ふたりおどり

太郎丸

駅のお囃子

 駅のお囃子



 私は左肩に下げた通学用鞄を持ち直すと、駅の階段を上がり始めた。自分の鞄から本同士がぶつかったりこすれ合ったりする音が時折響く。存在を主張するようで、いささか気恥ずかしい。だから進むペースも速い。

「なんで電子書籍にしないの?嵩張るじゃない」

 普段本を読まない母はそう言う。本を読まない人にはわからないだろうが、書籍はいざというとき盾になる。このあたりの治安は、東京の中でも可も不可もないレベルだが、中学生のとき、知らないおじさんに長時間追い回された体験が私に護身の必要性を痛感させた。


「さて、本日の天気ですが・・・」


 階段をもう少しで登りきるというところで、駅のホームからラジオの音が聞こえてくる。音の方向に顔を向けると、駅のベンチでイヤホンをつけたスーツ姿の男の人が居眠りをしているのが見えた。ズボンの太ももあたりに外れたケーブルが垂れてる。なるほど。そこから天気予報の音がダダ洩れになっているのか。いびきと天気予報の二重奏。それが駅の音響空間に新鮮味を作っている、とポジティブに解釈。朝は気分良く。何かに載っていた健康法。


「チッ、ウルセエな・・・」


 突然、後ろから地を這う亡霊のような呻き声。背中の筋肉がビクンと震え、かなり腰が引けた。振り向くと、派手な水玉模様のシャツに身を包んだおばあちゃんが眉根に大量の皺を作って、下を向いたまま口を動かしている。


「邪魔なんだよクソ、だらしねえ顔晒しやがって。これだから最近の男は・・・」


まるで親の仇でも見るかのような口調と眼差しに、周囲の人々が距離を取り始める。


(本当にうるさいと思うなら、わざわざ自分で騒音の発生源増やさないでくださいよ。熱いって言いながらマッチ擦りたがるようなもんでしょ)


 そうやって啖呵を切れたら気分がいいかもしれないが、つまらない喧嘩に発展しては、私の「気分の良い朝お迎え計画」が完全破綻する。既にそれなりにヒビは入っているが、私はいつものように口にしっかりチャックをした。おばあちゃんは回れ右をし、恨み言が遠ざかってゆく。


 ほっとして、私は息を吐いた。大きな声を聴くと、またしても増えてきた両親の喧嘩とつい同一視してしまう。私は昔から身内回りの争いごとに囲まれて生きてきた。優しかった祖母が認知症の発症後、人格が豹変したように暴言を放つ現場を見たことも幾度かある。そういうものに萎縮し、距離を取って生きてきた結果、今の根暗で、引っ込み事案な性格が形成されたのかもしれない。


 私はそこでなんとなく、目の前のベンチで寝ている男の人を再び見下ろした。短髪の下に、骨ばった輪郭。そこそこの筋肉を感じさせる長身。起きているときはともかく、今は赤ん坊のような無邪気な寝顔といびきのためか、威厳も貫禄も感じなかった。


「次のニュースです。昨夜背任容疑で書類送検された○○副社長を巡る新しいニュースが・・・」


 相変わらず大きな音がイヤホンからは流れ出ていた。あれだけの音量でなんで起きないのか。眠りが浅くなりがちな私からすれば羨ましいことだ。


「まもなく、三番線に電車が通過します。黄色い線に下がってお待ちください」


 目の前を特急電車が通り過ぎる。ベージュ色の車体で車窓の周囲が赤く縁取られていて、私が行ったことがなくて、この先も行かないかもしれない場所に向かって移動している。風で舞い上がった髪が頬を撫でる。

「なんで伸ばすの?」

 母の声がリフレインする。効率主義者の母からすれば、わざわざ髪を伸ばし、手入れの時間を増やすのは理解しがたい行動なのだろう。私自身、なんでわざわざ伸ばしているのか、それほど強い理由があるわけではない。ヘアメイクとかにもさして興味ないし。ただ、髪の手入れという作業のあいだは一人でいられる。その時間を少しでも長くしたい。私にとって最も落ち着くのは、ひとりの時間だから。



 携帯を取り出した。SNSに居眠りおじさんと怒鳴りおばさんの愚痴を書き込む元気はなかったので、真面目に勉強することにした。と言っても選んだのは暗算ゲームアプリなので、真面目に遊んでいるとも言える。


 私が遊びと勉強の境界をあまり感じないのは、両親の影響だと思う。父も母も私が幼い頃からゲーム感覚で勉強を楽しんでいる人だった。人生の難しさなんてのは、ゲームの難しさと大差ない。だからゲームも勉強と同じくらい真面目にやれば、ちゃんと力になる。そう言っていた誰もが羨むフリー・ゲームクリエイターの父は、最近、母との和解というゲームにかなり苦戦している様子で、笑顔の奥に垣間見える闇が最近ますます濃く、深くなった。母には父と私が共闘しているように見えるらしい。それで不機嫌になるなら、やりがいもある。


 昨夜自室で聞こえた両親の諍いがフラッシュバックして、鳩尾に再びぎゅっと緊張が集まるのを感じた。心理というより身体に根差した感覚。呼吸して身体と心をいくらか落ち着けると、スマホの時刻を見た。いつも乗る電車が来るまで、およそ二分。


「まもなく、三番線に○○行きの電車が参ります。黄色い線の内側に・・・」


 アナウンスの音に何か違う音が被さっている。スマホを鞄のポケットにしまい、耳をすますと、よりはっきりと聞こえてきた。笛の音だ。

 

 笛の音が長く伸び、そこに時折太鼓の拍子が規則的に混じっている。これに似ている音を小学生の頃行った祭りで聞いたことがある。お囃子だ。どうして駅でお囃子の音が聞こえるのだろう?寝ているおじさんのラジオといい、今日の駅は耳にとって新鮮だ。たまにはそういう彩りがあってもいい。定常化した日常生活は狂気の前触れだから。


 音は向かい側のホームから聞こえる。目を向けると、見えた。


 踊っている。

 着物姿の女性が踊っている。

 最初に見えたのは手や指先の動きだった。何かを包み込むように優しく動いている。能や舞いのようにゆっくりとした動きだが、私には動画で観た中国武術の自主練にも見える。なんか、あの、立ってるやつ。うーん・・最近ホント漢字出てこない。(チラ)


 多分、見事な動きなのだろう。けど、正直、踊りを語る言葉を持っていないし、よくわからなかった。駅で恥ずかし気ゼロで踊れる大胆さは羨ましいと思ったけど。

視線をスマホに戻そうとすると、女性はふいに身体を回旋させた。その動きはあまりにも滑らかだった。バレエダンサーのようなダイナミックな動きではなかったけれど、なんというか、身体のどこも止まっていない、全部がまとまって動いているような形。


 いつも利用している電車が私の前に到着し、視界を遮った。開いたドアに入ると、私は向かい側のドアに素早く移動し、窓越しに女性の踊りを再び観察した。


 女性は手を回し、天を包み込むような動きをしたかと思うと、今度はその上半身がゆっくりと沈み込んでゆく。半分ほどしゃがんだ姿勢で、左右の手を開いたり、指先を魚のようにゆらめかせ、再び滑らかに身体を回旋させる。小柄で細身だが、体幹の筋肉がかなり機能してないと、到底できなそうな動きだ。


 と、沈んでいた上半身がゆっくりと上がっていき、再び、最初に見た何かを包み込むような動きに戻っていった。

 

 波だ。今の女性の動きを形容する言葉を自分の辞書で探すと、それくらいしか出てこない。それも単調な規則的な動きを繰り返す波ではない。大きくなったり、小さくなったり、力強かったり、か細くなったり、変化を繰り返し、どれほど計算しても正確に予想することが難しい。つまり、自然に限りなく近い・・・・


「駆け込み乗車はおやめください」


 汽笛とともにドアが閉まり、やがて、乗っている電車が動き出した。振動が足元から伝わってくる。窓の外で、駅の風景が流れ出し、踊る女性の姿は私の視界から遠ざかっていった。

 

 どうやら、女性の姿が完全に見えなくなるまで、私は窓に手を押し当て、食い入るように前かがみで駅のほうを見続けていたらしい。電車の窓についた自分の手形を見て、ようやく我に返った。日経を広げていたおじさんがチラチラこちらを伺っている。顔が熱くなり、視線を逸らした。


 学校の授業中や同級生との会話中も、私は女性の動きを思い出しながら、机の下で指先をぎこちなく動かし続けていた。彼女の指が小魚だとしたら、私の指は彫刻のイモムシ。真似でなんとかなるものじゃないし、彼女をどうにか探して、厚かましくも個人レッスンを頼む気概なんて微塵も持ち合わせていない。


 それでも、私はしばらくは駅に行くたびに、あの踊る女性を探すだろう。この世の人じゃないみたいだったもの。

 




 


 





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る