に火を点けて、今まで一度も押し当てたことのない首筋に、その火をぎゅっと押し付けた。

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君の灰皿 藤野ゆくえ @srwnks

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