第33話
一ヵ月ほど前に買った三種類の熱帯魚たちは、僕の水槽の暮らしに慣れたようで毎日楽しそうに泳ぎ回っている。
今日は栞が体調不良で仕事を休んでいた。
仕事が終わってから見舞いに行きたかったのだが、栞は院長である母親と暮らしてい
るので、顔を見る事すら出来なかった。
院長はもう病院に居ないので、帰宅する前に電話でもしよう。
今日は真っ直ぐ家に帰り、僕の作品たちを眺めながらビールでも飲もう。
一ヶ月ほど前に難しい名前の警察が来てしまったので、目立つ行動は避けようと大人しくしていた。
今度は僕の家に警察が来るんじゃないかと周りを警戒して、コレクションが増えたのに祝う気にもなれなかった。
だから今日の予定はこれで決まりだ。
小山るうがコレクションに加わったお祝いをしよう。
そうと決まれば早く帰ろう。
そう思って振り返ると、大きな音を立てて扉が開いた。
内田 栞:「ちょっと! ビックニュースよ!!」
目黒 修:「うわぁっ!?」
突然オフィスに飛び込んできたのは、体調不良を理由に休んでいた栞だった。
内田 栞:「修! ビックニュースなのよ!!」
興奮状態の栞は僕に詰め寄って来た。
おかげで僕は背後のデスクに腰をぶつけてしまった。
目黒 修:「わ、分かったから栞、落ち着いて」
栞を僕から離し、反っていた腰を元に戻す。
栞は深呼吸をして僕を見上げた。
内田 栞:「……赤ちゃんできたの」
その言葉に、僕の腰をさすっていた手が止まる。
目黒 修:「え……?」
驚いた僕はそれ以上声が出せず、僕を見上げている栞の顔とワンピースに包まれたお腹を交互に見つめ、低速な思考回路がようやく言葉の意味を理解した。
目黒 修:「ほんとかっ!?」
栞の肩を掴んで目を丸くする。
内田 栞:「えぇ」
頷いた栞は赤くなった顔で笑顔を見せ、肩に掛けている小さなバッグのファスナーを開けた。
内田 栞:「ね?」
栞は真新しい母子手帳を、僕に差し出した。
僕は手を伸ばし、一瞬だけ触れるのに戸惑ったが、しっかりとこの手で受け取った。
母子手帳の表紙に描かれている母親に抱かれる赤ん坊を見つめる。
僕の子供……。
小さな手帳がとても重く感じ、驚きが喜びに変わる。
だがその喜びは、不安や迷いも連れて来た。
連続殺人鬼が命の親になれるのだろうか……。
内田 栞:「6週目だって」
栞の嬉しそうな声に顔を上げる。
栞の大きな瞳は少し潤んでいた。
僕はそんな栞の腕を掴んで引き寄せ、強く抱きしめた。
栞のお腹に宿った命の父親は、この僕だ。
代わりなんて居ない。
僕がこの子の父親なんだ。
栞の腕が僕の背中に回され、ふつふつと実感が湧いてくる。
目黒 修:「愛してる」
耳元で囁き、栞と向き合う。
目黒 修:「あのさ……」
いつか、言おうとしていた言葉。
指輪を用意してから、かっこよく言おうとしていた言葉。
ベタに夜景が綺麗なレストランで言おうと考えていた言葉。
栞と料理をしながら、あるいはそれを食べながら言おうと考えていた言葉。
体を重ねたあと、腕枕をしながら言おうと考えていた言葉。
眠った栞にこっそりと指輪をはめるサプライズをしてから言おうと考えていた言葉。
栞の足元に跪いて、指輪を差し出しながら言おうと考えていた言葉。
バラの花束をプレゼントしながら言おうとしていた言葉。
目黒 修:「僕と結婚してください」
色々プロポーズのシチュエーションを考えてはいたが、仕事場であるオフィスで言うなど想像もしていなかった。
‟いつか”と思っていた瞬間は突然訪れた。
内田 栞:「はい」
栞の返事だけは僕が想像しているものと同じで安心した。
栞は潤んでいた瞳から涙を流す。
僕はもう一度、栞を引き寄せ強く抱きしめる。
そしてどちらからともなく、唇を重ねた。
栞のすべてを、僕たちの間に宿った命を包み込むような、誓いのキス。
幸せは涙の味がした。
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