5 青い水の星

5 青い水の星


 フギャア、ニャアッ、グルルルル。

 聞いたことのない声で、ルルカははっと目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。

 ルルカはからだをおこし、注意深くまわりを見まわした。あれは何者?

 ルルカがいる十メートル先の草はらで、青い水の星の動物がにらみ合っている。片方は黒に近い灰色の短い毛で、鼻づらが長く相手より躰は三倍くらい大きい。それはグルルル、ウワンッと咆えた。

 相手の三匹は、吠え声に少し後ずさり、シャアッ、ニャギャアと鳴き返した。前に立っているのは全身黒の奴で、首のところに三日月の形をした白い毛が生えている。後ろの二匹はもっと小さく、一匹は黒白ぶち、もう一匹は茶色の縞模様だ。黒い三日月は、ウワンと咆えた奴の半分くらいの大きさで、後ろの二匹はよたよたしていて、ルルカの所からでも、プルプルと震えているのが見えた。

「今日は逃がさないからな、猫ども。俺の縄張りに入ってくるんじゃない」

 ウワンの大きいのが言った。

「冗談言うなよ、犬公め。飼い犬に縄張りもへったくれもあるもんか。文句があるなら、野良犬になってから来な!」

 黒い三日月が叫んだ。

 ウワンの大きいのが犬で、黒の三日月が猫。へええ、そうなんだ。ルルカは思った。どちらも縄張り争いでけんかしているようだ。

「おい、ちび助。子猫のくせに、一人前の口を利くじゃないか。それならこっちも遠慮しないぞ」

 犬がずいっと前に出た。

 黒猫が、後ろの小さな二匹をかばって、低い姿勢のまま一歩前に出る。

「いいか、お前たち。俺が合図したら、いっせいにアトリエに向かって走るんだぞ。ぜったい後ろを振り向くなよ」

 黒三日月の猫が、後ろの二匹にそっと言った。この二匹は、黒三日月よりもっと幼いに違いない。ってことは、黒三日月は犬から、自分より小さい二匹の猫を守ろうとしているんだわ。ルルカは立ちあがり、そっと睨みあう動物のほうへ近寄っていった。自分の三倍はありそうな犬と戦って、あの黒猫が勝てるはずがないわ。ルルカは急に心配になった。小さな二匹を助ける為に、無茶な戦いに挑む黒猫をたすけたくなった。

「やれるものなら、やってみなよ。こいつらには、指一本ふれさせないからな」

 黒猫はぐっと顔をあげると、自分から大きな犬の方へすすっと音もなく進んだ。

「このちび猫。思い知らせてやる。二度と逆らえないようにな」

 言うと犬は残忍な笑いを浮かべ、飛びかかる態勢になった。

 それを待っていたように、逃げろ! 叫んだ黒猫が跳躍して犬に飛びかかっていった。

 グワッ、犬が吠え牙をむいて黒猫を迎え撃つ。

 黒猫は犬の頭の上を飛び越しながら、鋭い爪をふるって犬の額を引っかいた。音もなく草はらに降りた黒猫が一瞬、二匹がぶじ逃げたかどうか確かめた。その隙を犬は見逃さなかった。草を蹴散らして素早く躰を反転させると、覆いかぶさって黒猫の首へ牙をたてた。

「くうっ……」

 呻いて黒猫が宙を飛び、草の上に落ちた。

「わああっ」

 もう一度飛びかかろうとする犬へ向かって、ルルカは大声をあげ真っ直ぐにつっこんでいった。犬は驚き、走って遠くまで離れた。

「卑怯者! 大きな躰の癖に、こんな小さな猫を本気で噛むなんて。許さない、ゆるさないから!」

 ルルカは犬に指を突きつけて、ずんずん近寄っていった。何かあったら、犬を思い切り蹴りあげてやる。ルルカは本気でそう思った。犬のやり方に本気で怒っていた。

 近づいてくるルルカを見て、犬は何か言おうとしたが、ワンッひと声咆え尻尾を丸めて逃げていった。

 怒りでいつもの半分しか息が吸えず、ルルカは肩を波打たせた。あ、いけない。ルルカは叫び、戻って黒猫をさがした。

 黒猫はからだを伸ばして、ぐったりしていた。浅い呼吸で細かくからだが動いている。ルルカは黒猫のそばに膝をつき、片手を猫のからだの下にさしこんで少しだけ持ちあげた。

 黒猫がわずかに顔をねじってうめき声をあげた。右肩から血が流れている。犬の襲撃をとっさにかわして、首を噛まれるのはまぬがれたらしい。

……ぎんさかわのみず……。 かすかなささやき。

「銀砂河の水?」ルルカは心の中のささやきに耳を澄ました。

……銀砂河の水で、治して……。

「わかった。銀砂河の水で、猫の傷が治るのね!」

 ルルカは片手で黒猫をささえ、腰のポーチから、銀砂河の水が入った小瓶を取り出した。

 栓をひねってふたをあけた。それから、傷口? それとも……? ルルカはちょっと迷って、黒猫の口へ小瓶をもっていった。

「さ、水を飲んで。少しでも良いから、頑張って飲んでちょうだい」

 ルルカが優しく言いかけると、黒猫は口をわずかに開いた。口の中へ銀砂河の水をそっと注ぐ。黒猫がまた呻いた。その拍子に、水が一滴こぼれ右肩の傷口にぽたりと落ちた。

「ニャアグウ」黒猫が体をよじらせもがいた。

 傷口に落ちたひと雫がぱあっとひろがり、金色の膜になって傷口をおおう。黒猫が苦し紛れに、ルルカの手に爪を喰いこませる。

「大丈夫よ。だいじょうぶ。治る、必ず銀砂河の水が治してくれるから」

 ルルカは食いこむ爪の痛みをこらえて、静かに語りかけた。

 傷口がゆっくりとふさがっていく。黒猫はまた呻き、気を失った。しだいに金色の膜は縮み、やがて黒猫の肩のなかへとけこんでいった。

 黒猫の呼吸が、だんだん大きくなり落ち着いてきた。黒猫がぱちっと目を開いて、ルルカをみあげた。一瞬爪を剥きだしたが、そっとおさめた。

「お前が、犬を追っ払ってくれたんだな。……ありがとう」

 黒猫が言った。笑ったようだったが、それはうまくいかなかった。

「まだ動いちゃ駄目よ。大怪我だったんだから」

 黒猫は右肩を動かし、横目で見て、んにゃ? 首をかしげ眼玉をくりくりさせた。

「もう傷口がふさがってる!」

 叫んでから、ルルカを不思議そうな顔でみた。

「おまえ、なにを飲ませたんだ? 魔法の薬か?」

「ううん。銀砂河の水よ」

「なんだ、そりゃ?」

「月の水よ。月にある銀砂河の水」

「ええっ?? おまえ、月から来たのか?」

 黒猫は空中にぴよーんと飛び上がると、くるっと回転して草の上におりた。

「ほんとに、ほんとか?」

 ルルカがうなずく。

「すごいなあ。こいつはすごいや」

 黒猫は足をぱたぱたさせた。

「私は、月のルルカ。友達の病気を治す、苺をさがしにこの青い水の星へきたの。あの月のうき……ない! 月の浮舟がいない!」

 ルルカは茫然として池をゆびさした。

「ないって、なにが?」

「私が乗ってきた、月の浮舟が……」

 ルルカは目の前がかすんでいった。

 月の浮舟が、私を置いて帰ってしまった。どうすればいいの?

「あの、なあ、お前いくところないんだろ。だったら、アトリエに来いよ。俺がうまく話してやるから」

 一生懸命ルルカをなだめる黒猫の声も、遠く聞こえる。

 ルルカは目を閉じた。私はなにをしに来たの? ミケロの病気を治せる、苺をさがしに。ルルカは唇をかみしめ、じっと考え心を決めた。今は帰ることを考えてるときじゃない。

「苺。苺をさがすのよ、ルルカ」

 自分に言い聞かせると、ルルカは目をひらいた。自分のことを考えている暇はない。

「おい、大丈夫か? 俺の話、聞いてたか?」

 黒猫が心配そうに見あげている。

「ええ、大丈夫よ。じゃあアトリエに行きましょう。あなたを送っていくわ」

 ルルカは、黒猫を抱き上げようとした。

「止めろ。俺はもう大丈夫だ。ちゃんと自分で歩ける」

 怒った顔になって、黒猫はルルカの手をすり抜け立ちあがった。

「まあ、お前の、ルルカか。ルルカの月の水で助けて貰ったのは、礼を言う。だけど俺は男だ。自分で歩いていく」

 黒猫は凛とした態度で言った。

 ルルカの中で、明るい光の玉がぱちんと弾けた。

 意地っ張りで、弱いものを守って、自分より大きくて強いものにむかっていく。黒猫は、ルルカに抱っこされて帰るのが恥かしいのだ。ルルカはすっかり、黒猫が好きになった。少し笑えた。でも、ちょっと生意気ね。

「なんだ、なにを笑ってる。行くぞ、こっちだ」

 黒猫はちょっと恥ずかしそうに言って、歩き出した。

 でも、二、三歩あるくと、がくんと前のめりに倒れてしまった。

「大丈夫?」

 ルルカは駆けより、黒猫を抱き上げた。

「こら、おろせ。おろせよ。俺は自分で……」

 ルルカは黒猫に頬ずりして、ささやいた。

「死ぬような大怪我したんだから、いくら月の水でもそう簡単には治らないわ。アトリエの近くまで抱っこしたげる。近くまで行ったら、おろしたげるから。約束するわ。逃がしてあげた弟や妹が無事か早く知りたいでしょ」

 それでも黒猫はルルカの腕の中から降りようとした。ルルカは黒猫をそっと抱き締めた。

「あれは、俺の兄弟じゃない」

 黒猫が苦笑いした。

「あら、そうなの」

「ゆうべ三日月の形をした光が、空へ昇って行くのを見たらしい。朝になってなにがあったのか調べに来たら、犬に襲われてたんだ。ちょうどそこへ、俺が通りかかった訳だ。このあたりは、俺の縄張りだからな」

 へええ、ルルカは黒猫の顔をしみじみとながめた。

「そんなに見るなよ。行こう、あっちだ」

 言われるままに、ルルカは歩きはじめた。

 黒猫が案内したのは、丘の上に建つ一軒の家だった。

 渡り廊下で母屋とつながった建物を示して、黒猫が言った。

「あれがアトリエだ」

 ルルカはアトリエの方へ歩いていった。

「おい、約束だ。おろしてくれ」

 黒猫がルルカの腕の中でじたばたした。

 はいはい。ルルカは黒猫を下におろした。

 黒猫は右足で軽く地面を踏んでみて、傷の具合をたしかめ、ゆっくりと足を踏み出した。

 歯を食いしばり、右足をかばってひょこっ、ひょこっと歩いていく。痛みをこらえ、洩れそうになる呻きを押し殺しているのがわかる。

「スプーン! 大丈夫、スプーン?」

 若い女性がひとりと二匹の子猫が、アトリエから飛び出してきた。

 スプーン? 黒猫の名前は、スプーンって言うのね! 無鉄砲で勇敢な猫の名前にしては、可愛い! ルルカのなかでまた、驚きの光の玉がパチンと弾けて輝いた。

「怪我したのねスプーン。……でも、傷口がほとんどふさがってる……?」

 黒猫スプーンを抱きあげ、右肩を調べた若い女性がルルカを見た。少し疑わしげな、鋭い目つきだった

 ルルカは少し微笑んで、ぺこりと頭を下げた。

「あなたは? そうか、スプーンを助けてくれたの、あなた?」

 ルルカより少し年上に見える、若い女性がたずねた。

「ええ、はい。わたし……」

 ルルカはちょっと口ごもった。なんて言えばいいのだろう。

「私はユキ。あなたは?」

 若い女性ユキは、穏やかに自己紹介した。

「私はルルカ。月のルルカ」

「ありがとう、ルルカ」

「じゃ、私これで失礼します」

 ルルカはもう一度頭を下げると、急ぎ足でその場を離れた。

 黒猫スプーンは、ちゃんと飼い主のところへ戻った。ちょっと寂しい気持ちだったが、ルルカにはやることがあった。

「待って、ルルカ」

 ルルカはためらったが、立ちどまり振り向いた。

「わたし、あなたにお礼しなきゃ。スプーンを助けて貰ったんだもの」

 ユキはそう言ったが、どこかよそよそしいものを含んでいた。

 しばらくルルカはユキを見ていた。よそよそしさと同じくらい、淋しげな影がユキを包んでいる。なぜそんな淋しそうな目をしているの?

 ルルカはうなずき、ユキの方へ戻った。ユキは先に立って歩きはじめ、ルルカをアトリエに案内した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る