中を覗くな
大枝 岳志
第1話
昨日から鳴り止まない電話に苛立ちはピークを超え、俺はスマホの電源を切った。それと同時に、光り輝く極彩色の中に入れたはずの最後の一万円の命が事切れた。払う気がないのかと問われたら、今の俺にはない。
俺が払うべき金は養育費だった。まだ五歳になったばかりの息子は元嫁に取られ、二年前に離婚したての頃は真面目に払い続けていた。
離婚の理由は性格の不一致と、俺による暴力だと元嫁は主張していた。
諍いがあった時、怒鳴り声を上げたことはあったものの、俺が明確な暴力を振るったという記憶はなかった。一度、喧嘩の末に元嫁が包丁を取り出そうとしたことがあり、それを止める為に腕を取ったことはあった。それが恐らく、暴力なのだろう。
離婚の原因はそれだけじゃない。俺にも、嫁にも、子供が出来た頃には好きな相手がいた。互いに寂しさを紛らわせるだけのセックスを繰り返しているうちに妊娠し、結婚をした。情けない話、俺も元嫁も妊娠が発覚する直前に互いの好きな相手にフラれていた。だから、仕方なく結婚をした。
息子は可愛かったし、成長して行く姿はそりゃ愛らしくてたまらなかった。その気持ちは今も変わらないが、今の俺は無職だ。上司のやり方に口を出したのがきっかけでチーム内で厄介者扱いされるようになり、そのまま退職を余儀なくされた。
日々減って行く貯金に焦りを感じ始めた矢先、元嫁が新しい男と同棲を始めたという噂話が耳に入った。相手はホストで知り合った男らしく、相当金を貢いでいると聞かされた。噂の真相が気になり、一度近所まで様子を伺いに行くと、色の黒い金髪男に品を作りながら隣を歩く元嫁の姿を目撃してしまった。それ以降、養育費を払うのを馬鹿馬鹿しく感じてしまった。
息子を思えば払いたくない訳ではなかったが、とにかく金がなかった。借りれる所からは全て借り切ったし、闇金にも手を出した。それでも、異常なほどのめり込み始めたパチンコのせいで金は入るよりずっと多く出て行くようになった。最後の勝負に負けた俺はネットで「闇バイト掲示板」を検索し、犯罪者になるのを覚悟の上で金を作ることにした。
約二週間、軽作業の短期バイトで日給十万という信じられないような高額バイトを見つけ、俺はすぐに連絡を取った。電話の相手は「吉村」と名乗る中年のオヤジで、人としてやる気のなさそうな間延びした声で話し始めた。
「あー……電話ありがとうねぇ……とりあえず、名前と、あとー……年齢教えてもらっていいかな……?」
「はい。大野広輝と申します。大野は大きな野原に」
「あーいらないいらない……どうせ覚えられないから。年齢は?」
「あ、すいません。三十二です」
「家族は……まぁ、あんな所で応募して来るぐらいだから、いないか」
頭の中では分かっていたものの、あんな所と言われたことで俺の覚悟は少し揺らぎそうになった。何かしらの犯罪者になることは間違いないのだろうが、実際に片足を踏み入れた状態になるとたちまち後悔が芽生え始める。下手をしたら、死ぬことだってあるかもしれない。俺は吉村に知った風な口調で、こんな風に訪ねてみる。
「あの、今回の案件って何系ですか?」
「何系、って言われてもなぁ……至って普通の仕事だからねぇ……」
「いやいや、やばさのレベルってあるじゃないですか。運びとかっすか?」
「あー……うちはそういうリスク案件やらないから……あの、予め言っておくけど別に普通の仕事だよ。ただ、人が集まりにくい所だからね……」
「人が集まりにくい所、っすか」
翌日、吉村の運転する銀色のバンの助手席から見る景色で、言っていた意味がよく分かった。
吉村は痩せ型の五十くらいのやや垂れ目のおっさんで、長い髪の毛を後ろに引っ詰めて束ねている。そのおかげなのか、前頭部がやや寂しく、薄く見える。
車中で言葉のやり取りはほとんど交わさなかったものの、吉村は時々何処かへ電話を掛けたり、それ以外の時間はほとんど間を置かずに煙草を吸い続けていた。
就業場所として連れて行かれたのは高速を降りてから一時間も掛かるような山深い場所で、コンビニどころか自動販売機すら見つからないような場所だった。車で山を登り続けて行くと、道幅がやや広くなって木々に覆われていた視界が急に開けた。
「ここ、就業先になるから」
山の中に現れたのは「こうぶ海洋センター」と門に書かれたコンクリート造りの無機質な二階建ての施設だった。いかにも公共施設といった門構えで、何をする施設なのかも思い浮かばなかったし、山の中に「海洋」施設があることにも合点が上手くいかなかった。
「あの、なんで山の中で海洋なんですか?」
「あー……なんかね、国と協力して養殖やってるらしいんだわ。建物の裏手にさぁ、倉庫みたいなのあるでしょ?」
吉村に言われて目を向けてみると、確かに施設に直結する形の古びた真四角の倉庫らしき建屋が見えた。
「あれが何なんですか?」
「あそこが生簀だか何だかって言ってたよ。上田君はここで二週間、働いてもらえばいいからさ」
「あ、上野です」
「あー……人の名前、覚えられないんだよなぁ、ったく……とりあえず明日から頑張ってもらえれば良いからさ、今日はもう行こうか」
「行くって、何処行くんですか?」
「あぁ……一応、ホテルとってあるから」
こんな山奥にホテルなんかあるのかよと思っていたが、施設から十分ほど車を走らせるととある二階建ての真新しい建物の前で車は停まった。デザイナーズ物件のような窓のない真っ白な建物には看板も何も出ておらず、ここがホテルとは到底思えなかった。
「ここが滞在先のホテル。降りて」
「え……これって家じゃないんですか?」
「いや、ホテル。明日の朝八時に迎えに来るから、それまでは好きに過ごしてもらってて構わないからさ」
「吉村さんは泊まって行かないんすか?」
「あぁ……そんな暇があればいいんだけどね……暇、ないから」
「忙しいんすね」
「まぁ……ねぇ。あのさぁ、君はさぁ」
「はい?」
「いや、なんていうかな……なんでも聞いてくる割に分かったフリが上手いなぁと思ってね……詐欺師なんか向いてるんじゃない?」
「なんすか、それ」
「冗談だよ……冗談」
そう言って吉村はククン、と妙な音を立てて鼻を鳴らした。どうやら笑っているらしい。
明日の八時に待ち合わせをして、一般宅のような玄関を開けてホテルの中へ入る。
入った瞬間に俺は予想外の造りに驚いた。入口には検温機、そしてその目の前にはガラス張りの自動ドアが設置されている。ピッと音が鳴ったと同時に俺の名前が画面に表示され、自動ドアが開いた。
靴を脱ぐ場所もなく、間接照明が照らす薄暗い通路を奥へと進んで行くと無人のカウンターに突き当たる。
カウンターの上には直径二十cmほどの白い箱が置かれていて、その前に立つと箱に空いていた穴から鍵が出て来た。
『ソノママ、ニカイヘ、オアガリクタザイ』
という子供のような機械音声で流れて、俺は右手にあった階段を上っていく。二階へ出るとやはり窓のない薄暗い通路に出て、突き当たりにドアがあった。
鍵を差し込んでみるとカチャ、と音がしてドアが開く。部屋の中は至ってシンプルなビジネスホテルのような造りで、大きなベッドに鏡台にもなる机、そしてテレビと、極平凡な設備が置かれている。
このホテルと言っていた場所には客室はおそらくここしかないようで、店員らしき者の姿は何処にも無さそうだ。据付の電話の受話器に書かれているフロントに用事はないものの、興味本位で電話を掛けてみる。
「はい、フロントです」
その声を聞き、俺はまた予想外の出来事に出くわした。フロント係の声はどう聞いても、小学生の男子の声だったのだ。おそらく五、六年生くらいだろうか。落ち着き払っているものの、声の幼さは隠し切れやしない。
「フロントって、まだ子供だろ?」
「ご用件をお伺いします」
「……」
そのまま電話を切ろうと思って耳から受話器を離すと、何かが聞こえて来て咄嗟に耳に戻す。
「はい、フロントです。ご用件をお伺いします。ご用件がない場合はそのままお電話をお切り下さい。はい、フロントです。ご用件をお伺いします。ご用件がない場合はそのままお電話をお切り下さい」
機械のように繰り返す幼い声に俺は薄ら寒さを感じ、受話器を叩きつけるようにして電話を切った。
やる事も特になく、館内とは言ってもこの部屋しかないので俺はぼんやりテレビを観ながら時間を潰す他なかった。
ここへ来る間にも、テレビを観ている間にも、元嫁からの着信は絶えず入り続けていた。
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