32湯目 風呂上りに
1000人は入れないけど、100人は入れる「千人風呂」から上がった後。
1階の廊下には、打って変わって和風な空間が広がっていた。
まるで、昭和の映画に出てきそうな、古い木造建築の家屋に、レトロな趣のランプが灯っていた。
畳敷きに、障子と縁側。
非常に落ち着く空間だった。
そこで、寝そべりながら、私は大事なことを聞き忘れていたことに気づいた。
いつもの温泉蘊蓄についてだ。
今回は、フィオの話を優先したため、忘れていたのだ。
「琴葉先輩。この温泉は、どんな泉質の温泉で、どんな効能があるんですか?」
自然と「泉質」という言葉が出てくるあたり、私もすっかり「温泉」にハマってしまったらしい。
琴葉先輩は、上半身だけを起こして、話してくれるのだった。
「ここ、上諏訪温泉は長野県有数の湯量を誇る、単純温泉、あるいは単純硫黄泉と言われてるわ。自律神経不安定症、不眠症、うつ病に効くそうよ。源泉温度は65度ね」
相変わらず、まるでNHKのアナウンサーのように、的確すぎる解説をしてくる人だと私は思うのだった。だが、同時にこの知識量からすると、徹底して調べないと気が済まない性格なのかもしれない。
しばらく畳の上で、仰向けに寝そべっているうちに、私たちは4人とも自然と意識を失って、寝息を立てていた。
温泉ツーリングの醍醐味は、ある意味、こうした「湯上がりのまったり感」にある。時間を気にして、先を急ぐツーリングでは、これは味わえない。
1時間近くも寝ていただろうか。
おもむろにまどか先輩が起き出し、ついで琴葉先輩、私、最後にいかにも眠そうな寝ぼけ
「眠い~」
子供のように眠そうに目をこすり、ウトウトとしている彼女は可愛らしかったが、まどか先輩には、彼女なりの「プラン」があるらしかった。
その証拠に、
「じゃあ、飯食いに行くぞ」
言い出して、そのまま2階の食堂へ行ってしまった。ちょうど昼過ぎだったため、誰も反対はしなかったが。
この洒落た建物の2階は食堂になっており、洋風の細長い四角い窓がある、大きなホールになっていた。
そこのテーブル席に座りながら、メニューを見ると、信州そばやラーメン、肉うどん、カレーライスなどが写真つきで載っていた。
ひとまず食事を摂った後、自由に出入りできるという、バルコニーに出ると、そこからは眼下には、陽光に照らされて光り輝く諏訪湖が一望できるのだった。
私たちはこの歴史的な洋風建築物のバルコニーの縁に手を置いて、互いに風景に集中する。
そんな贅沢な時間を使いながらも、のんびりと諏訪湖を見下ろしていると、
「じゃあ、そろそろ公園に行くか」
不意にまどか先輩が呟いた。
「公園に何かあるんですか?」
「足湯だ」
それは、彼女らしいというか、足湯大好きなまどか先輩らしい、選択だと私は思うのだった。
片倉館にバイクを置いたまま、歩いて横断歩道を渡り、道の向こうに渡ると、すぐ目の前には諏訪湖畔の緑地が広がっていた。
その湖畔に伸びる細長い公園を5分ほど歩いて行くと。
立派な木の庇がついた、半露天と言った感じの不思議な物が現れた。
公園によくあるような東屋に見えるが、柱の上に庇のついた屋根を置いているだけで、両面は窓もなく、開放的になっている。
それが途中で折れ曲がって数メートルも続いている。
足元を見ると、
「まどかは、相変わらず足湯、好きね」
などと琴葉先輩は口走っていたが、私たちは、この無料の足湯に、互いに足を浸す。
湖面までは少し距離があったが、緑の芝生の向こう側に、一本の大きな松の木が見え、その向こうに薄っすらと湖面と、さらに山の稜線が見えた。
何とも言えない、癒される空間だった。
私たちは、互いに足を浸しながら、しばらくは無言で、この「癒し」を楽しんでいたが。
不意に、私自身が、聞いてみたいことがあったことを思い出していた。それは「バイク」に関することだった。
私より、経験値がある先輩たちならわかるかもしれない、という期待を込めて、口走っていた。
「あの。私、思うんですけど。バイクって、危ない乗り物ですよね。どうしたら事故に遭わないか、先輩たちわかります?」
我ながら、ふわっとしすぎる、漠然とした質問だとは思いつつも、聞かずにはいられなかったのは、もちろん、「事故」を起こすことで、家族や周りの友人に迷惑をかけたくないから、という気持ちもあるし、自分自身が痛い目なんて遭いたくはないというのもある。
すると、すぐ隣に座っていた琴葉先輩が、いつも通り、柔らかな笑みを浮かべ、眼鏡越しに優しい瞳を向けてきた。
「それはね、大田さん」
「はい」
「予測運転をすることよ」
「予測運転、ですか?」
「ええ。バイクに限らず、車の運転にも言えることだけど、公道を走る時は特に、常に『先を読む』ことをするの」
「どういうことですか?」
いまいち、理解していないと思ったのだろう。彼女は丁寧に説明してくれるのだった。
かいつまんで彼女の話をまとめると。琴葉先輩、曰く。
公道で走る際には、常に「先を読む」ことが最も重要である。
つまり、交差点では車が強引に右折してくるかもしれない。横断歩道では子供や高齢者が飛び出てくるかもしれない。駐停車している車の陰から人が出てくるかもしれない。雨で前のバイクが滑ってコケるかもしれない。高齢者が運転する車が突然、ウィンカーも出さずに左折するかもしれない。などなど、取り上げるとキリがない。
最後に、琴葉先輩は締めるように、重要な一言を発した。
「逆にこの、『かもしれない』を常に意識してれば、バイクでもそうそう事故らないわ」
それを黙って聞いていたまどか先輩が、
「さすが警察官の娘だな」
と呟いたので、私の方が驚いてしまった。
「えっ。琴葉先輩のお父さんって警察官なんですか?」
「ええ、まあ」
「どうして黙ってたんですか?」
「だって、別にわざわざひけらかすことじゃないでしょう?」
まあ、それはそうだろうけど、さすがに驚いた。同時に、あの正確極まりない安全運転は、恐らく父親の影響だろうと予想した。
恐らくは、彼女の父は、交通安全課にでも務めているのだろう。
彼女は、その父親から、交通安全の何たるかを、小さい頃から叩きこまれた可能性がある。
「父のことはともかく。一つ確実に言えるとすれば。バイクは車以上に、安全運転した方がいいわね」
「そうなんですか?」
「ええ。だって、鉄の箱で守られている車と違って、バイクは接触しただけで、大怪我するのよ。なまじスピードが出るから無茶な運転をする連中は多いけど、事故を起こしたら、タダじゃ済まないし、下手をしたら人生を棒に振ることにだってなりかねない。それくらい怖い乗り物なのよ」
警察官の娘が言うと、さすがに説得力がある。と、同時に私は、ついこの間、教習所で見た「交通事故」の映像を思い出していた。
交通事故は、何よりも怖い。自分が加害者にも被害者にもなる可能性があるからだ。
改めてそう思い直していたら。ふと、さっきからフィオがおとなしい、と思って、横に目を向けて、琴葉先輩の肩越しに見ると。
器用なことに、足湯に足をつけたまま、彼女は目を瞑って眠っていた。隣にいるまどか先輩の肩に身を預けながら。ついさっきまで、片倉館であれだけ寝ていたのに、また寝ている。寝る子は育つ、と言うが、寝顔すらも可愛らしい天使のようだった。
「フィオ。寝てるし……」
「まあ、寝させてやれ」
こういう時、まどか先輩は普段の豪放磊落な性格とは打って変わって、優しいところがある。
出発前に下道と高速で、フィオと軽く揉めたのが嘘みたいに、彼女を気遣っていた。
まどか先輩は、彼女を決して起こさないように、出来るだけ体を動かさず、黙って足をお湯につけていた。
「まどか先輩。フィオと喧嘩してるわけじゃなかったんですね?」
「そんなわけあるか。大体、何でそう思う?」
「だって、出発前に……」
「ああ」
私が言わんとしていることを察したのか、まどか先輩はバツが悪いような苦笑をしてみせて、
「あれは、何というか、羨ましいと思っただけだ」
「羨ましい、ですか?」
その真意を語ってくれるのだった。
「だって、そうだろ? バイク乗りなんてのは、大抵金欠なんだ。バイクには金がかかる。なのに、こいつは学生のくせに、家が金持ちだからな。ちょっとした嫉妬みたいなもんだ」
「そういうこと。変な心配しなくても、大丈夫よ、大田さん。フィオとまどかはじゃれ合ってるだけだから」
「そんな、犬や猫じゃねえんだから」
「同じようなものよ」
「何だと」
「何よ。違うって言うの?」
結局、今度はまどか先輩と琴葉先輩が言い争いになっていたが、それこそこの二人の付き合いの長さから推し量ると、じゃれあいだろう。
「ふぁぁぁ。おはよう」
二人が言い争っているうちに、フィオが目を醒ましていた。
改めて3人の先輩たちの意外な一面を見た気がした。
そして、いよいよバイク乗りにとって、そして温泉ツーリング同好会にとっても、最も過酷な季節がやって来る。冬だ。
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