第20話海水浴に行く話(その1)


 照りつける日差し。あちらこちらに陽炎が立ちのぼり、うだるような暑さが人々の気力を奪っていく。

 しかし、今日の俺は絶好調。テンションも高い。


「準備オッケー、じゃな」


「うん、オッケーだ。じゃあ、行こっか」


 なぜなら、今日はハクと海に行く日だから。


 ***


 大きな袋を手に提げて、二人で駅までの道を歩き始める。

 袋の中にはいくらかの遊び道具と俺の水着が入っているわけだが、こうして持って歩いているとちょっと多すぎたような気がしないでもない。

 それなりに厳しい日差しの下で、ハクの調整があってもだいぶ暑い。

 大きな荷物を持っているとなればさらに暑いわけで、……つまるところ汗ばむわけだ。

 ハクの温度調整はあまり大きく調整できないらしく、日差しを和らげるのが限界。できる限り涼しい格好をしたうえで制汗剤もたっぷりと使用しているし、汗拭きシートもたくさん持ってきているのだが、ハクの感覚がどれほど鋭敏なのかは分からない。


「じゃからと言って、そう離れられると困るのじゃが」


「いやー、こう暑いと汗を止められないからねぇ……」


「はぁ。構わん、今のおぬしはそれほどにおわんのじゃ」


「ほんと? やっぱり制汗剤のおかげかな」


「そうじゃろうな。正直、その臭いの方が強いゆえ、おぬしのにおいに気を回しておられんわ」


 スンスン、と鼻を動かして、軽く眉を寄せるハク。

 一応無香料の物を選んではいるのだが、それでもハクは気になるらしい。

 全身に浴びるという選択肢を取らなくて良かった。そうなったら汗臭さとは別の意味で避けられていただろう。

 そうでなくても避けられるだろうからやめたわけだが。


「朝からこれだと、海で動けるか怪しいねえ」


「水に浸かれば少しはマシじゃろうて。……砂浜は難しいやもしれんが」


 遊び道具の中にはビーチボールやスコップも入っているのだが、この日差しで熱された砂浜の居心地がいいとは思えない。

 雨よりかはマシだが、猛暑というのも困りものだ。


「水はこまめに取らないとね。ハクの作ってくれたレモン水もあるし」


「惜しむでないぞ? 市販のスポーツドリンクのほうが優れておるからな」


「さすがに惜しまないよ。惜しむくらいなら最初からスポドリ飲むし」


 ハクの作ってくれたものはしっかり味わうまでが一セットなのだ。お腹がいっぱいになるまで飲んで食べるほうが、ハクも喜ぶ。

 それを示すように、さっそく水筒からレモン水を飲む。

 スポーツドリンクのような甘ったるさは無く、むしろ酸っぱさと塩気が強い。

 美味しいかと聞かれればちょっと首をかしげるが、どちらが好きかと聞かれればこちらだ。


「美味くはないじゃろ」


「その分、糖分もカロリーも気にならないから、俺は好きだな」


「じゃろうな」


 当たり前のように答えつつも、嬉しそうに、口元に手を当てて笑うハク。

 俺が色々と健康に気を使っているのは知っているものの、美味しくないものを提供したことに不安があったのだろう。

 その気になれば美味しいものも作れるのだろうけども、そこは俺の好みに合わせてくれたようで。ハクの作ったものなら泥水でも好きになるだろうというのに、そこまでしてくれたとなれば俺が嫌だという道理はどこにもない。

 ハクに感謝の言葉を伝えて、もう一口レモン水を飲む。


「いやー、思ったより歩いたね。ハク、大丈夫?」


「わしは大丈夫じゃ。むしろ、わしに付き合わせた形じゃろうに」


「それは良いよ。ハクを迷い込んだ子供にするわけにはいかないし」


 駅に着くまで飽きることなく会話していたためにそこまで感じなかったが、やはりそれなりに歩いた疲労はある。

 住んでいるところから一番近い駅は大学を挟んで向こう側。もっと言うなら、大学をまっすぐ突っ切った場所である。当然、ハクは大学の関係者ではないので迂回するルートになる。

 以前行ったケーキ屋さんは大学を通らずに行ける場所だったが、10分ほど。大学を完全に迂回しなければならない駅には、さらに倍近くかかる。

 つまり、それなりに歩いたのである。これから海で遊ぶのに。


「車持ってればいいんだけどね……」


「おぬし、免許を持っておるのか?」


 切符を買い、改札を通りながらグチると、ハクが反応する。

 自家用車があれば海まですぐに行けるというだけで、そこまで深い意味があったわけではないのだが、ハクは少し驚いた様子だ。


「一応は持ってるよ。いわゆるペーパードライバーだけど」


「ほぉ。ぬ、ああ。そんなそぶりを見せんかったじゃろ、てっきり持っておらんものかと思うとった」


 そんなに変だろうかと俺が首を傾げたのに気付いて、ハクが理由を話してくれる。

 日常生活で免許を持っている素振りを見せるようなことがあるのだろうかともう一度首をかしげると、今度はハクも同じように首をかしげる。


「これは、あれかな。常識の違いかな」


「常識……。なるほど、おぬしは持っておるのが常識なのじゃな」


「そういうこと。ハクの周りは持ってない人……妖狐が多かったんだ?」


「そうじゃな……仕事柄としても、種族柄としても、免許を取るものは少ないのじゃ」


 駅のホームのベンチに腰を下ろして、一息つきながらハクの周りについて聞いたのは初めてだな、などと思う。

 それ以前に、妖狐のことを良く知らないので、あまり聞くようなことが思いつかないというのもある。見た目と違って何でもかんでも聞きたがるような年でもないし。


「ハクも持ってない……身長的に厳しいのか」


「ふむ。そういえば、そうじゃな……。取ろうとも思わんかったが、わしじゃと車の運転をするのは難しかろうな」


「なんとかはなるだろうけどねぇ。そこまでして乗る理由も無いもんなぁ」


 こうして車があれば便利だろうと思うことはあれども、実際に乗ってみるとそこまで便利なものでも無い。なんだかんだで精神を使うし、使用頻度と維持費を考えると電車代とそこまで大きな差は無い。

 俺だって、男性の平均から見れば身長が低いが、ハクはさらに10センチ以上低い。俺でもシートの高さに苦労した覚えがあるし、ハクが運転しようとすればそれなりに面倒くさいだろう。

  湿った風を感じながらボーっと考え事をしていた、そんな数拍の沈黙に、電車が来るアナウンスが入り込む。

 この電車に乗って2駅先で降りれば、すぐそこに海がある。


「意外と、人は少ないのじゃな」


「そういう時間は避けたからね。朝方はもうちょっと多いかな」


「なんじゃ、わしに合わせたわけではなかったのか」


 ハクの起きる時間がおよそ10時前後で、そこから駅まで歩けばちょうど人の少ない時間帯に電車に乗ることができる。俺自身は人の多い電車が苦手だし、ハクにわざわざ早起きしてもらう理由も無いという事だったのだが。

 いろいろと端折って、ハクが自然に起きるまで待っているという説明をしていたのがハクの意地悪そうな声の原因である。

 確かに、ハクが早起きできる妖狐だったとしてもこの時間まで電車に乗らなかっただろうと考えると、的確な説明ではなかったかもしれない。


「ちゃんと説明するべきだったね。ごめん」


「相も変わらず素直じゃのう。怒ってはおらぬし、困らせるつもりもないぞ。おぬしが言ったことも嘘でないのは分かっておる」


 ちょっと考え無しにハクのせいにしすぎたかもしれないと、素直に謝る。

 早起きしなければいけない理由があれば、ハクはそれなりに早起きするわけで、早起きする理由は無いと言うほうが正しかったのだ。

 仕方のないものを見るような目で、俺の謝罪を受け取りつつも、ハクはしれっと意地悪をしたと白状する。


「誤解をさせるような表現をしたのは事実だし……」


「それを言うのならば、わしのほうが責められるべきじゃろうて」


 ワンピースの短い袖を揺らしながら、おどけたように言うハク。

 その割に足元が静かなので、あまりその意見には賛同できない。

 ハクの言葉が十二分に理解しやすく、誤解を招かない。と言うことはさすがにできないが、少なくとも俺はできる限り誤解しないように努力するし、結果として誤解していたとしてもそれは俺の落ち度だろう。


「ハクを責めるようなことはしないよ。むしろ、誤解したら俺を叱ってくれていいよ」


 当然、胸を張って俺はそう言う。

 そんな俺を見て、いつも通りに呆れたような表情を浮かべるかと思いきや、不意に目をそらすハク。

 俺もつられて窓の外を見れば、キラキラと輝く海面が見えるようになっていた。


「海だ」


「ん、ああ。海じゃな」


 海に来たのは久しぶりで、何となくしみじみとした感情とともに情景を説明するだけの言葉を漏らす。

 流石にそこまで素直な表現が飛んでくるとは思っていなかったのか、ハクは一拍生返事を挟んで復唱する。

 その反応に、少しだけ恥ずかしくなってハクの顔を見る。


「……綺麗だなぁ」


「なんじゃ、そんなに海が……って、どこを見ておる」


 海の青が映りこんで輝くルビーの瞳に、つい心からの賞賛が漏れてしまった。

 パチリ、と一つ瞬きをしたハクが俺に瞳を向けると、いつものように呆れた表情をした。

 どこか上の空だったようだが、完全に見とれてしまって細かなことは分からなかった。

 理解のために全力を尽くすと思ったそばからこの調子では、本当にハクに叱られてしまうかもしれない。


「ほれ、降りる駅じゃろ」


「うん、ここだ。今日は、楽しもうね」


「そうじゃな」


 ニカっと、珍しい笑顔を見せたハクの背中を追って、電車を降りる。

 太陽の眩しさに目を細めて、荷物を持ちなおす。


 ――いよいよ、海水浴本番だ。

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